一言法話

2022-07-20 00:00:00

62.あたりまえ その2

 

(前回の続き)
井村医師は、大阪の岸和田病院に内科主任として入職し、患者さんの診療に精勤していましたが、長女の飛鳥さんが生まれた直後に右膝に悪性腫瘍が見つかりました。転移を防ぐために右脚を切断したのですが、その後、腫瘍は両肺に転移してしまいました。癌が肺にも転移していると知った時、「覚悟はしていたものの、一瞬背中が凍りついた」と語っています。そして、ある日の夕暮れ、井村医師は不思議な体験をします。
「スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが輝いてみえるのです。 アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊くみえたのでした」

これはいったいどういうことでしょうか。
普通であれば、井村医師のような状況になったならば、心平穏であることさえも難しく、がっくりと落ち込むような日々を送ってしまうでしょう。しかし、そんな中で井村医師は自らが医師であるからなおのこと、逃れることのできない自分の死を本当の意味で覚悟するようになっていかれたのだと思います。だからこそ、命ここに有ることの有難さと尊さを実感し、命あるものすべて(雑草や電柱や小石までも)の輝きが井村医師の心に映し出されたのでしょう。
お大師さまのお言葉に

心暗きときは遇うところ悉く禍なり 眼明らかなるときは途に触れて皆宝なり

とあります。

私達も仏さまのような心の眼でまわりを見渡すことができたならば、あたりまえにあるものだと思っていたような様々なものが、実は光り輝く尊いものなのだと観ることができるはずです。
逆に欲にまみれた濁った眼でもって日々を過ごしたならば、まわりの輝きに気付くことはできません。それは結果として禍(わざわい)であるといえます。