一言法話

2023-04-21 06:44:00

89.諦めるとは


このところの北海道はあまり気温も上がらず、今年の桜はゆっくり時間をかけながら満開へと向かっているようです。こういう年は長い期間、桜の美しさを味わえますね。
しかし、そんなきれいな桜の花も遅かれ早かれいつかは、散ってしまいます。

散る桜 残る桜も 散る桜

この句は、子供たちと手毬をしたり、かくれんぼをしたりすることが何よりも好きだったといわれる良寛さんの辞世の句だといわれています。
桜の花と同じように私たちも、いつかは散ってしまう存在です。いつかは死を迎えることを前提に私たちはこの世に生まれてきたわけです。そのいつかは、いつなのか、誰にもわかりません。明日を迎えられる保証だって実はないわけです。そう考えると命とは儚いものです。しかし、そんなことは忘れて私たちは普段何気なく生きています。
良寛さんのこの句は、死は他人事ではないのだ、自分にも必ず訪れるものだと肝に銘じて生きなさいと訴えかけます。

「諦める」という言葉があります。今の日本では断念する、ギブアップするといったようなマイナスの言葉として使われていますが、もともと「諦める」は仏教語です。仏教での「諦める」は、物事を自分の中で誤魔化さず明らかにすることをいいます。それがたとえ自分にとって都合の悪いこと(老いること、病に犯されること、死等々)であったとしても、そのことをきちんと受け止めることによって、自らの心が作り出す様々な苦しみを乗り越えることができると仏教では考えます。

いつかは自らに訪れる死は、自分にとって最たる苦しみであり、誰しも考えたくないものでしょう。しかし、いくら望まなくても死は、分け隔てなく誰にでも訪れるものだと明らかに見て、覚悟を決めることができたならば、本当の意味で死を「諦める」ことができるでしょう。
そして、自らの命はいつかは散ってしまう儚いものだと明らかに見ることができたならば、今日という一日をもっと大切に、有難く、責任をもって生きなければという思いが強くなるはずです。