一言法話

2021-10-10 00:00:00

34.どこまで人を許せるか

 

中学校、高校、養護学校の教員を退職後、知的障害者が自由に集える場「のらねこ学かん」を自費で建設し、全国各地で講演を行っている塩見志満子さんという方がいらっしゃいます。
小学二年生だった長男を白血病で亡くし、それから八年後に次男をも亡くしてしまいます。これはその次男が学校のプールに沈んで、亡くなってしまった時の話です。

近くの高校に勤めていた私のもとに「はよう来てください」と連絡があって、タクシーで駆けつけたらもう亡くなっていました。子供たちが集まってきて「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。「どうしたんや」と聞いたら十分の休み時間に誰かに背中を押されてコンクリートに頭をぶつけて、沈んでしまったと話してくれました。
母親は馬鹿ですね。「押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、学校も友達も絶対許さんぞ」という怒りが込み上げてくるんです。新聞社が来て、テレビ局が来て大騒ぎになった時、同じく高校の教師だった主人が大泣きしながら駆けつけてきました。そして私を裏の倉庫に連れていって、こう話したんです。
「これは辛く悲しいことや。だけど見方を変えてみろ。犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、という罪を背負って生きてかないかん。わしらは死んだ子をいつかは忘れることがあるけん、わしら二人が我慢しようや。うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、校医の先生に心臓麻痺で死んだという診断書さえ書いてもろうたら、学校も友達も許してやれるやないか。そうしようや。そうしようや」
私はびっくりしてしもうて、この人は何を言うんやろかと。だけど主人が何度も強くそう言うものだから、仕方ないと思いました。それで許したんです。友達も学校も……。
こんな時、男性は強いと思いましたね。でも今考えたらお父さんの言う通りでした。争うてお金もろうたり、裁判して勝ってそれが何になる……。許してあげてよかったなぁと思うのは、命日の七月二日に花がない年が一年もないんです。三十年も前の話なのに、毎年友達が花をたむけてタワシで墓を磨いてくれている。
もし、私があの時学校を訴えていたら、お金はもらえていてもこんな優しい人を育てることはできなかった。そういう人が生活できる町にはできなかった。心からそう思います。

壮絶な体験、そして想像を絶するような思いをされた塩見さん。私たちも塩見さんを見習い……していきましょう、などと軽々しく言うことなどとてもできませんが、しかし、塩見さんはご主人の言葉を受け、相手を「許す」ことができたことにより、はじめて自分自身をも救うことができたと言えるのでしょう。