一言法話

2021-05-20 00:00:00

20.4人の妻

 

お釈迦さまのたとえ話です。

ある町に4人の妻を持つ男がいました。
第1の妻は彼が最も愛する女です。働いている時も休んでいるときも、決して離したくないと思っています。毎日化粧をさせ、寒い日も暑い日も彼女をいたわり、欲しいものを買い与え、どこへでも連れて行き、食べたいものは何でも食べさせました。
第2の妻は人と争ってまで得た女で、いつもそばにおいて可愛がっていますが、第1の妻ほど愛してはいませんでした。
第3の妻とは一緒にいると楽しいのですが、ずっと一緒にいると互いに飽きてきて、離れる時間が長くなると、会いたくなるようなそんな仲です。
最後の第4の妻には、ほとんど使用人のような扱いをしました。彼女は毎日忙しく立ち回り、夫の意のままに働いています。しかしながら夫からは何の愛情も受けず、慰めの言葉さえ掛けてもらった事がなかったのです。夫は第4の妻をほとんど気にもかけていませんでした。
ある時、彼は第1の妻を呼んで、「私はこれから遠い国へ行かねばならないが、私と一緒に行ってくれるか」と尋ねました。普段から勝手気ままな彼女は「何を言い出すの、そんな遠いところへ行くのはいやです」と言って聞きませんでした。男は落胆し、第2の妻を呼びました。「おまえは私と一緒に行ってくれるか」すると第2の妻は「あなたが一番大事にしていた女性だって一緒に行かないのに、私が行くことはできませんわ」と言って辞退します。次に彼は第3の妻に頼みましたが、彼女も「町の外れまではお送りしましょう。でもお伴はいやです」と断りました。男は半ばあきらめながら第4の妻に「私と一緒に行かないかい」と尋ねますと、彼女は「私はあなたにお仕えしている身でございます。どこまでもお伴いたします」と答えました。彼は仕方なく、日ごろ気にもかけなかった第4の妻を連れて旅立ちました。

この話はたとえ話ですから、設定と登場人物それぞれに意味があります。「ある町」とは「今生きている世界」です。「遠い国」は「死後の世界」。「第1の妻」とは彼自身の「肉体」です。第1の妻を愛する様子は人間が自分の身体を愛する様子をあらわします。「第2の妻」とは彼の持っている「財産」です。誰かと争ってまで手にした財産に人はいつまでも執着します。「第3の妻」とは「父母、兄弟、縁者たち」のことです。生きている時はお互いに親しみ、離れがたい間柄ですが、死を迎えたときは墓場までしか送ってはくれません。
「第1、第2、第3の妻」はいずれも死後の世界まではついてきてはくれません。

では「第4の妻」が意味するものは何でしょう。それは「こころ」です。
このお釈迦様のたとえ話は、ほかの事ばかりに目を向け、いつまでも自分に寄り添ってくれる「こころ」をないがしろにし、ケアすることを忘れている私達への警告だといえます。