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2023/07/22 19:24

update 雑学 知っておいて 得する 得しない。

みなさんご存知ですか?

「 賢し人 」 

さかし-びと と読みます。

意味は、かしこい人、賢人(けんじん)と言うことですね。

文字 通り

 

古文を学んでいる方なら、ご存知と思います。

鎌倉小町 人物a-2.jpeg

 推古紀

「五百いおとせにして乃今いましいまさかしひとに遇ふ」 

 

また、しっかり者として

源氏物語  帚木 で

「このさかし人はた、

軽々しきもの怨じすべきにもあらず、

世の道理を思ひとりて恨みざりけり」

 

【現代語訳】

この賢し女はいかにも

軽々と嫉妬口にする様子もみせず、

男と女の情理をわきまえ知って恨んだりいたしません。 

「2023 源氏物語を正しく読むために」より

鎌倉小町演舞5.jpeg

 

ここで言う 賢し女(さかしめ):賢く優れた「女子(おなご)」のこと。

鎌倉武将 畠山重忠をめぐる女たち 玉姫

もうひとつ

賢し顔(さかしがお):自分でかしこいと思っている顔つき。

 

 

では

賢し人(さかし-びと)

意味は、

 

  1.  利口そうに振る舞う人。物知りぶること。また、そのさま。かしこだて。

  1.  自ら進んでする人。また、そのさま。

  1.  よけいな世話を焼く、出しゃばる、おせっかいな人

  1.  さし出口を言う人。讒言 (ざんげん) 。

[名・形動]《「ら」は接尾語》だけで

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賢さの賢人・賢者のように振舞う仕草をする偽り者に変わります。

日本語て、 意味深く

昔の方々は、凄いですね。

 

 

 

なんで、こんな雑学を・・・と、

実は、

十七世紀のスペインの著述家であり、哲学者、修道士、

「バルタザール・グラシアンの賢人の知恵」

を手にし、ウィキペディアで調べていたら、

と言う訳でした。

 

鎌倉小町演舞4−2.jpeg

 

 

 

「成功するための知恵」

自ら運命を切り開く

賢人は、何事にも偶然はないことを知っている。

誰でも幸運を掴む能力は備わっているのだ。

ただし運命にじっと身を任せるよりも、

自ら運命を切り開いていく人になろう。

・・・・

・・・・

それがないことは最大の不運だ。

「バルタザール・グラシアンの賢人の知恵」より一部を引用させていただきました。

 

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このイラストは

創作神楽

『女たちの畠山重忠』&『源実朝に寄せて』

当庵ホームページ「お知らせ」掲載で描いたものです。

 

加えて、

源頼朝は、鎌倉に三つの大きな寺院を建立しました。

鎌倉三大寺院すね。

その中の一つ、『永福寺』 

建立に携わった畠山重忠

縁合って ご紹介させていただきます。

 

国指定史跡 永福寺跡(ようふくじあと)

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こんな自然の中に寺院が建っていたなんて、

鎌倉市 「二階堂」の由来の地

 

 源頼朝によって建立された永福寺(ようふくじ)の本堂を二階堂と言ったことから

この地を二階堂と呼ぶようになったといわれています。

源義経、藤原泰衡など、頼朝の奥州攻めで亡くなった武将たちの鎮魂のため、

平泉の中尊寺二階大堂を模して建立され、建久5年(1194年)に

二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の山堂が完成しました。

 

昭和58年〜平成8年の発掘調査結果、

二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂を中心とする

壮大な伽藍や庭園の存在が確認されました。

 

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伽藍の配置は三堂が複廊を介して南北方向に一列に並び、

両側の堂からはL字型の廊が付属し、

中門・釣殿が造られていました。

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こうした伽藍配置は他に例を見ないもので、

当時の国内でも有数の規模を持つ寺院でした。

 

鎌倉幕府から手厚い保護を受けてましが、

応永12年(1405年)に焼失し、以降は再建されませんでした。

鎌倉市の永福寺跡ホームページより

 

是非、「AR 永福寺」でご覧ください。

また、永福寺跡へ足を運んで頂きまして復元CGでご覧ください。

先日、永福寺跡に観光で来られていた中国の方に

「AR 永福寺」アプリを教えてあげました。 

喜んでいただきましたよ!

 

 

鎌倉にお住まいの方でも なかなか足を運んでいらっしゃてないようです。

途中で、瑞泉寺〜天園ハイキングコースへ向かわれるんですか〜ね。

 

 

岩手県平泉町から寄贈された「中尊寺ハス」

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数年後には、鎌倉名所になりますね。 

 

鎌倉三大寺院

二階堂の永福寺(国指定史跡 永福寺跡)と雪ノ下の勝長寿院(勝長寿院跡の碑)

どちらも廃寺

Top畠山重忠をめぐる女たち.docxのコピー.jpg鎌倉小町庵より

残る大寺院は、鶴岡八幡宮でした。