◆2021年度の特別シンポジウムの詳細

歴史と文化を学ぶ会

十周年記念 特別シンポジウム

 

10月31日(日) 於ホテル メトロポリタン高崎

 

昨年からコロナ禍の影響により大勢の方々にお集まりいただくことができず、

本日、二年遅れとなりましたが、10周年記念としてシンポジウムの開催の運びとなりました。

 

佐藤信先生、高田貫太先生、右島和夫先生の三名をお招きし、

「古代東アジアにおける交流の諸相」をテーマにご講演いただきました。

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第1部 

■ 佐藤 信先生 「上野三碑と古代東アジア」

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 先生は、多胡碑、金井沢碑、山上碑を論じながら

これら三古碑の社会的背景には、渡来人、渡来文化と在地社会との交流があり、

とくに渡来人と在地豪族との結びつきがあり、日本列島の古代人は、

渡来人を排斥することなく、和やかに迎い入れたと言われます。

 

上野三碑から見えてくるものは、

当時の朝鮮半島の先進文化、仏教、漢字等がもたらされ、

またこれを迎え入れる在地の人たちの層もありました。

 

文字文化は、言葉を文字で記して人々に公示すること。

これは日本の中央集権的な律令体制への一歩をしるすものでもあり、

中央から地方への命令の伝達、また地方から中央への情報の集約等にも、

充分効果のあったものであり、口頭伝達に代わって、文字伝達が機能したことは、重大であったと。

 

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■ 高田 貫太先生 「朝鮮半島の前方後円墳」

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 朝鮮半島の西南部の栄山江流域に、前方後円墳が築造されている。

前方後円墳は、日本独自の墳墓である。そしてその分布は、倭王権の支配する地域と重なる。

それがなぜ、朝鮮半島に存在するか。

これを今回論じるのが先生の目的でもあります。

 

朝鮮半島の前方後円墳は、全部で14基あるとのことです。

もちろんこの中には倭系円墳も含まれます。

墳丘の長さは大体30m~70m.

そして築造された時期は、当時の副葬品等から推察するに、

おおよそ475年から550年ごろと先生は言います。

 

なぜ前方後円墳があるのかとの問いは、

栄山江流域は、経済的なあるいは政治的な主体性を持った在地社会集団があり、

一方、百済の方は、これら栄山江流域の社会を自分たちに包含しようとする意志があり、

それを感じ取っていた在地集団は、「前方後円墳や倭系円墳を造営する一連の活動を通して、

海の向こうの倭とのつながりを百済にアピールすることだった」と考えられます。

倭は、当時、百済と密接な関係が保たれており、その倭の墓制を導入することで、

在地の人たちは、百済の支配欲を牽制したと考えてもよいかもしれません。

 

最後に、先生は次のように締めくくっています。

「栄山江流域の前方後円墳は、ある特定の社会の政治的な思惑だけが反映された墓

とは考えにくい。それを実際に築いた現地集団の思惑が本質的ではあるけれども、

その造営から埋葬儀礼にいたる一連の過程において、栄山江流域、百済、倭の思惑が

重層的に込められた多義性をもつ墓、モニュメントとみるべきであろう。」そして

「ここに栄山江流域社会における前方後円墳造営の歴史的意義があると」。

 

■ 右島先生 「東国の終末期古墳

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先生は、 東国(士として現在の群馬県)における終末期の古墳として、

高崎市にある八幡観音塚古墳を挙げて論じ始めています。

6世紀末まら7世紀初頭にかけて築造されたと考えられています。

上毛野地域における最後の前方後円墳と看做されています。

 

この前方後円墳は、墳丘長105mではあるが、

石室にはその天井石に60トンを超える巨石を配置しています。

奥壁や側壁も巨石を使用して築造されています。

これを先生は、「巨石巨室横穴式石室」と呼んでいます。

 

上毛野地域には5世紀末から、畿内の流れを汲んだ横穴式石室が登場します。

が、それらは、先生によれば、必ずしもヤマト王権の石室に通じるものではなかったと。

 

ところが、6世紀末から7世紀初頭にかけてのこの観音塚古墳は、

その巨石の使用から見て、あきらかに畿内の技術文化を直接継承していると。

「この巨石巨室構造の成立には、欽明天皇のパートナーとして、蘇我氏が急浮上していき、

その下にあった東漢氏系の巨石を扱う技術者集団によって担われたことが想像できる」と。

 

そして最後に、「新しい時代への展開を告げる意味をも内包する造墓活動であったことが分かる」

で締めくくります。

 

第2部

 三先生によるパネルディスカッション

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 三先生によるパネルディスカッションは、右島先生のコーディネートの下、

始まられました。

今回のテーマからは少し離れ、それぞれの先生が、自分の生い立ちと、

なぜ古代史を選び、日本と東アジアとの関係を論じるようになったかなどの経緯を、

ざっくばらんにお話ししていただきました。

 

■ 今回の十周年を記念するシンポジウムは、

13:00より始まり、丁度17:00に終了いたしました。

三名の先生方、本当にありがとうございました。

また多くの方々にご協力いただきました事、感謝申し上げます。

ー終わりー