◆世界遺産 北海道縄文遺跡を訪ねて
世界遺産 北海道縄文遺跡を訪ねて
歴史と文化を学ぶ会
理事長 結城 順子
はじめに
羽田空港からエアーバスにて新千歳空港へ飛び、
そこからバスにて札幌市内へ着きました。
写真 新千歳空港
市内のホテルにて夕食を取ろうとすると、
夕食は提供していません、
近くに「すすきの」がありますから、
そこで夕食を済ませてくださいというホテル側の言葉で、
「すすきの」の大通りを夕食がてら散策しました。
十月下旬の北海道はかなり寒いと思い冬支度を用意してきましたが、
まだ秋の空気が漂い、過ごしやすい夜でした。
翌日、奈良大学同窓生主催の世界遺産
北海道縄文遺跡を巡る旅に合流しました。
総勢五十名と共に生まれて初めての北海道縄文の旅です。
北海道は広大な土地ですので移動に時間がかかり忙しい旅でした。
昼は遺跡や博物館の見学、
夜は食事をしながら歴史談議に花が咲き楽しい時を過ごしました。
見学先行程
① 千歳市埋蔵文化財センター・キウス周堤墓群
②国立アイヌ博物館ウポポイ(民族共生象徴空間)
③北黄金貝塚・北黄金貝塚情報センター
④入江・高砂貝塚館・入江貝塚・高砂貝塚
⑤森町遺跡発掘調査事務所
⑥函館市縄文文化交流センター・垣ノ島遺跡・大船遺跡、など訪ねました。
北海道・北東北の縄文遺跡群は北海道に六遺跡あります。
そして東北地方に十一遺跡があり、計十七遺跡から成り立っていますが、
そのうちの北海道にある六遺跡を全部見て回りました。
この一部をご紹介させていただきます。
●キウス周堤墓群(しゅうていぼぐん)(写真1)
新千歳空港を貸切りバスにて出発し、
十五分もしないうちに千歳市埋蔵文化財センターに到着、
センター内をみて回ったのち、
隣接するキウス周堤墓群に向かいました。
秋とはいえ、
まだ葉が十分に落ちてない樹林の中へと
ガイドさんに連れられて入りました。
「周堤墓」聞きなれない言葉です。
樹林の中へ入るにつれ、
ようやく目の前にあるのが、
その「周堤墓」だということがおぼろげながらわかってきました。
周堤墓とは???
集団墓地です。円形上の土手を築き、
土手の外(外界)と墓地なる内(内界)を設定した土だけの構築物です。
樹林を伐採し、根っこまで取り出し、地面を平坦にならします。
それからこの平坦な地面を穿ち、
その穿った土を周囲に盛って土手を円形に作り、
くぼんだ土地の平面からさらに深く埋葬のための墓穴を穿ちました。
土地の大きさにより一基から十基ほどの墓穴を作りました。
平坦な地面を1メートルか2メートルほど穿ち、
その土を使って土手を築いたものですから、
おそらく窪地から土手先端部まではせいぜい1メートルから4メートルほどです。
樹林の中にはっきりとその円形らしい土手部分が見えます。
土手(周堤)の底辺の幅は、
大きいものでは23メートル、小さいものでは4メートルほどです。
写真1.
写真2.
今から三千二百年前に作られた集団墓地です。
円形の外径は30メートルから大きいものでは
80メートルを超えるものまであり、
内径は20メートルから40メートルの大きさまであります。
墓穴(写真2)からは、石棒が出土し、
また墓地の墓標としての石柱も発見されています。
周堤墓からは土器、石器、土偶などが出土しています。
日本本土には、この手の墓地はありません。
北海道内には約七十基が発見されていて、
この千歳地域には九基見られます。
北海道における縄文人の集団墓地。
当然のこと、集団で埋葬されるということは、
集団が、定住し、同一地域内で生活を営み、
人間としての絆を結び、
そして最後の地としてこの集団墓地の内部に入って、
同胞・親族とともに永久に眠るということであったでしょう。
この時代、北海道においては、
稲作は無く、農業までがほぼ存在しませんでした。
幸いここには千歳川という河川があります。
サケ・マスの遡上は季節のたびに繰り返されたでしょう。
今では無くなってしまいましたが、
湖や沼があちこちに存在していました。
それ相応の魚がいましたし、汽水性のしじみや貝もたくさん採れました。
また落葉広葉樹林の中では、
栗をはじめとして多くの果実がもたらされたでしょうし、
またシカ等の野生動物もいたことでしょう。
狩猟・採集・漁労だけで生計が成り立ちました。
自然との共生の中で、自分たちの精神の最後のよりどころとして、
この集団墓地「周堤墓」が築かれたのでしょう。
● 北黄金貝塚遺跡(きたこがねかいずかいせき)
北海道の内浦湾に面する小高い丘の上に位置しています。
今から六千年から五千年前の貝塚遺跡です。
貝塚のほかに、
水場(湧水点)で石器を供養したとみられる「水場祭祀場」が見つかっています。
使用済みの石器千二百点ほどが集められ、
生活の中で役目を終え、
それらに感謝する意味での石器の「最終棲家」としての場であったのでしょう。
また貝塚よりも新しい縄文時代中期の竪穴住居も復元されています。
これらの遺跡を巡りながら、
なんといっても私の最も興味を引いたのは、もちろん貝塚でした。
貝塚というと、私たちはモースの大森貝塚を連想し、何や
ら貝や動物の死骸を捨てた「ゴミ捨て場」を思い浮かべますが、
ここの貝塚は全く違っています。
手前にある貝塚が(写真3)、
ここの貝塚五か所の中で最も大きなものです。
向こう側に白く小さく白く見えるのが、
一番古い貝塚で、手前の貝塚より若干古いものです。
貝塚は、計五か所発見されており、
そのうちの上記二か所だけが復元されています。
復元されたこの二か所に敷かれている貝殻は、現代の貝殻を並べています。
写真3
この貝塚遺跡の中で特徴的なのは、
私もあっと驚いたのですが、
貝塚はただ単に動物や貝の死骸を捨てた場所というわけではなく、
むしろ動物や貝の死骸を手厚く葬った神聖な場所であったということです。
写真4.
貝塚の下層には、
人間の埋葬された白骨が発見されています。
(写真4)人間の墓です。
上層にある貝殻の厚さが、1メートル50センチあったということですから、
その貝殻のもつ酸性土壌をアルカリ性にかえてしまう力の効果で、
この人間の白骨は腐食して消えることがなく保たれたのでしょう。
この貝塚で十四基の白骨体が円形の中に屈んだ姿勢のまま発見されています。
(当所の風習で屈葬です。ちなみにキウス周堤墓では、
体をまっすぐ伸ばしたままの伸展葬という葬り方です。)
あきらかに墓地です。
儀礼の道具類も見つかっており、
貝も人も動物もこの場所で手厚く葬られたのでしょう。
貝や魚や動物によって私たちの生命は維持され、
維持してくれたものに対する畏敬と感謝の念が現れています。
当然、人間もこれら多くの生命と一緒の生命体ですから、
その下に葬られることになっても少しも不自然ではありません。
すべては自然の中から生まれてきて、
そしてまた自然へ帰る、この地の縄文人の信仰が浮かび上がってくるようです。
●入江・高砂貝塚(いりえたかさご かいずか)
北黄金貝塚遺跡を後にして、
内浦湾に沿って国道三十七号線を三十分ほどバスで走ると、
入江・高砂貝塚に到着です。
やはり内浦湾に面した小高い丘の上にありました。
今回三番目の世界遺産訪問です。
貝塚は、縄文時代前期から後期(約五千年前から四千年前)に作られました。
入江・高砂貝塚館に入ると、
目を見張ったものは、漁労・漁具に関する展示品の多さでした。
アサリ、ホタテ、マガキ、イガイなどの貝類の標本が並び、
またニシン、ヒラメ、カサゴ、スズキ、マグロなどの魚骨が展示されていました。
またイルカやクジラの大型魚の骨も並んでいました。
もちろんこの二つの貝塚は、
貝塚が魚や貝や動物をただ単に捨てた「捨て場」ではなく、
北黄金貝塚同様、
これらの貝塚にはなんと多くの人間が埋葬されていることか、驚かされます。
入江貝塚C地点には、
十五人分の人骨が埋葬されており、
高砂貝塚A地点では、
二十八人分の墓坑があり、
人骨の方は墓坑の数より少々少ない二十五人分が発見されています。
貝塚は、自分たちが食した食べ物、使用した道具、
これらによって自分たちが生かされているという実感のなかで、
これらを人間同様、この世からあの世へと橋渡しをしたのでしょう。
入り江貝塚の十五人分の人骨の中には、
手足の骨が異常に細い十代後半の人骨が見つかっています。
長い間、両腕、両足が動かせなかった何らかの病にかかって、
寝たきりの状態だったのでしょう。
小児マヒとか筋ジストロフィーとかの患いのなかで、
周囲の人たちから長い間保護されて、
そして永遠の眠りについていったのでしょう。
すでにこの時代、弱者に配慮する人たちの人間味が感じられる話です。
銛(もり)を使う縄文人(写真5)
写真5
この貝塚館と遺跡を見て回りつつ、
私の興味を引き付けて離さなかったものは、
漁労と漁具の展示品です。
入江貝塚では、動物の骨や角で作った釣り針も使っています。
かなり精巧な出来栄えで、
軸と針先を一つの素材で作った大型魚用の釣針もあります。
またカレイやヒラメのような底魚には、
軸と針先を別な素材で作ったものを採用しています。
さらに驚かされたのは、
大型魚用の銛を持った縄文人の立像です。
銛の先端は銛頭と言いますが、
銛頭には特殊な工夫がなされていて、獲物に突き刺さると、
先端部が回転して獲物の肉に食い込み、
銛自体が獲物から抜けないようになった構造です。
銛には大きなヒモもついていて、
おそらくこれは漁船に括り付けて、
獲物が暴れても簡単には抜けないようになっていたのでしょう。
●垣の島遺跡
室蘭に泊まり、函館に泊まって、
最後の日は、函館市に所在する垣の島遺跡です。
渡島(おしま)半島の太平洋に面するところです。
海岸段丘の上に位置して、向こうには一面太平洋が開けています。
紀元前七千年から紀元前千年ごろまでの六千年間にわたって、
集落を形成してきたところです。
この辺りは南茅部(みなみかやべ)地区というところで、
その中の著保内野遺跡(ちょぼないのいせき)と言う場所のジャガイモ畑で、
農婦により国宝の中空土偶(写真6)が見つかっています。
写真6
六千五百年前の土坑墓からは、
一歳前後の子供の手形や足形をつけて焼いた土製品「足形付土版」
(写真7)が出土しています。
厚さ1.2センチ、長さ11~17.5センチの粘土板です。
亡くなった我が子の形見だったでしょうか。
あるいは我が子の成長を祈念するものだったでしょうか。
いずれにしろ親と子の愛情あふれる世界です。
写真7
北海道内では最大規模の縄文遺跡です。
史跡の指定面積は9万3千平方メートルにわたります。
竪穴建物跡や墓坑も見つかっています。
そして長さ190メートルの「コ」の字型をした大規模な盛り土遺構も発見されています。
この盛り土遺構に関し、函館市の説明文では、
「道具や食料となった動植物に対して、
感謝の気持ちや再生の願いを込めて儀式を行った『送りの場』だったと考えられています」。
●終わりに
三千年前の頃、九州北部に稲作が伝わり、
鉄器を伴う弥生文化が日本列島に広がり、
二千四百年前頃に東北地方に稲作が及ぶと縄文文化は終焉を迎えました。
しかしながら、
北海道は狩猟・採集・漁労を基本とする生活を引き継ぐ「続縄文文化」に移行しました。
「続縄文文化」、聞きなれない言葉です。
いわば北海道には弥生時代も古墳時代もありませんでした。
この文化を引きずったまま、近代の扉の近くまで来てしまいました。
私たち人間を取り巻く環境に大きな改変を加えることなく、
自然と共生して生きてきたこの縄文の姿は、
地球の環境の危機が叫ばれている現在、
あらためて警鐘を鳴らしているように見受けられます。
もちろん私たちは過去に戻ることはできません。
が、新しいテクノロジーを駆使しつつ、地球環境との共生を考え、
「持続可能な社会」を作っていかなければならないという
強烈なメッセージをこれら縄文遺跡群は訴えているように感じられました。
―終わりー
(この文章は、
「かみつけの里博物館 友の会」の会報(まほろば)に載せたものです。
今回ホームページに載せるにあたって、
文章は全く変えていませんが、
文章を読みやすくするため、
あちこちで改行をして、読みやすくしました。
またこの文章の中で用いた写真は、
今回の北海道縄文の旅を主催した
奈良大学有志の会のご厚意により、掲載しました。
あらためて有志の会に感謝します。)








