◆終了した講演会◆H 29 11 26
今回の講演会は、齊藤英敏先生でした。
私たち群馬県人も驚くことが一杯で、
なんと、水田に関する遺跡の数の多さでは、群馬県は世界一。
それというのも浅間山や榛名二ツ岳がしばしば爆発し、
水田が火山灰の下にうずもれ、そして歳月がたつと、
その上に水田が再び耕され、そしてまた爆発、水田がうずもれて、
そしてまた人々はその上を水田にして耕して行くという繰り返しで、
それがそのまま残っているのが群馬県の水田遺跡の特徴とのことです。
中国、朝鮮から稲作技術が日本へ入ってきて
弥生から古墳時代にかけての水田は、小区画の水田でした。
先生の言うところを聞くと、
浅間山の軽石が降下した3世紀後半の水田は、小区画でした。
それが古墳時代に入ると(6世紀初頭)極小区画水田へと変化します。
6世紀中ごろからなら平安時代(9世紀前半)のあいだには、
平均100m2以上の方格地割の大区画の水田へと変化します。
その後、ずっと100m2前後の面積を持つ水田が江戸時代まで継続します。
AD300年ごろの小区画水田がなぜ大区画へと変貌したか。
それについて先生は、
面積2m2~3m2程度のものから80m2位に至るまでの小区画水田は、
一度、古墳時代に極小区画の水田(面積2m2~10m2程度)へと移行します。
そして奈良平安の時代には100m2を超えるほどの水田へと変貌します。
牛・馬の使用がその答えとなります。
「牛馬耕は、犂でアラオコシ(田おこし)を行った後、田に水を入れて、馬鍬で土塊を砕きながら整地する。
一度整地した田にもう一度人間が入り込んで、小畦畔を造成するとは考えられない。
トロトロに攪拌された土壌において、小区画を造成することは物理的に無理がある。
万一、そのようなことをして小畦畔を造成すれば、再度、田面の荒れた各小区画内を、
エブリ等で整地しなければならない。
このように牛馬耕と小区画水田(含む、極小区画)とは、相反する技術なのである。
つまり小区画水田は、人力段階の産物であり、牛馬耕の導入・普及によって、
漸次消滅していったと考えられる。」
いわば、牛馬の使用は、当時の技術革新だったのでしょう。
「小区画水田は弥生~古墳時代における人力段階の所産であり
大区画水田は古墳時代中期以降の犂・マグワを伴う牛馬耕導入・普及段階の所産であることがわかる。」
(斎藤 英敏先生 講演会資料より抜粋)