◆終了した講演会◆H 29 9 2

今回の講演は、岩宿博物館館長の小菅 將夫先生でした。

熱意ある講演でした。

 

縄文土器以前には、日本には人間はいなかったという従来の常識を覆し、

旧石器時代の存在を証明して見せたのは、相沢忠洋氏です。

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この偉大なる人物、(背景の画像)相沢忠洋氏の生い立ちと功績をたたえることから講演は始まりました。

相沢忠洋氏、いうまでもなく、昭和20年代初頭、納豆売りの行商をしながら、

東毛(群馬県東部)の地において、日本にも旧石器時代があったことを発見した人物です。

それ以来、日本中のあちこちに旧石器時代の遺跡が次々と多くの人たちによって発見されました。

 

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今回の小菅先生の資料よりの引用です。

上掲の写真イラストは、岩宿における明治大学考古学チームが発掘を始めているところです。

右から発掘チーム主任の杉原氏、芹沢氏、岡本氏、相沢氏、加藤氏、堀越氏

と小菅先生は説明しつつ、朗らかな声で下記の文章を朗読されました。

ー岡本氏の手記からー

「道路を作るために切り崩された、崖の両側には地層の断面がみられる。

相沢さんによれば、ローム層の下端から遺物が出るらしいということである。

ただちに発掘が開始された。断面を掘っていくのである。胸は高鳴り、腕は振るった。

中略:

なにもかも忘れて発掘を続けるわれわれは、ふと冷たいものを肌に感じた。雨が降ってきたのだ。

「この雨がなんだ。」シャベルは深く更に深く壁の中へめりこんでいく。ルトウシェを有し、

しかも形態の判然とした石器を探したい。それを発見することによって、旧石器たることは、

何人によっても確認されるであろう。いつ雨が止んだかは知らなかった。

時計は4時30分を示していた。「5時までやろう」、「あと30分だ」杉原先生は言った。

ラストヘビー、緊張の度はさらに引き締まり、振るうシャベルの音は高かった。突然先生の

シャベルは石にあたったのかコチンと音をたてた。いずれにしても丁寧にとりあげねばならない。

移植ゴテで周囲を抉りつつある先生は、その露出した青い石の一部をたたいて、「旧石器の音を聞けよ」

と冗談ながら笑いつつ、煙草に火をつけ深く吸い込んだ。取り上げた瞬間「あっ」といって泥をぬぐった青い石は、

何あろうはっきりした形を示し、見事な加工の痕を有する石器ではなかったか。

時まさに4時50分、誰の目も驚きの目より喜びの目に変わっていた。「ああ素晴らしい」と叫ぶ者もあれば、

ただ笑って何も語らないものもいる。今ここにわれわれが立っている所が旧石器の遺跡であることを、

もはや何人も否定しはしないであろう。

ハックツニセイコウ タダナミダアルノミ とその翌日研究室へ打った杉原先生の電文は、ひとり先生の心

のみをあらわすものではなかった。赤城の山の、まだ名も知れぬ関東連山の紫色にかすむ雄姿が夕闇を迎えはじめた頃、

私共は意気高らかに遺跡を離れた。

日本の考古学史における輝けるエポックメーカー達は、ただその感激について語りながら、岩宿の駅へ急いだ。

汽車を待つ間、駅頭を行きつ戻りつする先生は、その時涙を流したという。」

(9.13 桐生を離れて家へ帰る東海道線車中にて 岡本 勇)

 

この発掘に先立つ3か月ほど前、相沢氏は、上記とほぼ同じ場所で黒曜石の槍先形石器を発見します。

昭和24年、梅雨の季節が明け、夏がやってきたころでした。

いつも通いなれた笠懸村の赤土の崖へ向かって自転車をこぎました。

相沢さんの「岩宿の発見」から引用します。

「山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、

なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。近寄って指をふれてみた。指先で少し動かしてみた。

ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐに取れた。それを目の前に見たとき、私は危く声をだすところだった。

じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。

われとわが目を疑った。考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。」

 

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(上掲の写真は相沢忠洋著「岩宿の発見」より転載)

さらに続けて相沢さんは言う、

「もう間違いない。赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器を未だ知らず、

石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、

ここに最古の土器文化よりもっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。」

 

この事実を、相沢さんは明治大学の芹沢長介先生に話す機会を得ました。

芹沢先生から上司の杉原助教授へと伝わり、

9月中旬、杉原、芹沢、岡本の三名の明治大学の発掘グループが岩宿へやってきました。

このグループに相沢氏も加わり、そして相沢氏の弟子であった加藤、堀越両名の参加となり、

計六名の発掘姿が見えるわけです。

そして上掲の岡本 勇氏の手記にあるような歴史的な感激の場面にでくわすことになったわけです。

 

◆ 小菅先生の講演のためにわざわざ大阪よりきた松島さんと記念撮影。

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 左から結城理事長、松島さん、小菅先生、小原さん、当会顧問の柴田市議会議員

講演会には130名の方々がお見えになりました。

いうまでもなく小菅先生は明治大学の出身です。

上記に引用した話は、明治大学の考古学研究室の中で、歴史的な一場面として熱く語られているに違いありません。

そういう雰囲気のなかで、小菅先生は、学部生、そして大学院修士と学んでこられてきたのでしょう。

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講演の後、小菅先生を囲んで懇親会が開かれました。

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左から3人目が小菅先生。

先生の左手、当会会員の高橋氏。

 

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講演が終わって、懇親会でくつろぎの表情を見せる小菅先生。

 

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当会の講演会には、かならず奈良大学学友会のメンバーが参加します。

考古学に熱意のある方々ばかりです。

今回もいつものように、手前右より井崎さん、青木さん、森さん、

そして左手前より小山田さん、小原さん、茂木さん。