◆終了した講演会◆令和 7年10月26日
テーマ 八角形墳・三津屋古墳の謎に迫る
第一部
演題:古代史から見た三津屋古墳
講師:高橋 人夢氏(群馬県北群馬郡吉岡町 教育委員会文化財センター)
(実に多くの聴衆が熱心に耳を傾けていました。)
■三津屋古墳
7世紀中葉から後半にかけての築造と推定されています。
二段築成で、八角形の一片の大きさは下段で6m、
上段で6m、墳丘対角間で23.8mとなります。
「古代史から三津屋古墳を見る」というタイトルですが、
三津屋古墳を直接記した資料は存在しません。
そして日本の大王陵の八角形墳と築造背景が同じかどうかも、
はっきりとはわかっていません。
先生は、上記のことばを発したうえで、
7世紀の吉岡地域がどのような地域であったか。
また7世紀の群馬郡はどのようであったか。
さらにここには上野国国府が置かれていました。
奈良の王権と密接な関係があったことを示す木簡も出土しています。
桃井の里から朝廷へ鮎が献上された木簡が説明されます。
また正倉院調庸墨書銘も引用されます。
榛名山への信仰も表明されます。
そして7世紀の上毛野氏の祖先伝承が語られます。
豊城入彦命からはじまり、
彦狭島王、御諸別王そして上毛野氏の系譜。
上毛野君形名の蝦夷での戦いは有名であり、
上毛野氏の名声を広めます。上毛野地域を本拠とした
上毛野氏は、大和王権内において、
蝦夷退治という大任を担い、
王権と婚姻関係まで結び、
畿内の先進的文化を積極的にこの上野国へ取り入れました。
総社古墳群の一連の築造は、
この上毛野氏にかかるところ大であると言います。
先生は最後に言います:
「三津屋古墳は、7世紀中葉から後半にあって、東方を圧倒させ、
王権の権威を反映、ないし、模倣した装置であったのではないだろうか」と。
東国支配や東北政策を推し進めた人物であり、
中央政権と密接な関係を築いた人物が、
この古墳の被葬者像として浮かび上がってくると言い切っています。
第二部
演題:考古学から見た三津屋古墳
講師:右島 和夫氏(歴史と文化を学ぶ会 特別顧問)
右島先生は、群馬大学を終えると、
関西大学の大学院へとすすみました。
昭和48年4月でした。
ちょうどその前年、同大学の考古学教室により
高松塚古墳の壁画が発見されました。
網干善教教授率いる関西大学の考古学研究室は、
一躍有名になった時期です。
昭和49年12月からやはり明日香村の中尾山古墳の発掘調査が、
関西大学の網干教授らによって始まりました。
これには、大学院生であった右島先生も参加できました。
文武天皇陵としてほぼ間違いない中尾山古墳は、
その墳丘が八角形墳であることが、
発掘調査の最大の成果であったと先生は言います。
そしてその翌翌年、昭和52年3月、やはり明日香村の所在する
牽牛子塚古墳の調査が始まりました。
この調査にも、右島先生は大学院生として参加しました。
そしてこの調査も、八角形墳の可能性が極めて高いことが、
墳丘測量調査の結果、わかりました。
これらの古墳調査に先生は参画したことが幸いしました。
群馬において、やはり八角形墳である三津屋古墳の発見があり、
吉岡町はその重要性に鑑み、保存整備を進めました。
その保存整備検討委員会のメンバーに右島先生も加わることができました。
このような経験から
先生は、上毛野国にあるこの八角形墳は、
天皇陵古墳と同じ八角形墳が、なぜ採用されたのか、
子細に検討を進める必要があると言います。
吉岡町に所在する南下古墳群、
ならびにこの古墳から3km先にある総社古墳群、
これらと密接な関係性を有していることを頭に入れ、
その関係性を視野にいれて検討していく必要があると
先生は言います。
第三部
最後の二十分間は、右島氏と高橋氏との対談でした。
右島氏は、群馬大学で非常勤講師として教壇に立っているとき、
学生として、高橋 人夢氏が講義を受けていたとのこと。
その時以来、いわば、師と弟子のような形で、
現在までその関係が続いてきているとのこと。
和やかな雰囲気の中で、
三津屋古墳のある吉岡町では、
これからどのようにしてこの重要な古墳を人々に知らしめていくか、
お二人ともこの件に絶大な興味を抱き、
早くも来年2月11日には、
吉岡町文化センターで、
三津屋古墳のシンポジウムを開催する運びとなり、
右島氏もその一員としてシンポジウムに参加することが決まりました。
この辺のことにつき、
和気あいあいと師と弟子の対談は続きました。
上毛新聞系の新聞{タカタイ」に両先生の記事が掲載されました。
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ー終わりー





