◆終了した講演会◆令和 4年 7月 30日

講演会 盛況裡に終了しました。

県内外から大勢の方々にご参集いただき、

有難うございました。

 

第1部

講師 :須田 勉氏

演題 : 遺跡から見た上野国分寺と尼寺

 

 須田先生.JPG

 

須田先生 聴衆.JPG

 

 

 

須田先生の講演内容の要約:

 

■ 国分寺の建立の背景

聖武天皇は詔により日本全国六十四州に国分寺を建立することになりました。

その背景には一体何があったのでしょうか。

 

1.天然痘の流行

天平7年 中国大陸から遣唐使船が帰国します。

これに符合するかのように北九州に天然痘が流行します。

一度はおさまったかのように見えたこの流行は、

天平9年の春に再び息を吹き返しました。

この頃の春とは、1月、2月、3月を指します。

4月には畿内の都まで天然痘は到達していました。

 

平城京では多くの貴族たちが命を落としました。

当時の日本全国の人口が450万人といわれ、

その三分一(150万人)が死亡したと云われています。

 

光明皇后の兄たち、当時の政治の中枢にいた藤原四兄弟も全員命を落とします。

 

2.藤原廣嗣(ふじわら ひろつぐ)の乱

光明皇后の甥にあたる藤原の廣嗣が九州にて反乱を起こします。

聖武天皇に弓を引く行為です。

反乱は鎮圧され、廣嗣が処刑されました。

 

光明皇后の甥にあたる人物で、

藤原家の一員です。

 

3.長屋王(ながやのおおきみ)事件

これより十年前の出来事ですが、

聖武天皇には跡継ぎは無く、

当時政界の中枢に権勢を誇っていた長屋王の子息が、

天皇の位を継承するかのような雰囲気がありました。

これに異を唱えたのが藤原兄弟で、

藤原兄弟の圧力により、長屋王の長男は、無実の罪を着せられ、

死の世界へと追いやられました。

 

これらの一連の事件、事変が続き、

聖武天皇と光明皇后は、

何とか体制を変えねばならないと思うようになりました。

 

全国規模で人々を苦しめる災いは、

中国の場合ですと、皇帝に責があり、

日本の場合には、すべて天皇の責であると、

聖武天皇は思いました。

 

そしてそのころ、これに輪をかけるかのように、

「死に追いやられた人たちは、

死の世界からこの世へやってきて、

自分を迫害した人たちに復讐をする」という思想がはびこりました。

 

死へ追いやった長屋王のことなどが、

これに関連した王族貴族たちをくるしめたことでしょう。

 

■ 天皇の権威の復活と法華経

これら多くの事変と疫病を抱え、

何とか体制を立て直すには、どうしたらいいか、

思いあぐねた末に、行きついたのが、

1.天皇の権威の復活

これは七重の塔の建立によって象徴されます。

2.法華経の信仰

国分寺の中へ納める。

当時中国の留學から帰国した僧たちによって解かれた教えで、

法華経には「滅罪」(犯した罪を無くすこと)の効果があると。

 

結果として、国分僧寺と国分尼寺の建立です。

 

七重の塔と法隆寺.jpg

 

(先生の講演資料より)

 

この図では、左手が七重塔(60m)です。

右手下は法隆寺の五重塔(36m)です。

いかに七重塔が高いかがお分かりになるでしょう。

 

この図の一番上に有るのが、金字金光明最勝王経です。

紫の紙に金泥を使って書いています。

現在残っている完全なものは、奈良国立博物館にあります。

聖武天皇の勅願の経典であり、

各国分寺の七重塔に安置されました。

 

この高さの七重塔も上野国にあったに違いありません。

当時は五重塔が最高の建物であり、

七重塔は最高権威の天皇を明示する建物となりました。

 

右手上にあるのが経帙(きょうちつ)です。

この金光明最勝王経という経典を束ねて包むためのものでした。

 

この経典は「塔裏」に安置されました。

塔裏とはどこか、はっきりとはわかりませんが、

塔自体、登れるのは2階までだったので、

おそらく2階のどこかに安置したものとおもわれます。

 

■ 伽藍配置

お寺の境内のなかで、

各建造物をどのように配置するか、

これには大体五種類ぐらいの配置の仕方がありました。

 

朝廷としては、各国分寺にどのような配置をせよとかは命令しません。

各国分寺の造営者たちに伽藍配置は任されておりました。

 

その中でも興福寺式の伽藍配置は重要です。

全国の国分寺の中の半数近くがこの配置です。

 

興福寺 伽藍配置.jpg

 

(先生の講演資料より)

 

塔の位置を重要視しながら、

金堂(本堂)を中心にして回廊が巡ります。

この回廊が巡っている金堂前の庭には何も置きません。

 

この空間の中で、重要な儀式は行われました。

 

この興福寺式を中心として、

元興寺式、法隆寺式、文武朝大官大寺式などが続きます。

 

いずれにしろ塔を重要視した伽藍配置なっております。

 

■ 国分尼寺

尼寺は塔を持ちません。

伽藍の配置は、興福寺式と元興寺式がほとんです。

 

上野国分尼寺については、現在では南から橋を渡って入ることになりますが、

当時は南大門を造立しても、

南から入場するのは特別な儀式だけの場合であって、

実質的な正面は東でした。

普通は、例えば、国司が都からはるばる来た場合、

まず国府を訪ね、次に国分僧寺そして最後に国分尼寺ということになります。

 

全国の国分僧寺はその建立の痕跡がほとんどが分かっています。

国分尼寺については、その場所がどこだったか、

わからないのが60%です。

普通なら、出土する瓦、礎石、その下の基壇等ではっきりするのですが、

国分尼寺については、はなはだ不明確です。

 

私たちは、ともすれば、国分僧寺と国分尼寺の双方が、

甍を並べて整然と並んでいる姿をイメージします。

が、このイメージは再度検証を要することになります。

 

■上野国分僧寺

 

上野国分僧寺はどのような配置だったでしょうか。

興福寺式を採用しております。

 

上野国分寺 伽藍配置.jpg

 

(先生の講演資料から)

 

金堂(本堂のこと)と塔を中心にして配置しております。

金堂(釈迦如来を安置)と塔(本来は釈迦の骨を安置しますが、

天皇の勅願による建造物なので、天皇の象徴的建立物)を並立させます。

 

もっとも重要なことは、

金堂(釈迦如来)と塔(天皇)とが並立におかれていることです。

いわば、釈迦如来と天皇とは同列に位置することになります。

 

陸奥国分僧寺、但馬国分僧寺、近江国分僧寺が同じ形式です。

 

近江国分寺 伽藍配置.jpg

 

(先生の講演資料から)

 

上野国分僧寺は、王旨をよく理解し、建立された国分寺です。

 

 

―終わりー

 

 

 

第2部

講師:前澤 和之氏

演題:史料から見た上野国分寺と尼寺

 

 

 

前澤先生.JPG

 

 

横顔 前澤先生.JPG

 

 

 

前澤先生の講演内容の要約:

 

■古代を知るための歴史資料

全国共通の資料 → 日本書紀、 続日本紀

地域の残る資料 → 風土記、寺社縁起、写経

上野国に関わる資料→上野国交替実録帳

 

741年聖武天皇は「国分寺建立の詔」により、

全国に建立の指示を出しました。

 

鎮護国家を目的として、

全国に国分寺と国分尼寺の二寺院を建立することが求められました。

 

一大土木工事の開始:

 

目的 鎮護国家方法 七重塔を造り、塔ごとに金字の金光明最勝王経一部を置く。

   国ごとに僧寺と尼寺を造る。

   僧寺には20人の僧、尼寺には10人の尼僧を置く。

条件 必ず好所を選び、長久で、

   人々の集まるところから遠すぎず、近すぎないところを選ぶ。

 

■上野国分寺の創建

 

上野国分(僧)寺 推定復元図.jpg

 

(前澤先生講演資料より)

 

■ 伽藍の配置

上掲の推定復元図にもあるように、

金堂(本堂)と七重塔は東西に並んで建てられています。

 

伽藍地は南北231m ×東西219mであることが判明しました。

 

七重塔は各辺10.8m、推定高60mで全国でも最大級。

上掲の推定復元図では、背景になっているのは赤城山、谷川岳、子持山です。

右手奥の国分尼寺方面から見れば、

榛名山、妙義山、浅間山などが見渡せる景勝の地が選ばれました。

 

また建立の地は、上野国の国府の所在地からそう遠くなく、

国府の西側に接する「好処」が選ばれました。

 

しかしながら創建はそう簡単ではありません。

諸国の国司の怠慢により、創建は遅々として進みません。

そこで、国司に代わって地元の郡司(豪族)に任せる方針を打ち出しました。

(天平19年の詔)

 

天平19年の詔に応じて創建のための貢物をした豪族に叙位が与えられます。

対象者二人に与えられます。二人なのは群馬だけの出来事です。

 

郡司(豪族)の献身的な献納物で、

上野国分寺は、全国でも率先して主要な堂塔を完成させたとみることができます。

 

■ 上野国分寺跡から出土した瓦

創建時には瓦に郡や郷の名を押印したものが多く見つかっています。

 

国分寺 瓦.jpg

 

 

 

 

軒先瓦.jpg

 

 ( 前澤先生講演資料より)

 

勢多郡,佐位郡、山田郡、新田郡から多くの瓦が献納されます。

多胡郡、緑野郡からは軒先瓦が献納されます。

 

豪族である石上部君氏が西南部の郡をまとめ、

もう一方の豪族 上毛野朝臣氏が中東部をまとめます。

 

群馬・勢多郡と佐位郡の有力氏族 上毛野朝臣氏と檜前部君氏は、

寺院建立に実績のある氏族であり、中央政府とも強いつながりがありました。

 

時の政府は、このような実績を持つ地域豪族を前提として創建運営を進めました。

 

■ 国分寺の運営

天平宝字8年(764)11月11日の太政官符

国分寺は所有する建物、仏像、経典、仏具などを記帳した財産台帳を作成し、

政府への提出を制度化することになりました。

 

弘仁4年(813)9月23日の太政官符

国司の交代の時には、

もし修理するところがあれば、

新任者が修理を行い、その費用を前任者の給与から差し引くということになりました。

 

修理が終わった時点で、新旧の国司の交代となりました。

 

■ 上野国分尼寺

 

2016年からの高崎市の調査で次のことが判明しました。

 

1.伽藍地

 

国分尼寺 推定図.jpg

 

 

  ( 前澤先生講演資料より)

 

◇伽藍地は東西153m×南北157m。

 

◇尼坊跡

基礎工事は東西51m×南北13.5m。

この上に東西桁行45m×南北梁間10.8mの礎石建物が載ります。

 

これは全国で見つかっている最大規模のものです。

 

講堂跡

尼坊跡の南側にimほどの礎石が見つかっています。

尼坊よりも大きいことから講堂跡として位置づけられています。

 

◇回廊跡

講堂の南西で、梁間4.2m/桁行3.0mと推定されています。

 

尼寺伽藍推定図.jpg

(前澤先生講演資料より)

 

国分寺周辺状況図.jpg

 

(前澤先生講演資料より)

 

 

■ 「上野国交替実録帳」にみる上野国分寺

当時の上野国の財政から官公庁の建物、主たる寺院の財産目録、

人民の戸籍等を記したものです。

文中は、抹消、追記、訂正等がそのままの形で残り、

したがって、公式な文書というよりも公式文書の草案といった形のものです。

 

上野国のトップである「国守」が後任者と交代する時点で、

主要建物や主要寺院の財産に関し、

「破損」と「無実」(すでに無くなっているもの)とを明記し、

自分の在任中には何を修理し、何を建設し、何を放置したかが、

分かるような記述形式になっています。

 

国分二寺に関してもこの交替実録には多くのことが記されました。

また周辺の主要寺院、定額寺、放光寺、慈廣寺等に関しても記述されています。

 

■国分寺に関する記録

① 国分寺の主仏である釈迦三尊は、すでに一部に朽損がありました。

② 伽藍周辺の築垣や大門は全壊しておりました。

③ 「四面貮町」の記述があり、二町という長さの単位が示されています。

④ 国守である平朝臣重義が丈六佛を建立して、金堂に安置したことが記録されています。

⑤ 破損状態であった諸仏像を修理したことを

  業績として前任者が後任者へ主張しているのが見てとれます。

⑥ 金堂と七重塔に関して記載はありませんが、

  主要堂塔は260年間以上にわたって、維持されていたことが分かります。

(発掘調査では、軒丸瓦の模様形式が八十種類以上あり、長期間にわたって、

修理が続けられていたことが裏付けられています。)

 

■ 終わりに

上野国分二寺と「上野国交替実録帳」を中心に、

古代の上野国地域の様々な歴史遺産をつないでいくと、

´〈総社古墳群の築造:有力氏族の存在 → 仏教の広まり:
山王廃寺(放光寺)の建立 → 渡来文化の受容:長利僧の山上碑建立 →
国分二寺の創建:組織的な知識の形成と全国に先駆けての完成 →
国家による寺院体系の整備:国分寺と定額寺の格付け → 
国分寺の経営:多胡郡地域の知識の活躍
緑野寺の創建:道忠の教化活動 → 道忠教団の形成:最澄の坂東への行脚 →
最澄の天台宗確立:今日につながる仏教世界の形成〉

 

といった、通史につながる道筋を辿ることになります。
視点を変えてみると、
こうした地域ごとの人びとの活動の集まりによって、
日本の歴史は作られているといって間違いない。
ここに示した上野国地域の事例を通して、
より多くの人々が地域の身近な事象に関心を寄せ、
一つひとつ調べてそれらの因果関係を解き明かしていく、
こうした作業がその礎になることを述べて結びとします。」

 

―終わりー