◆終了した講演会◆令和 4年 3月 6日
第一部
講師 :土屋 隆史氏 (宮内庁書陵部陵墓課 陵墓調査室)
演題 :「金工品からみた古墳時代の対外交流」
土屋 隆史(つちや たかふみ)先生は1985年生まれの若干37歳です。
韓国にも研究員として留学経験があり、
その経験を生かして、
朝鮮半島から渡来した「金工品」についてのお話をしていただきました。
■「金工品」とは?
以下、先生の説明となります。
「金属に細工が施された工芸品のことで、
たとえば金銅製品では、水銀に金を溶かしたもの(金アマルガム)を
塗布した後、加熱して水銀を蒸発させることで、金を定着させる手法のことです。」
古墳時代に朝鮮半島南部より伝播してきたものです。
そして今回の講演の目的は、
金工品の技術系譜と製作地を同定し、
朝鮮半島南部に由来する技術と文化が、
どのような経緯と背景で、この群馬県内までもたらされたか、
ここを考察することです。
■ 5世紀の金工品
朝鮮半島では、5世紀代になると金工品の制作が始まります。
朝鮮半島南部から日本への金工品の伝播は、5世紀中葉と考えられています。
群馬県の剣崎長瀞西遺跡で金工品(金製垂飾付耳飾り)が出土しています。
この剣崎長瀞西遺跡は5世紀代の集落で、円墳と方墳の群集墳が確認され、
円墳は倭人用で、方墳は積石塚という形態で、これは渡来人のものと考えられています。
この剣崎長瀞西遺跡の10号墳で、金製垂飾付耳飾が発見されました。
(金製垂飾付耳飾ー先生の講演会資料よりー)
(ー先生の講演会資料よりー)
類似した耳飾りは、日本国内でも発見されており、
また朝鮮半島でも発見されています。
群馬県内におけるこの金工品は、
5世紀中葉の大伽耶あるいは百済との関係が見て取れるものであり、
百済系工人、あるいは大伽耶系工人によって、
日本列島内で制作されたものと考えられています。
■ 飾履(しょくり) 下芝谷ツ古墳
群馬県の榛名山麓には三ツ寺遺跡があり、
かつてこの王であったという人の館が発掘されています。
この王は、朝鮮半島からの先進技術(水利、土木、金属加工、
土器)を盛んに取り入れました。
この三ツ寺遺跡からそう遠くないところに下芝谷ツ古墳があります。
5世紀末から6世紀初頭の榛名山の噴火によってうずもれていた古墳です。
一辺が20mの方墳で、かなりの傾斜角度を持った古墳です。
この古墳の上位部分は、朝鮮を源流とする積石塚の技法を使っています。
この積石塚から「飾履」が発見されました。
( ー先生の講演会資料よりー 画像は、かみつけの里博物館1999「よみがえる5世紀の世界」より)
飾履の構造は、金銅製の底板にやはり金銅製の側板をめぐらし、
甲の部分に別の金銅製板をかぶせて作られています。
甲の部分の中央には花紋が配され、外側は連続波頭紋があります。
側板にも連続波頭紋、底板にも連続波頭紋が見られます。
これらの波頭紋の源流は、百済の冠帽や飾履にみられ、
また5世紀後葉から6世紀末にかけて日本列島内の金工品にみられます。
おそらくこの飾履は、日本列島内で制作された金工品であると推測されます。
この飾履のもう一つの特徴としては、ガラス玉があります。
ガラス玉は銀製の座金とハトメを介して各板に接合されています。
このガラス玉の使用は、日本列島だけにみられます。
これらを総合すると、
「飾履の構造、文様、ガラス玉の技法は、
すべて日本列島の金工品で確認されている」ものであり、
この下芝谷ツ古墳出土の飾履は、日本列島内で制作された可能性が高い、
と思われます。
■ 6世紀代の金銅製装身具
日本列島の6世紀初頭から中葉にかけては、
金銅製装身具の出土は顕著なものは見当たりません。
6世紀後葉に顕著なものが現れ始めます。
群馬県伊勢崎市 古城稲荷山古墳出土の飾履と広帯二山式冠
群馬県前橋市 不二山古墳出土の広帯二山式冠
群馬県前橋市 金冠塚古墳出土の樹枝形帯冠
古城稲荷山古墳からは馬具や武具が出土していますが、
また破片ではあるが金銅製品の出土もあります。
東京国立博物館が金銅製品の破片を調査した結果、
それらが飾履と広帯二山式冠である可能性が高いことが判明しました。
上記の写真は、側板と底板の接合部分の破片です。
また写真で見えませんが、ガラス玉も接合されています。
ガラス玉の接合技法は、日本列島のみにみられる接合技法です。
また無数の歩揺(魚形と円形)の破片が見られ、
これらは飾履もしくは広帯二山式冠に装着していたものと思われます。
百済系の工人集団が日本列島内にて制作したものであると考えられます。
また不二山古墳では、広帯二山式冠の出土があり、
金冠塚古墳では樹枝形帯冠の出土があります。
■ まとめ
群馬県内の金工品の出土を見ると、
新羅、大伽耶、百済に由来する金工品が見られます。
朝鮮半島からの渡来系工人集団が日本列島内にて、
制作されたものが多く、また一部金冠塚古墳の出土品には、
朝鮮半島南部で制作されたものも見つかります。
「群馬県内における現状の資料から見て、
大多数は畿内地域からの間接的受容であり、
直接的受容がの比率が大きい北部九州とは様相が異なっている。
内陸に位置するにもかかわらず、これだけ多くの渡来系文物が受容されている
群馬県の様相は、古墳時代社会の中でも特殊であると言える。」
「その背景には、
馬を基本に据えた畿内―東国の恒常的なルートの成立があったと
推定されている。
馬匹利用により、畿内地域にもたらされた渡来系文物が、
いち早く伝播したのが、群馬県であったと考えられる。」
第二部
講師:小川 卓也氏
前橋市教育委員会事務局
文化財保護課文化財保護係
演題:「大室三古墳の調査」
本来なら令和3年度の第一回目(令和3年7月)に講演をお願いしていましたが、
コロナ禍により延期となり、
ようやくにして今回の開催となりました。
■ 大室古墳群ー明治の古墳調査ー
赤城山の南麓に築造されました。
古墳群の主たるものは三つの大型前方後円墳によって構成されています。
前二子古墳(94m) 6世紀初頭
中二子古墳(111m) 6世紀前半
後二子古墳(85m) 6世紀後半
今回の講演にはサブタイトルがつけられています。
ー明治の古墳調査ー前二子古墳
なぜ明治期に古墳調査が行われたか、
ここから講演は本題に入ってゆきます。
(先生の講演会資料より)
これまでに二度にわたって大規模な古墳調査が行われました。
明治期の調査:陵墓をさぐるための調査
平成期の調査:古墳の史跡としての整備のための調査
- 明治7年10月
群馬県は、総社二子山古墳を「豊城入彦命」の陵墓として墓掌・墓丁を置くことを政府へ申請します。
- 明治8年1月
政府(教部省)より総社二子山古墳を陵墓として墓掌・墓丁を置くことを許可されます。
- 明治9年5月
墓丁が辞任したため、実質的には陵墓治定の解除となります。
その結果、総社二子山古墳に代わる陵墓を探すことになります。
そこで白羽の矢がたったのが大室古墳の前二子古墳です。
公的な面からは、西大室村戸長から県知事へ
そして県知事から宮内省へと申請を上げます。
私的な面からは、古墳調査の主導者であった井上次郎二(真弓)から
修史局(明治初期に開設された官立の国史編纂所)に在籍していた菅政友(すがまさとも)へと鑑定依頼が上がります。
■ 井上真弓の書簡の特徴
修史局に在籍していた菅政友に対し、井上は書簡の形式にて鑑定を依頼します。
「書状のほかに古墳測量図、遺物出土状況を含む石室実測図、
遺物概要図からなる。
石室遺物出土状況図には各遺物の出土位置を詳細に記し、それぞれナンバーを付す。
スケッチ図には、出土状況図に対応するナンバーを記載し、
遺物の法量や色調などを詳細に記載。
重要視した遺物には実測図を作成。
現在の発掘調査報告書にも通じる簡潔な図化と冷静な観察力。」
(先生の講演会資料より)
(先生の講演会資料より)
■ 陵墓認定の運動の結果
明治11年:
宮内省の係員が大室三古墳の調査しました。
結果として、もともと一国であった群馬・栃木の両県を調べないと、
豊城入彦命の墓かどうかはわからない、というもので、
陵墓の認定はありませんでした。
陵墓の認定はありませんでしたが、
出土品の展示が行われ、
五千人以上の人たちが見学に訪れました。
(この地に車もバスも鉄道も通じていない時代、
これだけの人数が訪れるのは、大変なことです。)
■ 平成期の調査
平成3年より大室古墳群の範囲内容確認調査が行われました。
前二子、中二子、後二子の順で築かれたことが確認されました。
また古墳群東側の梅木遺跡にて豪族居館が発見されております。
各古墳の基礎データから現在の古墳整備へと進むことができました。
ー終わりー