◆終了した講演会◆令和 3年 11月 28日

第一部

深澤先生の「蝦夷と呼ばれた人々と群馬の古代」

好評のうちに終了しました。

 

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■ 蝦夷(えみし)とは?

先生は、蝦夷という言葉の始まりは何であったか、

その辺から説明が始まりました。

蝦夷なる言葉は、、

東北地方に住む人たちで、当時の倭王権に服属しない人たちの集団、

それを倭王権側の人たちは蝦夷と呼んでいました。

 

蝦夷の地 境界図.jpg

(深澤先生 講演会資料集より)

新潟県北部から福島県を通過しているa)ラインが蝦夷の居住地の南限と云われています。

そして大化の改新(648年)ごろまでは、

倭王権もこの境界まで倭王権のの支配域と定めていたようです。

それでも倭王権の墓制としての古墳は、その南限をB)ラインまで広げていました。

蝦夷の居住地では、倭王権の国造制のような支配形態をとることができず、

国造の領域外の存在としてみなされていました。

 

そこで倭王権は、徐々に、中央政府直轄の支配拠点として、

「城柵」の造営を始めました。

現在の関東地方の人びとを移民として蝦夷の地に移住させ、

城柵を基地として蝦夷の地に根付いていくことになりました。

 

倭王権は、東北地方を上へ上へと登り

秋田城、払田柵そして志波城を造営し、

律令国家の領土拡張ラインとしました。

 

有名な「38年戦争」は、この城柵が蝦夷の居住地まで深く根付いてきたことへの反発として、

蝦夷たちは蜂起し、倭王権と戦いました。

 

774年(宝亀5年)に戦争は始まり811年(弘仁2年)に戦いは終わりましたが、

それより以前、戦いの趨勢は、802年(延暦3年)

蝦夷を率いていた首領アテルイとモレの降伏によりほぼ決定しました。

(アテルイは悪逆の王のように描かれているが、先生によれば、

決して悪逆なる王とはいえない指導者だったようです。)

 

戦いに敗れた蝦夷たちは、倭王権に服属の意を表し、

一方、倭王権側も彼らに生活の権利を与え、

倭王権側は、毎年一定の稲を蝦夷たちに与えました。

延喜式という古い書類には、その蝦夷たちに分け与えた「俘囚料稲」の数が、

事細かに書いてあり、今回、先生はその資料を提示され説明されました。

 

■ 胆沢城と天良七堂遺跡

東北(岩手県)には、倭王権は胆沢城(いさわじょう)を築きました。

倭王権の政庁です。坂上田村麻呂が派遣され、

政庁は90m四方の豪壮な建物であったそうです。

802年、蝦夷の指導者アテルイが降伏したのも、この政庁でした。

803年、志波城の築城が始まります。

808年には倭王権の東北支配の要である鎮守府が、

多賀城からこの胆沢城へ移されています。

 

方、天童七堂遺跡は、群馬の新田郡にあった古代の新田郡衙郡庁址です。

やはり一辺90mの政庁があり、また郡衙の南は東山道にも面し、

奈良からここを通て東北方面へと道は続いていました。

この郡衙は7世紀から9世紀にかけてのものです。

 

とすると、関東の諸国から陸奥の方面へと移住していった人々は、

この郡衙の脇を通り、東北方面へと行ったに違いありません。

 

倭人の陸奥へ.jpg

また東北方面から俘囚として蝦夷たちが諸国へ配されましたから、

いわば、日本という国に蝦夷と倭人たちが混合する風景が展開されたことでしょう。

倭王権も彼ら蝦夷を冷遇せず、上記にありましたように「俘囚料稲」という糧を与え、

また公民になる者もあらわれ、その他、窯業に工業に軍事に、

その他さまざまな職業について行きました。

倭王権の取った同化政策は、知らず知らずに浸透し、その後の歴史の展開の中で、

蝦夷は日本人そのものになって行ったのでしょう。

ー終わりー

 

第二部

前澤先生 「古代群馬の馬と牧」

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私たち群馬の古代の馬そして牧に関する話です。

多くの聴衆の方々は、熱心に聞き入っていました。

 群馬という地名の由来

1871年(明治4年)第一次群馬県の成立です。群馬県の中央部をなす群馬郡よりその名が取られました。

 1876年(明治9年)第二次群馬県が成立します。

さてそれでは中央部をなしている群馬郡という名は、どこからきたのでしょう。

 

■ 車評(くるまのこおり)から群馬郡へ

 ① 大宝律令によって「評」は「郡」に改められます。

 ② 全国の郡、郷、の名を地域の特色を表す好字二字に改めよというお触れがでました。

 ③ 8世紀ごろの群馬郡は、馬が群れいる土地でした。

車(くるま)は群馬(くるま)の字があてられました。

 

■ 馬文化と歴史的意味

朝鮮半島から馬文化が伝えられたのは、応神天皇の時代です。

5世紀ごろ、大阪あたりから東国へも広まりました。

律令国家への形成過程で、馬の有用性が認識され始めました。

祭祀用、外交用、儀礼用、荷役運搬用、軍用、駅制用、革の利用として、

馬は国家にとってなくてはならぬものとなりました。

 

先生は、多くの古文献を引用しつつ、

群馬の古代の御牧を論じます。

中央政府(平安京)へ貢進する馬には、

「櫪飼」(イタカイ)と繋飼(ツナギカイ)の二種類があったといわれ、

「櫪飼」が最高級の飼い方で、馬小屋に敷板を使った方法で、

群馬の黒井峯遺跡で発見された家畜小屋(馬房)も、

「櫪飼」であったことが確認されています。

 

先生は延喜式を引用します。

延喜式によれば、諸国から都に貢進される馬の数は、

全国で11か所。合計で105匹ですが、上野国では35匹を収め、

全体の43%を占めています。

上野国は、中央政府が必要とした馬の最大の供給地です。

先生は言います。

「ヤマト王権により早期に馬飼養が伝えられて牧が成立し、

律令政治の中枢が必要とする馬の最大の飼養・貢進地となっていった。

律令政治の衰退とともに、上野国地域の御牧・官牧の役割を失っていった。」

 

■ 上毛野君氏

上毛野君氏は崇神天皇も末裔にあたります。

上毛野君氏は、大和王権の朝鮮征伐や東国の統治で活躍します。

「東山道十五国都督」という称号が、彦狭嶋王に与えられます。

彦狭嶋王は言うまでもなく上毛野君氏の一族です。

当時、京都から蝦夷の国(陸奥)を結ぶ重要なルート上の要衝です。

また上野国は、関西方面からの物資や兵員を蝦夷後に運ぶ重要な地点でもありました。

 

大和王権が、蝦夷征伐という戦略を進めている以上、東国を広範囲に支配する監督が必要だったわけで、

それを彦狭嶋王に与えたわけです。

東国の重要な要であった群馬県地域は、蝦夷への前哨地点として、

また群馬の新田駅は東海道と東山道の結節点でもあり、

交通の要でもあり、兵員/物資の運搬等を馬に担わせました。

合わせて、

「東山道十五国都督」という役職は、大和王権の代行者として、

上毛野を中心として、馬の飼養と供給という役目も管轄する立場でした。

その背景には、朝鮮征伐と蝦夷の鎮圧という大きなミッションがありました。

―以上ー