◆終了した講演会◆令和 2年 1月 26日
令和2年になって初めての講演会です。
多くの考古学ファンにとって、
群馬を代表する考古学者 右島先生、そして
古墳・飛鳥時代の専門家として名声を博している土生田先生、
ご両名をお迎えしての講演会でした。
■古墳構築を考える
演題は「古墳構築を考える」でした。
今回もまた200名を超す多くの方々においで頂きました。
(右島先生による講演)
(土生田先生による講演)
(右島・土生田 両先生による対談)
1. 右島先生による「古墳構築を考える」
ー巨石巨室横穴式石室の築造を考えるー
右島先生は先ず、
高崎市八幡町に所在する前方後円墳「観音塚古墳」に言及します。
(観音塚古墳 石室入口)
6世紀末から7世紀初頭にかけて築造された古墳です。
この古墳の石室の最奥部には50~60トンの重量を持つ巨石が天井石として使用されています。
また側壁、奥壁、その他の天井石にも相当な大きさの石が使用されています。
この巨石は、4.5m×3.4mで重量50~60トンです。
石室の全長は15.8mです。
それまでの古墳では「綿貫観音山古墳」の天井石で22トンの大きさです。
「観音塚古墳」に今までになかった巨石を使用できるようになったのは、
巨石を採取し、運搬し、石室として利用する新たな技術の開発があったと先生は言います。
「観音塚古墳」が発見されたのは、終戦もまじかの昭和20年3月、
近所の人たちが防空壕を掘っていた最中、偶然、見つけたものでした。
盗掘は全くなく、手つかずの状態で村人たちによって発見され、
遺構は尾崎喜佐雄先生、遺物は保坂三郎先生によって研究が始まられました。
平成の時代になって、高崎市教育委員会により詳細な調査がなされました。
当時、右島先生は、墳丘・石室の調査に参画されました。
このような中で、右島先生は、使用された石材、溶結凝灰岩の原産地に興味を持ち、
その採取地と搬入ルートの検証を実施するという機会に恵まれました。
採取地の候補として浮かび上がったのが烏川上流、高崎市の上里見地区でした。
先生は、巨石のある烏川上流へ上りました。
そしてその場所から巨石を高崎市の八幡町まで運んでくるルートの検証も行いました。
(高崎市上里見 烏川上流付近)-講演会資料P3よりー
上里見町の烏川上流、間野近辺は海抜327mです。
観音塚古墳のあたりは、海抜133mです。(GOOGLE EARTHによる)
上里見町から観音塚古墳までの距離は約12km.
搬入ルートは下り坂です。
どのような技術を使って運んだのでしょうか。
先生は、具体的にはそれに言及しません。
なぜなら、その技術の道具たるや、この地において、
考古学的な遺物として発見されているわけではないのですから。
考古学者としては、このような運搬器具を使いましたとは明確には言えません。
ただ国内の他の遺跡では運搬道具はたくさん発見されています。
特に古墳時代に使われたのは、「修羅」(しゅら)という橇のような運搬具です。
(大阪府立 近つ飛鳥博物館展示)
この写真は、結城と橋爪が大阪の近つ飛鳥博物館を訪ねたとき撮影したものです。
内部の光がガラスに反射してかなり見にくいものになっております。
大阪府の藤井寺市にある三ツ塚古墳より出土したものです。
全長8.8m、幅1.9m、重さ3.2トン。アカガシ類の木です。
下にコロという木材を敷き、その上にこの修羅を載せました。
修羅の上には切り出した巨石を置き、巨石を綱で縛り、
そしてまた修羅にも綱をかけ、多くの人間の手で引っ張りました。
藤井寺市立図書館に畿内の大型古墳を造営するときに想定された、
その巨石運搬の風景ジオラマがあります。
分かりやすいで転載します。
地面の一番下に置かれている棒がコロです。
移動するたびに後ろになったコロは、また先頭の部分に置かれます。
その上の載っている大きな橇が修羅です。
烏川上流から運び出して、
現在の高崎市八幡町までこのような形で運搬したものと想像されます。
■ 畿内の巨石古墳の築造
6世紀後半から7世紀初頭にかけて、
畿内では巨石を使用する古墳が造成され始まました。
奈良県にある「五条野丸山古墳」が筆頭に挙げられます。
そして二番目上げるのは言うまでもなく「石舞台」です。
7世紀初頭の築造と云われています。
この頃の畿内では、すでに、巨石を採取・運搬・設置の技術が完成していたようです。
採取は5kmほど東の多武峰(とうのみね)から切り出されました。
巨石は冬野川沿いに運ばれました。
五条野丸山古墳にしろ石舞台にしろ巨石を設置するからには、
地盤となる地層の下調べから始まり、
木々の伐採・伐根。
地盤強化のための地下への石材の投入、そして土をかぶせて土地を平らにし、
平らにした後は、ある程度の歳月をそのままにし、
そして平らな土をさらに均等に均し、
太い丸太を使って上からたたいて転圧をくわえて引き締めるなど、
土木上の基本技術が確立されていたとみるべきです。
右島先生によれば、
畿内における巨石の採取・運搬・設置の技術は、必然的に東国へも伝播してきたとみるべきでしょう。
群馬の観音塚古墳はその例に漏れないとみるべきです。
2. 土生田先生による「古墳構築を考える」
先生によれば、
「古墳前半期の場合、墳丘の設置を優先する」と明言します。
専門学者である青木敬先生の古墳構築の東西日本の地域格差に言及しつつ
その地域格差は決定的なものではなく、
あくまでも多寡(数)の問題であると先生は言います。
この工法では、先ず地山の上、墳丘中心部あたりに小丘を盛土して作り上げます。
そしてその中央の小丘から順次外側へ向かって盛土を広げてゆきます。
( 図6 & 図9は青木敬著「土木技術の古代史」より。
今回の講演資料ではP3参照)
いうまでもなく前方後円墳は、ある程度の高さのある墳丘を持ちます。
高いものでは20m~30mに達するものもあります。
この高さをそのまま保持して小高い山状のものを作ると
それ相当の山の斜面ができてしまいます。
斜面が長くなればなるほど、崩落の危険が増します。
その斜面崩落の危険を未然に防ぐため、
考え出されたのが段築と呼ばれる手法です。
普通、三段に分かれて斜面を構築しました。
先生の説明は続きます、
「段築古墳の場合、1段目と2段目によって、
東西工法が共にみられることもある」。
■後半期の構築技術
横穴式の石室が主流となります。
竪穴式に比べると、横穴式はとてつもなく大きな重量がかかります。
多くの初期石室は崩壊しました。
したがって、墳丘優先ではあるけれど
「横穴式石室と墳丘を関連させながら構築する方法がとられるようになっていく。」と
先生は言います。そして続けて、
「まず墳丘を構築する。
この場合、奥壁もほぼ同時に構築するのであるが、
天井石はまだ載せない。以後、石室構築の節目節目において、
外部へ外部へと拡張するのであるが、この時、墳丘の周囲には、
墳丘完成後には外部から目視できない石列をめぐらすのである。
これによって中途段階の墳丘崩壊を防いだものと考えられる」
また横穴式石室の場合、以下の二つの観点を挙げています。
「① 石室の最下部を掘り込んで地盤の固い層に置くことである。
② 石室は、墳丘同様、一気呵成に構築するのではなく、
まず玄門部と奥壁部に指標石を配置して、その後、
中間を埋めるように行うことである。
特に玄門部に立柱石を配置する場合、
奥壁部とともに他より重量のある石材を置くことが多いため、
この部分には他より墓壙を深く掘って安定させなければならない。」
多くの場合は奥壁部から間を埋めるように構築する。
この場合、調整区といって小型の石材を用いる。
さらに、通常横目地や縦目地等調整の必要から目地を
通らせるのであるが、当該部のみ目地が乱れるのである。
この調整区が解消されるのは、
畿内では7世紀の石舞台古墳からであり、群馬では宝塔山古墳からであると先生は言います。
そして切組積石の複雑に組み合わされた石材配置の方法に言及します。
群馬に例を取りますと、吉岡町の南下古墳群です。
■ 朱線の存在
この古墳群の壁石材に関しては、
右島先生の説明も加わります。
壁石材の横目地や縦目地を乱さないためにも、
壁石材のほぼすべての端に、朱線を引きます。
上下左右の端に朱線を引くのは、あきらかに、石材整形の目安線としての機能であると、
右島先生は言います。
もう一つの朱線は、奥壁の左右の中心部分に、
縦方向に引かれたものです。
これは、右島先生によれば、
「石室の平面、立面の規格があらかじめ決められていたことを物語るものであり、
設計図様のものが存在し、それに即した構築上の目安線であったことを示すものである。」と。
切石積石室は、完成度の高い熟練の技術の結晶とみることができます。
「南下A・E号墳だけが、宝塔山・蛇穴山古墳に共通する高い技術力によって築造されている点を
明確に看取できるところである。」と。
「とりわけ7世紀前半の愛宕山古墳群、7世紀中葉のないし第3四半期の宝塔山古墳、
7世紀第4四半期の蛇穴山古墳の大型古墳群は、
上毛野地域一元化の歴史過程を主導した勢力の古墳群として間違いない。」と喝破します。
「そのような中で、総社古墳群の愛宕山→宝塔山→蛇穴山古墳の推移と内容が、
南下古墳群のB号→A号→E号にしっかり呼応していることがわかる。」と結論付けます。
今回、お二人の碩学をお招きしての講演会と対談、
両先生、ほんとうにありがとうございました。
古墳の構築に関し、大いに理解するところがありました。
ー終わりー