◆終了した講演会◆令和 元年 9月 1日

令和 元年 9月 1日(日)

小池先生の2時間にわたる講演、熱演でした。

古代東国の覇者ー上毛野氏の実像に迫るー

 

今回も242名という大勢の方々にお越しいただき、

会場は熱気に包まれていました。

新潟からお見えになった人、

横浜からおいでになった人、

栃木からおいでになった人、

また埼玉県や群馬県の高崎以外からも、

大勢の人がお見えになりました。

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■ 上毛野氏(かみつけのうじ)の実像に迫るーその第一歩ー

小池先生は、学習院大学の史学科の学生であったころ、

史学科の教授に黛 弘道先生がいました。

小池先生にとって、生涯の師と仰ぐ人との奇跡的な出会いでした。

小池先生の大学での卒業論文は「上毛野国と大和政権」でした。

ちょうど卒業の時、黛教授から「上毛野国と大和政権」というまさに自分の研究テーマと同じ書物を、

教授自身のサイン入りで送呈されました。

上毛野氏あるいは上毛野国の動向を、日本列島全体を視野に入れ、

文献だけでなく、考古学資料や地名研究など多くの分野を取入れた研究で、

若き学徒の小池先生に多くの示唆と教訓を与えました。

 

これが小池先生の歴史研究、上毛野氏の実像へと迫る研究の第一歩が始まりました。

 

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(5世紀の倭王権 講演会資料P2より)

 上記の図が、上毛野氏が活躍を始めた5世紀ごろの東アジア情勢です。

小池先生は、上毛野氏を説明するにあたって、

どうしても当時の東アジア情勢を知ってもらう必要があるとのことでした。

 

 

5世紀の倭王権は、王統の中から選出された代表者が、大王を務め、

東アジア外交を担当し、各地域の豪族たちと連携して首長間連合を形成していました。

 

倭国は、中国への冊封体制に入り、

中国から「倭国王」の称号をいただき、

朝鮮南部の軍事権を掌握していました。

 

ちょうど高句麗が軍事力を背景に南下政策を進め、

従って百済は倭国と同盟を結び、

倭国は、鉄資源確保のため朝鮮南部・加羅の支配をしていました。

 

倭国の国内では、豪族たちが大王を中心にして連合政権を形成していました。

葛城氏、紀氏、上毛野氏、蘇我氏,巨勢氏等が大王を取り巻いていました。

 

■ 上毛野氏の由来(日本書紀)

上毛野氏は、どのような生まれで、どのようにして上毛野国の豪族になったのでしょうか。

崇神天皇48年春1月10日

天皇は、豊城命(とよきのみこと)・活目命(いくめのみこと)に命令を出しました。

「お前たち二人の子は、自分にとってどちらも可愛い。どちらを跡継ぎにするか、自分ではよくわからない。

そこで、お前たち二人に夢をみてもらうことにする。

そしてその夢で跡継ぎを占おう」と言いました。

二人の息子は、早速、川で沐浴し、髪を洗って、祈りをして、眠りにつきました。

ふたりは、それぞれ夢を見ました。

夜明けに兄の豊城命は、父である天皇に自分が見た夢を語りました。

「御諸山(みもろやま)に上り、東に向かい、八回槍を突きだし、八回刀を空に振りました。」と。

弟の活目命は、

御諸山の頂の上り、縄を四方に貼って、栗を食べている雀を追い払いました。」と。

天皇は、それぞれの夢に従い、

「兄は東に向かって武器を振り回したので、東国を治めるのが良かろう。

弟は、四方の気を配って、実りを考えているので、

私の跡継ぎになるのが良かろう。」と言われました。

4月19日、活目命を立てて皇太子としました。

豊城命に東国を治めさせました。

これが、上毛野君(かみつけのきみ)・下毛野君(しもつけのきみ)の先祖です。

 

上毛野君の由来は、崇神天皇からということになります。

 

さて、崇神天皇から垂仁天皇となり、

■ そして景行天皇の時代が来ます。

日本書紀「景行天皇」の巻は、ヤマトタケルの東征で有名ですが、

この巻のなかで、55年春2月5日、景行天皇は、豊城命の孫である彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)を、

東山道の十五国の都督(かみ)に任命します。

そして彦狭嶋王は春日の穴咋邑(あなくいむら)に来て、病気で亡くなります。

東のお百姓たちは、王が来なかったことを嘆き悲しみ、

王の屍を盗み出し、上野国に葬り祭りました。

 

そして景行天皇の巻は続けて、

56年秋8月の条では、

御諸別王(みもろわけのみこ)に詔して言います、

「お前の父である彦狭嶋王は、任命した所へ行くことができないで亡くなった。

だからお前は東国を治めるが好い。」

そこで彼は、天皇の命を受け、父の業をなさんとして東国へ行き、

善政を敷きました。

その頃、蝦夷(えみし)が擾乱を起こしたので、

彼は兵を送って、蝦夷を討ちました。

(中略)

こうして東国は事なきを得て、その子孫は東国にいます。

 

■ 蝦夷を征討する拠点

大和政権がすすめる蝦夷征討政策の一環のなかに上毛野氏はいます。

そして蝦夷を征討する拠点が「毛野」、つまり上毛野国と下毛野国であり、

その首長が、上毛野氏と下毛野氏でした。

 

上毛野氏は東山道の十五国の都督(かみ)という地位を倭王権から承認され、

エミシ征討も含めた東国支配の役割を担う武官として大王に奉事する有力首長として

位置づけられたと考えられる。と言います。

 

そして彼はあえて大胆な推論を展開します。

彦狭島王を葬った墓こそ、

東日本最大の前方後円墳である太田天神山古墳が相応しいと考える。

 

■ 擬制的な同族関係の構築

東国に根を張った上毛野氏は、次第次第に大和の豪族たちと関係を強めます。

そのなかでもとりわけ紀伊の首長,紀氏(きのうじ)と結びつきます。

紀氏は、海運ネットワークを持ち、瀬戸内海を掌握していました。

水軍を持ち、対外交通路を把握していました。

上毛野氏は連携を深め、紀伊の地点にも拠点を持ち始めます。

 

また上毛野氏は和泉地域にも進出し、

和泉地域の首長たちとも連携を深め、

いわば擬制的な同族関係を作り始めます。

 

小池先生の講演会発表資料から引用しますと下記のようなグループに分けられています。

 

Aグループ:豊城入彦命の後裔で「東国六腹朝臣」と称する東国

     (上毛野と下毛野)に拠点を有する氏族群。

Bグループ:「荒田別・竹葉瀬」の後裔で、「田辺史氏」に代表される渡来系の氏族群。

Cグループ:「豊城入彦命・八綱田・御諸別王」の後裔で

      和泉地域(もと河内)を本貫とする氏族群。

 

上記から上毛野氏の全国展開が見て取れるわけです。

 

(日本書紀に見える)

 朝鮮関係に関する葛城襲津彦と上毛野氏の共通性

4世紀後半―5世紀初頭にかけて

葛城氏は、紀氏、平群氏とともに朝鮮外交に主導的な立場でした。

葛城襲津彦

上毛野氏

神功皇后5年条

新羅征討、桑原・佐味(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)の四つの村の漢人の先祖を連れ帰る

神功皇后493

荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍とした。久氏らとともに兵を整え、卓淳国(とくじゅんこく)に至り、まさに新羅を討とうとした。

応神天皇14年条

加羅国へ派遣される。弓月君を加羅国へ呼ぶ。

応神天皇15年条

上毛野君の先祖の荒田別(あらたわけ)・巫別(かむなぎわけ)を百済へ遣わす。王仁を召された。

仁徳天皇41年条

紀角宿禰(きのつぬのすくね)とともに百済・酒君を連れ帰る。

仁徳天皇533月条

53年、新羅が朝貢しなかった。上毛野君の祖、竹葉瀬を遣わして、貢物を奉らないことを詰問した。しばらくして竹葉瀬の弟、田道(たじ)を遣わされた。

(略)新羅軍は破れ、四つの村の民を捕えて連れ帰った。

 

(小池先生 講演会資料P7,P8より作成)

 

■長持ち型石棺

日本書紀の記述の上で、葛城氏と上毛野氏は多くの共通性を持っています。

また葛城氏が同盟的関係を結んだ首長間では、長持ち型石棺が前方後円墳の中で共用されました。

小池先生は、群馬の「太田天神山古墳」 墳丘長210m

                  奈良の「室宮山古墳」   墳丘長238m

                大阪の「西陵古墳」      墳丘長210m

4世紀後半から5世紀にかけて

畿内の巨大前方後円墳で使用された長持ち型石棺は上記三つの古墳に共通してみられる、と言います。

 

(長持ち型石棺)

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(群馬県伊勢崎市 お富士山古墳の長持ち型石棺。

太田天神山の石棺はこれよりも少々大きかったと云われている)。

 

長柄神社と加茂神社 -葛城氏と上毛野氏に共通する神社

上毛野氏

葛城氏

邑楽郡 長柄神社(邑楽町)

大和国葛上郡 長柄神社(御所市)

 

河内国若江郷 長柄神社(八尾市)

山田郡 加茂神社(桐生市)

大和国葛上郡 鴨都波神社(御所市)

 

大和国葛上郡 高鴨神社(御所市)

 

■ 雄略天皇の時代

雄略は王統内の勢力を駆逐し、

また葛城の玉田宿禰や円大臣を葬ります。

葛城氏の勢力を削ぎ、大友氏と物部氏を用いて、

軍事的専制を敷きはじめ、かつては豪族の連合政権であったヤマト政権を、

雄略を頂点とする中央集権的な政体へと変貌させます。

 

また朝鮮半島から馬を導入し、

河内では馬の飼育が始まります。

そして朝鮮半島から鉄を輸入し、

いわば馬と鉄という二つの強力な戦略的な財により、

新たな支配秩序を構築します。

 

5世紀後半には、馬文化の導入により、

日本を貫く内陸ルートの開発は始まります。

 

■ 上毛野における馬と鉄器生産

榛名山麓では、渡来人を招聘して、大規模な開発が行われ、

三ツ寺の豪族居館が出現します。

 

■ 6世紀の倭王権

応神天皇以来の血統が絶え、

新たに継体天皇による王統が成立します。

小池先生の講演会の説明資料P13より下記の図を引用します。

 ヤマト政権の支配構造.jpg

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■ 継体即位による新たな王統が成立します。

大王を支える物部氏や大伴氏などの大連、

蘇我氏の大臣などをブレーンとする合議体制が確立します。

 

■ 武蔵国造の乱と上毛野小熊(かみつけのおくま)

継体天皇は、25年春2月7日、自分の長子の安閑天皇を即位させます。

そしてその日、継体は亡くなります。

 

安閑天皇元年、

武蔵国造 笠原値使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)とが、

国造の地位を争って、長期間、決着を見ませんでした。

小杵は性格が激しく人に逆らい、高慢で素直でありませんでした。

ひそかに上毛野小熊(かみつけのおくま)に助けをもとめ、

使主を殺害しようと図りました。

使主はそれに気づき、逃げて京へのぼり、実情を報告しました。

朝廷は裁断を下し、使主を国造とし、小杵を罰しました。

国造使主は感激して黙っていることができず、帝のために、

横淳(よこぬ)、橘花(たちばな)、多氷(おおひ)、倉樔(くらす)の4ヶ所の屯倉(みやけ)を設けて、

帝に献上しました。(日本書記)

 

→ この武蔵国造の乱の結果、

ヤマト朝廷は笠原値使主に武蔵国造の地位を与えます。

小杵は罰せられます。

併し、小杵に加担した上毛野君小熊は朝廷からは何のお咎めもありません。

 

笠原値使主は南関東の4つの屯倉を朝廷に献上します。

上毛野君小熊は国造の地位をめぐる争いに関与できるほどですから、

「東山道十五国都督」の地位であることがわかります。

 

→ そしてその後、

上毛野国に緑野(みどの)屯倉が設置されます。

上毛野国が、ヤマト王権の政治的・軍事的拠点として位置付けられます。

 

上毛野国緑野郡に「尾張郷」が存在し始めます。

継体擁立に力のあった豪族尾張氏とのネットワークがはじまり、

東国全体のシステム化・組織化が始まります。

当然、東北方面への版図拡大の一環です。

 

これから7世紀の上毛野氏の活躍が始まるわけですが、

今回の小池先生の講演は、時間の都合で、6世紀までとなりました。

7世紀の活躍に関しては、またいつの日か、

日を改めてご講演していただこうと思っております。

ー終わりー