◆終了した講演会◆令和 元年 5月 12日
深澤先生の「邪馬台国時代の東国社会」、会場はほぼ満杯でした。
270名ほどの聴衆が、約2時間半、熱心に聴講していました。
◆ 魏・呉・蜀の三国時代と卑弥呼
(深澤先生 講演会資料より)
(深澤先生 講演会資料より)
左の縦軸は西暦年代を表します。
深澤先生、魏志倭人伝の原文を使いながら、
それを現代語で説明しつつ、話を進めました。
中国は魏・呉・蜀の三国時代です。
倭国では大乱があり、
卑弥呼が女王となり、大乱は収まり、
卑弥呼は魏へ使いを送りました。
その時、魏より銅鏡百枚を授かりました。
◆三角縁神獣鏡
その銅鏡百枚の有力候補が、三角縁神獣鏡です。
魏の景初3年(239)と正始元年(240)の紀年銘を持ったものがあります。
奈良県の桜井茶臼山古墳で見つかったわずか数センチメートルの破片が、
群馬県の柴崎蟹沢古墳出土の「正始元年」銘を持つ三角縁神獣鏡と
同一の鋳型(同范鏡)で作られたものであることが、
三次元形状計測という手法により発見されました。
(深澤先生 講演会資料より)
◆樽式土器
丁度そのころ群馬の土地では、「樽式土器」を使う人々が生活していました。
西暦で言うと、A.D.100-250ごろの時代です。
櫛書文(くしがきもん)を多用している土器です。
(深澤先生 講演会資料より)
先生の話では、北陸からの圧倒的な影響があるとのことです。
朝鮮半島と結びつきが強かった長野県との関係も強く、
そしてその源流には、丹後につながる系譜が色濃く見て取れるとのことです。
その頃の丹後地域は、大陸や半島と関係が深く、
相当な文化が花開いていたとのことです。
それとともに(南)東北系の土器とのつながりも指摘されました。
この頃、樽式土器をつかう人々は、
森林の中へ入っての採集を行い、また畑作中心に励む人々でした。
もちろん小規模ながら山岳や丘陵地帯で水田も耕していました。
◆そして弥生後期後半から古墳時代前期へと
この時代になると、群馬県の内部、渋川地区の遺跡が衰退し、
高崎地域から東毛方面にかけての遺跡が多くなります。
この広大な平野部に、3世紀中ごろ、石田川式土器の流入がありました。
東海地方を源流に持つ土器で、東海地方の人びとが移住してきました。
(深澤先生 講演会資料より)
この台付甕は、甕の口縁部がS字状に屈曲しているのが特徴です。
元来、東海地方で始まり、東日本へ人々の移住に伴いやってきたとみなされています。
(深澤先生 講演会資料より)
◆東毛地域の発展
(深澤先生 講演会資料より)
高崎地域から東毛地域へかけて石田川土器の遺跡は広がっています。
深澤先生は、その中でも、屈指の遺跡は、
玉村町の砂町遺跡と徳丸仲田遺跡を挙げています。
◆前方後方形周溝墓へ
A.D.100ごろを境に群馬の日高遺跡では、
「円形周溝墓」あるいは「方形周溝墓」の墓形式が展開しています。
そしてそれは次第に「前方後方形周溝墓」へと変わってゆきます。
(深澤先生 講演会資料より)
熊野堂遺跡と鈴の宮遺跡が代表的な例です。
◆高塚の成立
西暦100年代半ばの倭国大乱から
西暦300年ごろまでのいわば邪馬台国の時代、
その時代の群馬県の様子がわかりかけてきたようです。
(深澤先生 講演会資料より)
西暦200年ごろを過ぎると、
東海地方からの移住者の集団がやってきて、
在来の人びとは、その新たな文化形態を在地化しつつ、
石田川式土器の隆盛があり、また前方後方形墳墓が取り入れられました。
それは元島名将軍塚古墳に代表される前方後方墳へと発展し、
それはやがて浅間山古墳の前方後円墳へと引き継がれてゆきました。
深澤先生、本日の講演、ありがとうございました。
邪馬台国時代の群馬の様子が手に取るようにわかりました。
◆講演の後、親睦会にて
2時間以上にわたり、熱心な講義をしてくださった先生を慰労するつもりで、
いつものように懇親会が開かれました。
(理事長 結城順子より深澤先生へ感謝の辞を述べているところです。)
ー終わりー