◆終了した講演会◆H 30 7 8

前澤先生には幾度となく当「歴史と文化を学ぶ会」で講演をしていただいております。

前回は「坂東八国」に関する話でした。

今回は、地元高崎の上野三碑に関する話でした。

 

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それも、上野三碑が成立するための歴史的な背景と経緯、

ここに焦点を充て、話をしてくださりました。

 

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山上碑と金井沢碑は祖先の供養のために、一族の人が建立しています。

先生の話によれば、これら二つの石碑は、新羅の大邱塢作碑(578年)

南山新城碑第一碑(591年)、壬申誓記石(552年もしくは612年)に似ているとのことです。

 

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(山上碑)           (金井沢碑)「高崎市文化財保護課出版物より」

 

一方、多胡碑の方は、新羅の真興王巡狩碑である北漢山碑(555年)・磨雲嶺碑(568年)・

黄草嶺碑(同)と似ているとのことです。

 

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(多胡碑)「高崎市文化財保護課出版物より」  (北漢山碑) 「ソウル国立中央博物館HPより」

 

多胡碑の方は、時の行政権力が、新たな郡を置くということを記念して建立したもので、

宗教的な動機ではなく、あくまでも為政者が行政権力もしくは政治的業績を誇示するためのものと先生は言います。

 

先生は、三碑の成立の背景に、新羅から渡来した人々がもたらした情報があったとみています。

 

また8世紀初頭から、国家的な課題であった対蝦夷政策では、

東国の拠点づくりを再編する形での新しい郡の形成を見ています。

考古学的な事象では、高崎市の「剣崎長瀞西遺跡」では、

朝鮮半島から渡来した馬飼集団の人たちが確認され、

また6世紀後半の観音山古墳や6世紀末期の観音塚古墳では、

継続的に朝鮮半島との交流があったことがわかると言います。

 

そして文献的な資料(日本書紀)では、

◆ 応神天皇15年8月 「上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして、

王仁を召された。阿直岐はの阿直岐史の先祖である。」

◆仁徳天皇53年 「新羅が朝貢しなかった。」

 同年夏5月「上毛野君の先祖の竹葉瀬を遣わして貢物を奉らないことを問わせられた。(中略)

しばらくして竹葉瀬の弟田道を遣わされた。(中略)

四つの邑の人民を捕えて連れて帰った。」

◆推古天皇9年9月 「新羅の間諜の迦摩多が対馬へやってきた。それを捕えて朝廷に送った。

そして上野国に流した。」

◆天智天皇2年3月 「三月に前軍の将軍 上毛野君稚子・(中略)二万七千人を率いて、

新羅を伐たせた。」

 

考古資料と文献資料から、上野三碑が建立された上野国西南部には古い時期から在来の人びとと

渡来の人びとが強制する社会が形成されていたと先生は見ています。

 

結論として、先生は、「長利による山上碑にはじまる三碑の建立は、偶然のものではなく、

古くから共生社会が形成されていた地域としての歴史的特性があって、はじめて実現したと理解

することができます。」と言います。

 

懇親会:

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(左は先生、その正面は結城 順子)

 

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奈良大学学友会の守屋さんの乾杯の音頭で始まる。

 

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懇親会の食事中とはいえ、奈良大学の学友会の皆さんや、当会の会員たちによる質問で、

前澤先生も大忙しでした。