◆終了した講演会◆H 30 11 25

東日本の古代鉄生産

笹澤先生の鉄に関する講演、

日本古来の「たたら製鉄」の話から始まりました。

近代の製鉄が導入されるまで、

日本では、ほぼすべての鉄製品が、「たたら製法」によってつくられていました。

 

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「鉧(けら)押し」という鉄の塊を生成する方法と、

もうひとつ「銑(ずく)押し」という鉄の塊を生成する方法がありました。

その説明から入り、古代の鉄生産の説明がありました。

 

私たちは、普通、昔ながらの製鉄というと、「砂鉄」から作ると自動的に考えてしまいますが、

日本の古代においては、鉄鉱石と砂鉄の双方が使われていました。

 

5世紀、朝鮮半島では高句麗が勢力を持ち、新羅と手を組み、

百済を攻めようとしている時期でした。

百済の方は、倭国(日本)に救いの手を求め、

日本の協力のもと、高句麗と新羅に対抗しようとしている時期でもありました。

その協力の見返りに、当然、百済は、日本へ様々な技術をもたらします。

馬生産、鍛冶技術、鉄素材、鉄製品、須恵器の生産などがありました。

そうして6世紀後半、日本へも製鉄の技術が導入されました。

 

日本で最古と言われている製鉄遺跡は、岡山県総社市千引カナクロ谷にあります。

鉄鉱石を原材料とする製鉄でした。

その頃、朝鮮半島では、鉄鉱石が原材料でした。

 

それまでは、朝鮮半島から輸入された鉄素材が使用され、

鍛冶は日本で行われ、鉄製品に仕上げるということがおこなわれていました。

 

7世紀後半、東日本へ製鉄技術が伝わってきました。

最初に伝わってきたところは、群馬県前橋市の三ヶ尻いせきです。

近江や吉備を含めた列島各地の製鉄技術が集約されて伝わってきました。

 

その背景には、白村江で日本が大敗を喫し、

唐が日本へ攻めてくるという強迫観念の中で、

日本自身、中央集権国家を構想し始め、

大規模なインフラ整備(徴税用の役所の設置、幹線道路等)が始まった時期です。

それに合わせて、今まで鉄は国家中枢が管理していましたが、

地方にも各自生産を許すという形になりました。

いわば各地域での現地生産が可能になったわけです。

 

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陸奥の国南部の製鉄

さて、笹澤先生に説明を続けます。

この地域の製鉄遺跡は、日本列島の中でも突出していて、

古墳時代から平安時代までに発見されている製鉄炉1084基のうち、

224基(32%)が集中しているとのことです。

この地域では、炉の一方に「踏みたたら」を設置する新しい箱型炉が現れます。

 

時の政権は、

列島の技術者たちが集結して、対蝦夷政策の意味もあって、

陸奥の国のインフラを強化しました。

 

最後に「まとめ」として、

① 7世紀後半、標準型の大型箱型炉が導入されたが、

そのままでの形では定着しません。

② 8世紀には、地域ごとに減量や労働規模に見合った製鉄技術が開発されます。

 東北南部:国家プロジェクトを担う大規模経営に適した改良は小型炉

 関東その他の東日本:小規模経営に適した竪型炉。やがて小型自立炉へ。

 

そして、平安末から中世へかけて、製鉄は衰退してゆきます。

原材料(木炭)と良質な砂鉄のある山陰地方へと、

また生産性の高い東北北部へと移行してゆきます。

それ以外のところでは、衰退の傾向を見せ、

製鉄というと、東北北部と山陰地方が日本の製鉄を代表する地域として発展しました。

 

(控室にて、理事長 結城と歓談する笹澤先生)

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