◆理事長ー歴史の散歩道 9ー
山の尾根上にある前方後円墳
ー森将軍塚古墳ー
一度、奈良大学学友会の方々の旅行で連れてきてもらったことがあり、
その時、山の頂近くに築いたこの古墳を、
また訪ねてみようと思い立ち、今回はその思いを果たしました。
有明山北側の尾根上にあって、森将軍塚が位置しているのは、
海抜490mの高さです。
古墳が、尾根上にあるというのは、私にとっても初めての出会いです。
あいにくこの日は曇っていて、
せっかくの善光寺平の平野部や山脈もはっきりとは見えないのが残念です。
この尾根上の古墳からは、ぐるりと信濃の山脈が取り囲んでいます。
前方右手には飯綱山、そして戸隠山が見えます。
そして古墳がやはりぐるりと囲んでいます。
右手、写真からは逸れてしまって見えませんが、倉科将軍塚古墳、
そしてその向こうの土口将軍塚古墳、
写真正面あたりの川柳将軍塚古墳、左手隅の有明山古墳。
ほぼこれらの古墳が、善光寺平を見下ろす尾根上に作られているのが面白いですね。
古墳時代前期(4世紀末)の築造と考えられ、信濃の国の首長の墓と目されています。
墳長は100mほどで、墳丘は葺石で覆われ、墳長部には、埴輪が多く置かれています。
形象埴輪が墳長上に整然と並べられています。
後円部の 墳長からは、眼下に善光寺平、そしてその周囲はまた山々に囲まれています。
この長方形で囲ったところの下に「竪穴式石室(石槨)」がありました。
長さ7.6m, 幅2m,高さ2.3mの石室は、東日本でも最大級のものと言われています。
その石室の原寸大の模造版が、森将軍塚古墳館の中に展示されています。
この森将軍塚の所在地は、大穴山という字名がついています。
おそらく、むかしの盗掘団が、この石室を盗掘するのに大きな穴を開けたのでしょう。
ほぼすべての副葬品は盗掘されました。
さて、これだけの大きな規模の古墳にどのような首長が葬られたのでしょうか。
多くの解説書は、信濃の国の首長(王)とだけ記しています。
古墳の考古学上の実証面からは、そうとしか言えないのでしょう。
それは当然のことですが、ここで伝説や神話に耳傾けてみるのも、
あるいはひょっとしてこの信濃の国の古墳を味わう背景として面白いかもしれません。
古事記の話 -當藝志美美の命の變(二)-
かくてカムヤイミミの命が、弟のタケヌナカワミミの命に国を譲って申されるには、
「私は仇を殺すことができませんでした。それを、あなたは完全によう殺しておしまいになった。
ですから、私は兄ではあるが、上にいることはできません。それゆえ、
あなたが天皇になられて、天下をお治め遊ばせ。私はあなたを助けて、祭祀をする人となって、
お仕え申しましょう。」と申された。そこでそのヒコヤイの命は、茨田の連、手島の連の祖先である。
カムヤイミミの命は、意富の臣、小子部の連、坂合部の連、火の君、大分の君、
阿蘇の君、筑紫の三家の連、雀部の造、子長谷の造、都祁の直、伊余の国の造、
科野の国の造、道の奥の石城の国の造、常道の国の造、長狭の国の造、伊勢の船木の直、
尾形の丹羽の臣、嶋田の臣等の祖先である。
カムヌナカワミミの命は、天下をお治めになった。
すべてこのカムヤマトイワレ彦の天皇は、御歳百三十七歳、御陵は傍火山の北の方の
白壽(かし)の尾の上にある。」(尾崎 暢殃著ー古事記全講よりー)
この古事記の記述を信じれば、
カムヤイミミの命は、自分は天皇とはならず、弟のタケヌナカワミミの命に皇位を譲り、
意富の臣から始まる様々な連や造の祖先となったとあります。
その中になんと科野(信濃)の国の造がふくまれているわけです。
いわば、これは天皇家の直系子孫ということになりますね。
そしてその子孫の何某が、この善光寺平を収め、近隣の国々を支配したとしたなら、
そしてこの将軍塚に葬られていると空想したら、
この空想は、この信濃の国に神秘的な香気を放ち、
将軍塚の古墳群もまた神秘的な壮大さを以って迫ってくるのではないでしょうか。
この有明山の森将軍塚の墳長部に立って、
天皇の皇子が東国へ送られ、その子孫がここを治め、
この山頂に眠ったことを思うと、
なんだか考古学という実証面を遠く離れたロマンの世界に浸るようで、
私は、何とも言えない神秘的な香気に酔っているような雰囲気の中にいました。