◆理事長ー歴史の散歩道 8ー

埼玉古墳群 (さきたまこふんぐん)

(埼玉県行田市)

 

埼玉古墳群のなかの稲荷山古墳から有名な「金錯銘鉄剣」が出土しています。

今回は、「埼玉県立さきたま史跡の博物館」に展示されているこの鉄剣を見たくて、

高崎から車を飛ばしました。

 

国道17号線を通り、深谷バイバス、熊谷バイバスを通過して、

行田市にある博物館までやってきました。

 

初めて見る「金錯銘鉄剣」です。

博物館の係員の忠告で、ガラスケースに近接して撮影しないでください、と言われ、

ガラスケースから1mほど離れて撮影しました。

 

金錯銘鉄剣 表.JPG

 

鉄剣拡大.jpg

*(鉄剣表文の文字の始まり 拡大)

 

この鉄剣は、当地の古墳群の中の稲荷山古墳から発見されました。

金象嵌(きんぞうがん)といい、鉄の刀身に字を彫り、そのなかへ金を流し込んだものです。

115文字が書かれています。

 

埼玉 稲荷山古墳.JPG

 

稲荷山古墳です。

5世紀末の建造です。

埼玉古墳群の中でもっとも古い古墳です。

手前が前方部で、後ろは後円部にあたります。

 

後ろの後円部の墳頂に、舟形に掘った竪穴に小石を詰めて、棺を置いたものが発見されました。

礫槨(れきかく)と専門家は言っています。

盗掘もなく、埋葬当時のままで、遺物が残っていました。

 

遺体の収まっていた礫槨.JPG

* (さきたま史跡の博物館展示の写真より)

 

この石ころの礫槨のなかに、遺物はありました。

 

博物館の復元図を示しておきます。

 

埋葬 予想図.JPG

 

「金錯銘鉄剣」は、被葬者の左手のやや下にありました。

 

この墳頂部には、この礫槨と並んでもうひとつ棺が発見されています。

素掘りの竪穴に粘土を敷いて棺を置いたものです。

これを専門家は粘土槨(ねんどかく)と呼んでいます。

この方は、完全に盗掘を受けていて、遺物はあまり残っていませんでした。

 

「金錯銘鉄剣」の方は、礫槨の上に稲荷様が祀ってあり、

稲荷様の祠のお陰で、盗掘を免れたとのことです。

 

礫槨と粘土槨.JPG

 

私が手にさわっているところが粘土槨の盗掘された部分です。

その後ろ手の柵の中が、稲荷社があり盗掘を免れた「金錯銘鉄剣」のあった場所です。

 

鉄剣のあった場所.JPG

 

幸運にも盗掘を免れて、千五百年近く「金錯銘鉄剣」はここに眠っていました。

 

1966年、埼玉県は、これら古墳群を「風土記の丘」として整備することを決めました。

その一環として、古墳内部を発掘・整備して、内部の様子を一般の人々に見てもらうことを考えました。

 

どの古墳の内部を整備するか、

それには愛宕山古墳がいいということになったのですが、

この古墳があまりにも完璧な形なので、掘り起こすのはもったいないということとなり、

急遽、稲荷山古墳に発掘の矛先が向けられました。

 

墳頂部を掘りおこすと、

2基の埋葬施設が発見されました。

鏡や装身具、馬具、武器等、豪華な副葬品とともに「金錯銘鉄剣」が発見されました。

 

この発見から十年後、1978年、保存処理を専門とする大崎敏子さんという研究員が、

この「金錯銘鉄剣」のさび落としをしていたところ、さびのなかに輝くものを発見しました。

レントゲン撮影後、それが金文字であることが判明しました。

 

金錯名釈文jpg.jpg

 

金錯名 表 説明文1.jpg

金錯名 説明改定.jpg

*(高橋一夫著「鉄剣名一一五文字の謎に迫る」新泉社ならびにその他多くの

人達の著書を参照しました。)

 

高橋一夫氏講演.JPG

(2015年2月 埼玉県立さきたま史跡の博物館 元館長の高橋一夫先生による

「歴史と文化を学ぶ会」における講演)

 

◆ ワカタケル大王

 

前回、熊本県の江田船山古墳を見学しましたが、

これは明治の初期に発見された古墳です。

その古墳からは、前回の「歴史の散歩道」に書いたように、銀象嵌の鉄剣が発見されました。

 

江田船山の75文字のいくつかは、相当の年月の間に保存が悪くなっていて、

大王名のところが欠けていました。

 

稲荷山古墳出土の金象嵌の鉄剣が発見解読されたことによって、

 

「台(治)天下獲□□□鹵大王世」

 

それが獲加多支歯(ワカテケル)大王であり、

第21代雄略天皇に同定するのが通説となりました。

 

雄略天皇といえば、あの万葉集の巻頭を飾る有名な歌の作者です。

 

雄略天皇の在位は、今の西暦に直すと、457年ー479年です。

金象嵌の文中、辛亥の年は、雄略天皇15年の471年にあたります。

 

万葉集は7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂されています。

5世紀後半の人物である雄略天皇が、万葉集の巻頭を飾るとは、実に200年以上にわたって

記憶され続けてきたという驚くべき事実です。

また雄略天皇に対する

奈良朝の人びとの思い入れも相当なものです。

 

スライド1.JPG

 

雄略天皇 万葉御製.jpg

 

5世紀後半には、江田船山古墳のある九州からこの金錯銘の関東地方まで、

いわば大和朝廷を一大勢力圏にした偉大な雄略天皇を、

万葉集の編者たちは、2世紀の歳月が流れていても、

国家的な大事業であった万葉集の編纂、その巻頭を飾るにふさわしい人物、

と看做したのでしょう。

 

(埼玉 二子山古墳は、万葉集巻頭の雄略天皇の歌のように、

牧歌的な雰囲気でした。)

IMG_3820.JPG

 

 

 

(埼玉 丸墓古墳のあたりも、5月初旬の新緑に覆われて、平和でのんびりして、

かつての万葉の世界を思わせるようでした。)

 

丸墓古墳の前を散歩.JPG 

 

 

◆ 万葉仮名のはじまり

 

獲加多支歯(ワカタケル)や乎獲居(ヲワケ)まど、

また8代にわたる子孫の人名、あるいは地名等もすべて万葉仮名で書かれています。

 

江田船山古墳の銀象嵌の太刀にも、「伊太和」(イタワ)とか「无利弓」(ムリテ)という

人名に対し、万葉仮名が使われています。

 

西暦400年代には、すでに、万葉仮名が使われ始めていた証拠として、

江田船山古墳とさきたま稲荷山古墳出土の鉄剣は、大変貴重なものです。

 

当時の中国本土の人たちからみたら驚くべきことです。

漢字本来の字義には構わず、音だけを借りてきて当時のヤマト言葉に強引に当てはめ、

また或る時は漢字の訓だけを持ってきて、

これも強引にヤマト言葉にあてはめるということをし始めます。

 

中国本土と陸続きでなかったことが、幸いしています。

海という天然の国境で遮断されていて、

中国本土の人たちと頻繁に交流する機会も稀で、

日本の中だけで、どうしてもヤマト言葉を筆記するとなれば、

万葉仮名の発明ということに行きつかざるを得なかったのでしょう。

 

そして万葉仮名をスピーディに書き、実生活上の効率性が加われば、

当然、簡略性と利便性が求められ「かな文字」の発明ということにつながります。

 

「かな文字」により、平安朝の日本人による日本人のための文学が始動します。