◆理事長ー歴史の散歩道 7ー
数か月前、東京の国立博物館で江田船山古墳の出土品をみました。
ほとんどの出土品が国宝に指定されていて、
なかでも銀錯銘太刀(ぎんさくめいたち)は有名です。
熊本の和水町へ来てみると、
思ったよりもこじんまりした古墳で、
群馬の堂々とした前方後円墳とは異なり、
一見、どこにあるのか、目を疑うほどのこじんまりした古墳には驚きました。
そもそもこの古墳には、曰く因縁の昔話があります。
明治6年1月元旦、江田村のお百姓、池田 佐十の枕元に一匹の白い狐が現れ、
その狐から御宣託があり、1月4日、御宣託通りに、自分の畑地である清原台地を掘りました。
出てきた、出てきた、多くの財宝が出てきました。
それら財宝の数々が、今わたくしたちが東京国立博物館で見ている国宝です。
柔らかな冬の陽光が燦燦と降り、
5世紀末から6世紀初頭にかけて築造されたというこの古墳は、
静かに平和なたたずまいの中で眠っているという印象を受けました。
幅20mの周溝もその穏やかさを一層増しているようにも見えました。
(日本でも最古といわれる銀象嵌の太刀がでてきた古墳の内部にて)
江田船山古墳の後円部にある石棺式石室には、残された金銅製の冠から推定して、
時期の異なる3人の人物が、埋葬されていたと推定されています。
古墳そのものは高さ10mほどで、全長は62mほどのこじんまりしたものですが、
ほぼすべての副葬品が国宝という前代未聞の古墳でもあります。
この古墳からそう遠くない八女(やめ)というところに、
筑紫の君磐井の墓があり、それが岩戸山古墳と言われています。
おそらくこの江田船山古墳の被葬者ムリテその他2名も、
筑紫の君磐井に連なる地域の首長であったろうと云われています。
(国宝の銀象嵌銘をもつ直刀ー東京国立博物館蔵ー75文字の銘文がある)
(東京国立博物館 説明文より)
白石 太一郎氏「船山古墳の墓主は誰か」(東アジアと江田船山古墳)より
天の下治らしめしし獲□□□鹵大王の世、 典曹に奉事せし人、名は无利弓、
八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。
八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。
此刀を服する者は、長寿にして、子孫洋々、□恩を得る也。
其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書する者は張安也。
現代語訳(東京国立博物館 展示説明より)
「ワカタケル大王(雄略天皇)が天下を治めておられた時代、文書を司る役所に仕えた人、
その名はムリテが、八月に、製錬用の鉄釜を用いて、4尺(約1mあたり)の立派な太刀を制作した。
八十回、九十回にいたるほどに丹念に打ち、また鍛えたこの上もなく上質の太刀である。
この太刀を身に着ける者は、長寿を得て子孫が繁栄し、恩恵を受けることができ、
その支配地を失うこともない。命じられて太刀を制作した者の名は、イタワで、
銘文を書き記した者は張安である」
白石 太一郎氏「船山古墳の墓主は誰か」(東アジアと江田船山古墳)より
更に下記引用します。
「江田船山古墳の被葬者もこの菊地川流域の有力豪族であって、
おそらく百済をはじめとする朝鮮半島諸国あるいは南朝との交渉・交易に
非常に重要な役割を果たした。この時期、中央の大和朝廷で外交という役割を十分に果たすには、
朝鮮半島などとの交渉・交易に実際に従事していた火の葦北国造、あるいは、
菊池川流域の豪族なりの助けを借りなければできないのであります。
ムリテをたとえば大伴氏のような中央で外交を担当する畿内豪族の族長と考えると、
そういう職掌の上から重要な提携関係にある肥後の豪族にこうした太刀を与えることは
充分に考えられるのではないかというのが私の考えであります。」
古墳の周りには、石人、石馬が配されています。
(石人ー東京国立博物館蔵ー)
九州の福岡、熊本、大分あたりにだけ分布した古墳文化の一種です。
埴輪とともに古墳に並べられたと云われています。
(古墳時代、朝鮮半島から渡来した馬具ー東京国立博物館蔵ー)
(正面奥が菊池川、手前が江田川)
江田船山古墳は、西は菊池川、北は江田川で区切られています。
標高30m位の低い丘陵地が連なっているところに古墳は築かれています。
江田船山の他にこの清原台地上には、いくつかの古墳が築かれています。
(江田船山古墳のすぐ隣にある京塚古墳)
(虚空蔵古墳)
(塚坊主古墳)