◆理事長ー歴史の散歩道 6ー

弥生時代の大環濠集落で知られる遺跡です。

十二三年前一度訪れたことがありました。

今回が二度目の訪問です。

来てみると、冬空とはいえ、よく晴れた日で、

後ろの脊振山系(せふりさんけい)が青々とそびえ、

逆に脊振山系を背にして立つと、有明海までの平野部が一望のもとに見渡されます。

 

 

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脊振(せふり)の山脈は、高さ400mから1000mぐらい山々が連なります。

この吉野ケ里から背振の麓まで約5km.

そして今度は逆に吉野ケ里から有明海までは、当時、わずかに3-4kmでした。

(現在では有明海まで20km.)

また吉野ケ里の丘陵地帯から少し下れば、水田となる平野部が眼下に広がります。

 

有明海には魚貝類が豊富で、また背振の山々には食料となる動植物が豊富で、

どちらでも一日の日帰り行程で往来できたのでしょう。

きっと住みやすい場所だったに違いありません。

 

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(外壕の柵の後ろには、敵の侵入を防ぐ逆茂ーさかもーの設置)

 

紀元前4世紀ごろから集落が始まりました。

弥生時代の中期には、吉野ケ里を一周するような大環濠が作られます。

コメの生産が大規模に始まりましたから、財も増え、

財と富を争って戦争も始まったに違いありません。

その防御のために、環濠の脇には柵と土塁と逆茂(さかも)が設置されます。

 

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(南の村ー集落を支える農業の従事者、工業の職人、養蚕家や一般の人々、

庶民が暮らしていた界隈。前面は村の広場と考えられてる。)

 

紀元後3世紀ごろが、この村の最盛期で、環濠も外環濠と内環濠の二重となり、

南の方では南内郭、北の方では北内郭という二つの内郭で仕切られます。

近郊の村々を合わせると、人口も5,000人ほどの数になっていた模様です。

吉野ケ里は、いわば、近郊の村々の中心地だったわけです。

 

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外環濠のさらに内側には,内環濠ともいうべき堀が作られています。

これは北内郭の内環濠です。

左手には大きな主祭殿ともいうべき建物が配置されています。

おそらくこの村の最高幹部の集まるところだったのでしょう。

 

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主祭殿の最上階では、女性の巫女が、神と対話しています。

村の重要な決定には、このような神の御託宣が必要だったのでしょう。

巫女は神からの御託宣を受けると、

階下で会議を主催している村の首長と幹部たちにその託宣を伝えます。

 

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村の首長とその幹部たちの会議

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主祭殿の北側には、穀物や農耕器具等を収めたいた倉庫群の建物があります。

そしてその更に北側には、この村の奥殿ともいうべき神聖なる墓地が始まります。

 

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死者を葬った甕棺墓(かめかんぼ)の跡です。

この地だけでも三千をこえる甕棺墓が発見されています。

これら甕棺墓のさらに裏手、北側はこの村の長ともいうべき人、

あるいは周辺地域全体の首長(王)とも呼ばれる人の墳丘墓が見えます。

 

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墳丘墓はかなりの大きさで、縦横46m×27mで、高さは4.5mほどです。

手前の柱は10mほどの高さです。

その手前の大きく割れた堀は、かつての墓参用の参道と考えられています。

 

この墳丘墓の内部では、14基の甕棺が収まっていました。

現在は、その甕棺の跡が、博物館として整備されています。

 

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(墳丘墓の内部)