◆理事長ー歴史の散歩道 5ー

西都原古墳群 (さいとばるこふんぐん)

(宮崎県西都市大字三宅他)

 

日本でも有名な古墳群の一つで、一度は来てみたいと思っていました。

こうして来てみると、小高い丘の上に多くの古墳がひしめいています。

 

4世紀初めから7世紀初めまでの古墳群で、一番最初の4世紀から5世紀半ばまでは、

前方後円墳(31基)、そしてこの古墳群の中で圧倒的な多数を占めるのが、

円墳(279基)で、これは4世紀半ばから6世紀終わりまでの期間に築造されました。

そして最期に地下式横穴墓群(12基)があり、

これは6世紀初めから7世紀初頭までの築造と云われています。

今回の訪問では、有名な男狭穂塚(おさほづか)と女狭穂塚を写真に収めることができませんでした。

森におおわれていて、宮内庁の管轄で中に入るわけには行きませんでした。

 

(男狭穂塚近くにて)

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男狭穂塚は伝説によれば、ニニギノミコトの墓とみなされ、

全長175mでホタテ貝型古墳と言われ、この型式の中では

日本最大の大きさと言われています。

また女狭穂塚は、伝説上、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の墓と言われ、

全長180mで九州最大の前方後円墳です。

この二つの古墳とも5世紀初頭から中葉にかけての築造で、

どうしても伝説とは異なった被葬者があっても、当然のことであると思います。

 

西都原考古館の館長 北郷 泰道氏は、

継体天皇の時期、列島弧の派遣を争い五二八年に没したとされる

筑紫の君磐井を葬った古墳が、6世紀代では九州最大の前方後円墳・岩戸山古墳

(福岡県八女市,墳長135メートル)とされている。

それに対して、5世紀前半代、それをはるかに凌駕する規模の前方後円墳

・女狭穂塚や列島弧最大規模のホタテ貝形古墳・男狭穂塚の被葬者は、

すくなくとも磐井に匹敵する人物として《記・紀》の上に登場しているはずである。

そう考える時、《前方後円墳の規模は、被葬者の生前の権力の大きさに比例する》

とするおおいなる仮説を前提とすれば、ほとんど唯一個人名が記され《記・紀》

に登場する日向の豪族《諸県君牛諸井》なる人物の葬られた墓を過小評価するわけにはいかないであろう。

と男狭穂塚の被葬者を諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)と推論し、

また女狭穂塚の被葬者をその子 髪長媛(かみながひめ)と推論しています。

 

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西都原にはこのように小さな円墳が多い。

 

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第一古墳群  一見円墳に見えますが、実は前方後円墳です。

西都原古墳 13号墳で4世紀半ばの築造で、柄鏡式の前方後円墳と云われています。

後円墳の径は45mあります。高さ6,7mで、全体の墳長は78,5mです。

 

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この13号墳の内部でガイドさんからの説明を聞きました。

発掘したとき、多くの装身具(まが玉、管玉、小玉)、刀子、鉄剣それに

三角縁三神獣鏡なども現れたそうです。

このガイドさんの右下に、木棺を埋葬した長方形をかたどった石が組まれていました。

 

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鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)

 

古墳の周囲には土塁が築かれ一周している珍しい古墳。

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周囲の土塁の上を歩く。はるか向こうには尾鈴の山脈が見えます。

あの尾鈴山脈のふもとに、歌人 若山牧水の生家があります。

ここ西都原は、海抜70mの大地と聞きますけれど、なにかもっとはるかに高い台地の

上にいるような錯覚にとらわれます。

ここは洪積層という大地の上です。

洪積層という大地の上は、地震の時に液状化が無く、洪水の被害を受けにくく、

しかも水はけがよく、きっと埋葬する人たちもまた被葬者たちも永遠にこの墳墓が続くことを願って、

この大地を選んだのでしょう。

 

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鬼の窟古墳の内部(石室)

 

築造伝説:

鬼が、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)との結婚を望み、

彼女の父親である大山津見神(おおおやまつみのかみ)は、

一夜にして窟屋を作ることができれば、結婚させてあげようと鬼に持ちかけました。

鬼は、一夜にして完成させます。

が、結婚させまいとして、大山津見神は窟屋の天井石を抜き去って、

投げ捨てたと云われています。

もう一つの伝説:

父親は、窟屋の石を抜き取って、

ニニギニミコトと投げ比べして、勝ったなら、結婚を許すという条件で、

投げ比べをし、ニニギニミコトが見事勝ち、結婚を許されたという話である。

 

話としては、前者の鬼の築造話の方が面白いですね。