◆理事長ー歴史の散歩道 3ー
西谷墳墓群 ー四隅突出型墳丘墓ー
(島根県出雲市大津町)
上から見た形が四角形の方墳で、その四角形の四隅が突出しているのでこの名があります。
最初は、弥生時代の中期後半、中国地方の山間部、三次あたりで始まり、
弥生時代後期には妻木晩田遺跡あたりに広まり、
弥生時代後期後半ともなると(1900年~1800年前あたり)、出雲地方に広がります。
またその後、北陸地方にまで広がりました。
出雲地方に広がりを見せたその見本が、この西谷古墳群です。
西暦100年代半ばあたりから1号墓、2号墓、3号墓が築かれ、
西暦200年代には4号墓、6号墓、9号墓が築かれ、
西暦300年代が始まる前あたりで、この西谷墳墓郡も終わりとなります。
(丁度歴史の年表あたりから推測すると、
倭国が乱れ、卑弥呼が女王となり、
そして卑弥呼が魏へ使いを送り、
そして壱与が女王になるころです。)
2号墓の四隅下のあたりです。
これらの四隅は、墳丘墓の上の平地へ上るための坂道だったようです。
墳丘墓の上の平地では、祭りやお葬式などが行われた模様です。
3号墓の四隅突出の部分です。
3号墓の突出部を含む推定面積は、約52mX約42X約4.5mです。
(出雲市教育委員会「西谷墳墓群 史跡ガイド」による)
島根大学の発掘調査によると、
この墳丘墓には、8人以上の人物が葬られていることが判明し、
葬儀のお祭りに使われたとみられる土器が大量に出土しました。
そしてその土器の三分の一が岡山や北陸の特徴をもつ土器だったのです。
3号墓頂上から右手向こうの2号墓を見渡すところです。
正面が4号墓です。
山陰から北陸にかけて、出雲を中心とする一大勢力があり、
これらのグループが同盟或いは連合を組んでいたと推測されています。
そしていつごろからか、ヤマトを中心とする一大勢力に押され、
そして古墳時代の初めには、この四隅突出型墳丘墓は消滅していってしまいます。
これらの墳丘墓は、かつて古代の出雲に一大王国があったことの証明でもあるわけです。