◆理事長ー今城塚古墳を訪ねて
今城塚古墳
第26代 継体天皇の遺跡を訪ねて
1. 今城塚古墳
令和5年3月ようやく春の日差しが訪れる中、
継体天皇陵を訪ねました。
(古墳歴史館の方から見た今城塚古墳)
今城塚古墳歴史館の展望台からみた今城塚古墳です。
手前に見えるのは埴輪群です。
東西65m南北6mにもわたる日本一大きな作り出し部に、
出土品の複製が展示されています。
馬の埴輪18体が見事に並んでいます。
隣に並ぶのが水鳥形埴輪13体です。
■ 河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)
武烈天皇が亡くなったとき。武烈天皇の子孫は一人もいませんでした。
時の重臣 大友金村大連(おおとものかなむらのおおむらじ)は、
皇統の失われることを嘆き、
ここに応神天皇の5世の孫、継体を推戴しました。
君命を受けた旗印を掲げ、神輿をそなえ、
三国(現福井県坂井郡三国町)へ出向き、
皇位を継承することを願いました。
ここで継体はすぐに返答せず。
たまたま知り合いであった 河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)を使わして、
その主意を調べさせました。
荒籠は、都での大臣・大連らの本意は大丈夫ですと継体に奏上しました。
この馬飼の首領の言葉と情報の正確さを信じ、
皇位につくことを承諾しました。
馬と馬飼の首領、このおかげで継体は皇位を継承するところとなったわけです。
■ 今城塚古墳と大田茶臼山古墳
継体天皇陵として治定されているのは、今城塚古墳ではなく、大田茶臼山古墳です。
両古墳は、川を隔てて,1.6kmしか離れていません。
宮内庁は、多くの専門家や学者たちの報告にもかかわらず、
この大田茶臼山古墳を継体天皇陵として認めています。
では、なぜ今城塚古墳が継体天皇の陵として広く知られることになったのか、
ここへ来るまで、私には何もわからなかったわけですが、
ここではじめてその理由の一端を知ることになりました。
① 年代の違い
今城塚古墳の近くに新池窯跡遺跡があります。
ここで今城塚古墳の埴輪は焼成されました。
もちろん大田茶臼山古墳の埴輪もここで焼成されました。
埴輪窯跡に残る焼土の考古地磁気測定によって、
大田茶臼山古墳の埴輪は450年±10年という判定が出ています。
今城塚古墳の埴輪は520年±40年という結果です。
継体天皇が亡くなられたのは西暦531年です。
当然、今城塚古墳が継体の陵として有望視されます。
② 文書による証拠
日本書記では、「冬十二月の丙申の朔、庚子(かのね)に
藍野陵(あいのみささぎ)に葬りまつる」
古事記では、「天皇、御年肆拾参歳(おんとしよそじまりみつ)
御陵は三嶋の藍の陵なり」
書記も古事記も藍野陵となっているだけで、
これは三嶋平野の中の藍野という場所だけはわかることになります。
延喜式には次のように書かれています。
延喜式諸陵寮
「三嶋藍野陵 (みしまのあいののみささぎ)
磐余玉穂宮御宇継体天皇(いわれのたまほのみやぎょうけいたいてんのう)
在摂津国嶋上郡 兆域東西三町(せっつのくにしまがみこおりにありて ちょういきとうざいさんちょう)
南北。守戸五因」(なんぼく しゅこごいん)
これでみると、あきらかに摂津の国 嶋上郡にあります。
嶋上は、川を挟んで、現在の高槻市です。(今城塚古墳の場所)
嶋下は、茨木市にあたります。(大田茶臼山古墳の場所)
ー続くー