◆理事長ー火焔土器の発見地を訪ねて

 

火焔土器の発見地

史跡馬高・三十稲場遺跡を訪ねて

 

 1. 馬高縄文館

新潟県長岡市関原町の火焔土器ミュージアム「馬高縄文館」を訪ねました。

縄文館の敷地入り口には二本の高いポールの上に大きな火焔土器のレプリカが建てられていました、さすがに、火焔土器の発見地を感じました。

 

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1964年に開催された新潟国体ではポスターに使用され、聖火台も火焔土器をモチーフにつくられました。芳名帳に「岡本太郎」の言葉「火焔土器の激しさ 優美さ」が記されていました。

 

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沢山の「火焔型土器」の展示に驚きました。蓋つきの「刺突文」土器の美しさにも圧巻です。

 

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また、「火焔土器」と同時に発見されたといわれる土偶は、その優美なようすから、「ミス馬高」と呼ばれているそうです。

 

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発掘調査

馬高・三十稲葉遺跡の発見は古く、地元ではすでに明治のころから石器が採集される場所として知られていました。地元関原町の近藤家は遺跡一帯の大地主で、勘太郎・勘次郎・篤三郎の三代にわたる調査がおこなわれたそうです。昭和10年代には、勘次郎・篤三郎親子が馬高・三十稲葉遺跡を発掘して「火焔土器」を含む膨大な資料を収集し調査を進める一方で、郷土史や中央の学会誌にその研究成果を発表しました。また、自宅の蔵を「近藤考古館」と称して遺物を保管していました。各地で表採された遺物は一点一点丁寧に座布団に縫い付けられ、保管されていたようです。

 

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「日本考古学研究所」を設立したオランダ人宣教師のグロートは日本各地で調査研究を行っており昭和15年に三十稲葉遺跡の調査に訪れ、近藤篤三郎らが見守るなか、三十稲葉式土器の蓋を堀り当てたそうです。

近藤家が収集した出土品の大半は昭和26年に科学博物館に寄付され、考古学研究室初代の学芸員。関原町の中村孝三郎により再復元や整理作業が行われ、その研究成果は報告書にまとめられました。「火焔土器」の名は縄文時代の象徴的な存在となりました。また、中村が担当したこの調査で、大規模集落跡であることが明らかになり、昭和54年縄文時代を代表する遺跡として国の史跡に指定されました。

 

火焔土器・火焔型土器・火炎土器様式

火焔土器は1936年(昭和11年)馬高遺跡で発見された一個の土器につけられた愛称です。それ以外の類似した土器については「火焔型土器」「王冠型土器」と区別しています。

四つの大きな突起に鋸歯状のフリルがついた「火焔型」山形の突起をもつ「王冠型」が特徴的な形式だそうです。

深鉢がふつうですが、馬高遺跡では類例の少ない火炎型の浅鉢も発見されています。いずれも縄文時代中期の中頃(約5000年前)につくられたそうです。

馬高遺跡以外でも、長岡市内では大小様々な火焔型土器・王冠型土器や同時期の土器が出土しています。それらは共通点をもちながらもそれぞれに個性を発揮しているそうです。

 

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火焔土器の広がり

火焔土器は長岡市内だけで使われていたわけではなく、その広がりは新潟県内を中心に北陸以北の日本海側に広がり、亜流の「火焔土器」は関東や東北にまで及んでいるそうです。火焔土器が出土した遺跡は、新潟県内で約150ケ所に上り、その分布は信濃川の中流から上流にかけての地域(長岡市から十日町市・津南町周辺)に集中し、火炎土器文化の中核地帯であり、大規模で拠点的な集落が多数営まれていたようです。さらに、下越地方や海を越えた佐渡地方にも広がっていました、一方、上越地方では少数の遺跡にとどまっています。火焔土器の類似は、新潟県外の周辺地方でも発見されているようです。山形県・秋田県の遺跡では新潟県地方でつくられた火炎土器が運びこまれたようです。福島県では火炎土器の亜流である「火炎系土器」が生まれ郡山を経て栃木県にもその影響が及びました。三国峠を越えた群馬県北部(群馬県渋川市 道訓前遺跡)富山県内(富山県魚津市 大光寺遺跡)でもわずかにみられます。

 

2. 馬高遺跡・三十稲葉遺跡

信濃川左岸の段丘上にある縄文時代の大規模な集落遺跡です。

「遠藤沢」と呼ばれる小さな沢を挟んで、東側に中期(約5500年前)の馬高遺跡、西側に後期(約4500年前)の三十稲葉遺跡が位置しています。

 

 

● 馬高ムラ

縄文時代中期の初めから中ごろまで馬高遺跡の北側に集落が営まれました。この集落は広場を中心に直径100mほどの規模で、住居は馬蹄形状にめぐっていました。「環状集落」と呼んでいます。

縄文時代中期終末には南側に小規模な環状集落が営まれ、楕円形の竪穴住居や高床式の掘立柱建物がつくられていたようです。

住居と広場の間には墓地がつくられ、大きさは入口1~1.5mの楕円形状の穴を掘って、死者を葬り墓標のように大きな石を立てた痕跡があるとのことです。

竪穴住居群の内側にはフラスコのような形の貯蔵穴群がつくられ木の実などが貯蔵されていたようです。

 

村のはずれのゴミ捨て場には使われなくなった土器を破棄したようです。

ゴミ捨て場のさらに外には長さ1.5m深さ1mほどの溝状の穴が続いて見つかっています。シカなどの獣を追い込むワナであったと考えられているそうです。

また、日常生活に使う土器や石器以外に「第二の道具と呼ばれるまつりや儀式にかかわる道具も出土しています。多くの石器も見つかっています。

弓矢は縄文時代の狩りに使われた主要な道具です。石鏃(矢じり)は弓の先端に取りつけました。馬高ムラでは、頁岩・鉄石英・チャート・黒曜石など、割れ口の鋭い石の種類を用いています。一部には接着剤として天然アスファルトの痕跡を残すものもあります。

 

石皿・魔石類がセットで使われていたようです。表面にはこすった跡や、たたいた痕が残されており、木の実の粉砕や製粉など、おもに食料の調理に使用していたと考えられています、植物性食料の加工が盛んにおこなわれていたことをうかがわせます。

 

石材からみる他地域との交流を示すものもあります。他地域でつくられた土器が直接持ち込まれた例、また、石器類には、ヒスイやコハク製の玉類、蛇紋岩製の磨製石斧、黒曜石製の石鏃があり、これらの石材は遠方の地方からもたらされました。ヒスイ・蛇紋岩などは、糸魚川の姫川・青海川流域が原産地です。黒曜石は県内の新発田産や長野県産のほか、佐渡産・山形県産・栃木県産・伊豆諸島の神津島産など黒曜石蛍光X線分析法により確認され、コハクは千葉県銚子産と推定されています。

 

● 三十稲葉ムラ

縄文時代後期の「三十稲葉土器」は本遺跡から出土した資料にもとづいて命名されたそうです。

この土器群には甕形の土器にヘラなどで工具をひたすら突き刺す模様(刺突(しとつ)文(もん))をつけ、それに対になる土製の蓋を多数つくる、という大きな特徴があります。

現在の新潟県域を中心に大流行した土器づくりの流儀で、特に信濃川や阿賀野川の流域の遺跡に集中しています。火炎土器とともに新潟の独自性を示す縄文土器といえます。

 

馬田ムラ・三十稲葉ムラどちらにも信仰や儀礼にかかわる石棒や耳飾り・玉類・土製品・土版が発見されています。

 

三十稲葉遺跡では、玉類も大きな特徴です。これまでに丸玉、臼玉、垂玉などの小型品が多数発見されています。石材には、ヒスイ・滑石・蛇紋岩など、磨くと光沢のできる種類が使われたようです。それらはヒスイ原産地の糸魚川方面からもたらされたものです。

加工前の原石や加工途中の製品、さらに玉を研磨するための細い溝を残す筋砥石も見つかっていることから、ムラで玉つくりをさかんにおこなっていたことは明らかです。

 

3. ムラの移り変わり

信濃川流域の遺跡には、ムラの立地が大きく移り変わる画期がみられ、馬高で中期終末にやや小規模になったムラは、三十稲葉の時代に再び大きくなって、勢いを盛り返しました。

中期前葉→馬高の北のムラに人々が住み始める。

中期中葉→馬高の北のムラが大きく発展する。

     火炎土器がさかんにつくられた時期

     この頃に、遠藤沢をはさんだ三十稲葉の北部に人々が住み始める。

中期後葉→馬高の北のムラが衰退し、南にムラをつくる。

     三十稲葉の北のムラが大きくなる。

後期前葉→馬高の南ムラが廃絶。

     三十稲葉の北のムラが栄える。

     三十稲葉式土器が発達。

後期後葉→三十稲葉の北のムラの住居が少なくなる。

     人々が南側に住むようになる。

 

参考文献

 馬高縄文館 解説シリーズNo.1

「「火焔土器と馬高・三十稲葉遺跡」

長岡市教育委員会 発行

―終わりー