◆理事長ー鉄の故郷を訪ねて2ー

奥出雲 卜藏家(ぼくらけ)を訪ねて

ー日本の製鉄のふるさとを訪ねてー

島根県仁多郡奥出雲町竹崎

(しまねけんにたぐんおくいずもまちたけざき)

 

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六世紀半ばから日本では製鉄が始まったと云われています。

そして七世紀から十世紀のころには関東から東北地方まで製鉄はひろがりました。

が、どうしたわけか、十世紀を過ぎるころから、製鉄は次第に山陰地方へと収斂されていきます。

そして戦国末期から江戸時代初頭になると、

山陰の中国山地が日本の製鉄の一大中心地としてクローズアップされてきます。

大きな炉の中に砂鉄と炭を交互にくべ、数日間それを繰り返し、純度の高い鉄を得ていました。

日本刀はこれで作りました。鉄砲もこれで作りました。

また日常生活のこまごまとした鉄製品はみなこれらから生まれたものです。

 

鉄を作るには

大きな炉の中へ三昼夜もしくは四昼夜連続して木炭と砂鉄を燃やし、

得た鉄塊はおよそ二・五トンあります。

この三昼夜もしくは四昼夜が鉄生産の一回にあたり、

この一回の操業のためには、砂鉄十トン、木炭十二~十三トン、釜(炉)用の土四トンが必要でした。

木炭十二~十三トンをそろえるには、山の面積一ヘクタール(約一町)の山林の伐採が必要でした。

 

なぜ中国山地に集中したのか

一.中国山地の砂鉄が良質でした。

二.炭用の木材が豊富でした。

三.製鉄の技術者集団が、金屋子神という鉄の神様への熱烈な信仰とともにあり、

     その中で優れた職人気質が醸成されていました。

四.炭用の木材の調達には、膨大な山林が必要となり、

      鉄山経営者たちは各自広大な山林を所有していました。

五.松江藩が鉄山経営者たちの数を限定し、

      炭用木材の乱開発や砂鉄を採取する鉄山の数を制限して鉄の需要と供給のバランスを図っていました。 

 

中国山地の鉄山経営者の経営力

鉄山経営者の保有していた山林の面積は、

気が遠くなるほど膨大で、鉄山経営者の第一と言われた出雲の田部家に至っては、

二五〇〇〇ヘクタール(約二五〇〇〇町歩)と明治、大正、昭和の時代に至ってもこれだけの面積を持っていました。

鉄山経営者たちは、鉄師(てつし)と呼ばれ、

松江藩から九名の鉄師が選ばれました。鉄師が乱立すると、森林資源の乱獲につながります。

松江藩は、何よりも無秩序な乱獲、価格の低落をもたらす鉄師たちの過当競争を嫌いました。

 

卜藏家の末裔の人との対話

鉄師九名と言いますが、江戸の時代でも多少の変遷はありますが、

次の方々が九名の鉄師と云われています。

田部家、櫻井家、田儀櫻井家、田部家分家、絲原家、杠家(ゆずりはけ)、卜藏家(ぼくらけ)、山根家、石原家。

この松江藩九鉄師のなかでも、

とりわけ田部家、櫻井家、絲原家、卜藏家の四家を、松江藩四大鉄師と呼んでいます。

田部家は四大鉄師の筆頭です。

 

平成二六、二八、三〇の三回にわたる訪問のなかで、

最後に訪ねたのが卜藏家でした。

 

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(卜藏家庭園 卜藏家の旧邸の一部。260坪の面積があり、

遠方にははるかに船通山が借景として取り込まれている。

江戸時代初期の作庭と云われている。)

 

 

 

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偶然にも、卜藏家の末裔だといわれる女性がいて、

卜藏家の歴史についての説明を受ける機会に恵まれました。

最初は、卜藏家の庭園の説明をしていただきました。

三段に落ちる滝があり、そのはるか向こうには船通山が借景として見渡せました。

 

「卜藏家の歴史は相当に古く、楠木正成の弟に正氏という人がいて、

伯耆の国の武将 名和長年という人の弟 太郎左衛門の娘との間に生まれたのが勝太郎。

この人が卜藏家の祖と云われています。

五代目のとき、元中八年(一三九一年)この出雲に土着しました。」

卜藏家の系図を眺めながら、話は続きます。

「十一代目のとき、楠木姓を止めて卜藏姓を名乗ります。

そして二十代目の時、天知二年(一六八ニ年)出雲の竹崎にて鉄山業を始めます。

そして延々と十代続き、

近代に入って大正十四年(一九二五年)第三十代卜藏甚兵衛の時、たたら製鉄の経営を止めます。

田部家、櫻井家、絲原家も同じころたたら製鉄の火を消します。

私は、第三十代甚兵衛の孫娘にあたります。」

 

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(旧庭園内に新たに作られた家のなかで、卜藏家の先祖の説明をする卜藏家末裔の婦人)

 

昭和の時代に入り、

満州事変ごろから急に軍人用の日本刀の需要がたかまり、

それには鋼のなかでも「玉鋼(たまはがね)」と呼ばれる砂鉄からたたら製鉄によって作り出される鋼が必要となります。

「昭和八年「靖国(やすくに)たたら」という名称で復活します。」

卜藏家はそれに答え、この竹崎の地で再度たたら製鉄の火が再燃しました

そして敗戦の昭和二十年までたたら製鉄は続きました。

 

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(靖国たたらの一環として「たたら製鉄」が行われた跡地にて)

 

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そして私の質問

―「靖国たたら」での鉄づくりは、確か「村下(むらげ)さん」は、安倍由蔵さんでしたね。」

(註:たたら製鉄の現場を指揮する技師長を「村下」と云います)

「そうなんです。卜藏家の出身です」と誇らしげに彼女の顔は輝きました。

大正時代に姿を消した四大鉄師のなかの最後の村下が安倍由蔵さんです。

 

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安倍 吉蔵

(明治35年生まれ。幼少にして卜藏家の「たたら」に勤める。

昭和9年ー昭和20年卜藏家のたたら製鉄の村下を務める。

平成7年逝去。)(奥出雲たたらと刀剣館 展示資料より)

 

 

たたら製鉄の復活

敗戦の日に靖国たたらは廃止され、砂鉄による製鉄の火は消えました。

ところが、昭和五十一年、奥出雲の「靖国たたら」の跡地に、

日刀保たたら(日本美術刀剣保存協会たたら)として復活します。

日本刀が文化財保護法の中で保護され、生産された玉鋼(たまはがね)は、

日本全国の刀剣製作者たちに分配され、文化財としての日本刀制作に励みが付きます。

文化財としての日本刀、その制作のための「たたら製鉄」の復活です。

この復活の時に、卜藏家出身の村下 安倍由蔵さんが製鉄現場を指揮し敏腕を振るいます。

見事、たたら製鉄は復活され、

そして安倍由蔵さんから印可を受けた村下、木原明さんに受け継がれ現在に至っています。

 

 

(この稿は、「かみつけの里博物館友の会」の会報No.20に載せたものです。写真を数枚新たに付け加えました。)

 

      ―終わりー