◆理事長ー鉄の故郷を訪ねてー

菅谷(すがや)たたら

ー日本の製鉄のふるさとを訪ねてー

 

島根県飯石郡吉田村大字吉田村字菅谷

(しまねけんいいしぐんよしだむらおおあざよしだむらあざすがや)

かつてはこう呼びました。

今では、

島根県雲南市吉田町菅谷

(しまねけんうんなんしよしだまちすがや)となっています。

 

かつて日本刀や料理包丁や農機具,

大工道具などのいわゆる鉄製品の半分以上が、

この奥出雲の山の中で作られていました。

奥出雲の山は深く、燃料に使う炭用の木材はたくさんあるところです。

また原材料の砂鉄も多く採取されていました。

たたら(鑪)という炉の中で、

砂鉄と炭を交互にくべて、鉄を作っていました。

 

今回で二度目の訪問です。

11月初旬、奥出雲の秋も深まっていました。

 

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この奥深い山の中で、鉄を作っていました。

たたら(鑪)製鉄と言っています。

海抜350メートルの山間部で、周囲は海抜500~600メートルの山々が囲みます。

雲南市吉田町の中心部から北方2キロメートルですが、

なぜかこの菅谷は相当な山間部で隔絶されたところといった印象を受けます。

 

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上の右手にある建物が、高殿(たかどの)と呼ばれ、

この内部で、製鉄がおこなわれていました。

経営者は田辺家です。

 

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たたら製鉄に従事する村を山内(さんない)と呼びました。

その山内の村へ来ました。

この橋は「高殿橋」(たかどのばし)と名づけられています。

そしてこの橋をわたると、

 

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村下(むらげ)、製鉄の技師長をそう呼びますが、

左手、その村下がかつて住んでいた家へと続きます。

右手の家は、やはり製鉄に従事するひとたちの家屋です。

 

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そして正面の家が、「高殿」(たかどの)と呼ばれる製鉄現場です。

平屋作りですが、地面から屋根の天辺までは26.2メートル。

そして建物は一辺が18.3メートルの正四角形です。

この現場の右手に大きな木が見えます。

これが、製鉄に従事する人たちが、御神木とあがめた桂(かつら)の木です。

 

◆ 2014年にこの菅谷の高殿を訪れたことがありました。

その時は、改装工事中で、見学はできないはずでしたが、

高殿の施設長の朝日さんのご配慮で、工事中の現場を拝見することができました。

 

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工事現場の中で、幸い、職人さんたちの昼休み中、施設長の朝日さんのご厚意で、

高殿の改装工事にまつわるいろいろな話も聞くことができました。

 

◆ さて、かつての製鉄は....

 

鑪場 現場.jpg

 

手前の村下(むらげ)が、いわば製鉄の技師長です。

中央が炉です。

炉の向こう側にいるのが炭焚です。

右左の小屋の中で踏み鞴(ふいご)を足で踏んでいるのは、送風係りで番子といいます。

 

このたたらの下には、深さ3.5~5メートルほどの地下構造があります。

炉の温度(1500度)を保ち、湿気を遮断する構造になっています。

 

地下構造 奥出雲刀剣館.jpg

地下の大舟と小舟には、灰と炭がぎっしり詰まっています。

またその下には、粘土、炭、砂利、坊主石が詰まっています。

これらの地下構造が無いと、炉は地下のすべての湿気を吸い込み、

炉は水蒸気爆発を起こします。

 

こういう地下構造は、18世紀になって完成しました。

これにより鉄の大量生産が可能になりました。

日本中津々浦々にまで出雲の鉄の名声は響き渡りました。

 

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奥出雲の「たたらと刀剣館」では、

日刀保たたらを作ったときの原寸大の模型の地下構造を展示しています。

ちょうど正面に見えるのが、大舟です。

その右左が小舟になります。

 

遠い古代においては、「野だたら」と言って、

山岳地帯で山林が無くなるまで鉄を作り、

無くなると移動してまた別の山林の中で釜をこしらえました。

 

この地下構造が考案されると、

一定の場所に永続的に鉄を作ることができるようになり、

「永代(えいだい)たたら」と呼ばれるようになりました。

 

◆ そして地上の構造は

 

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菅谷たたら第14代の村下 堀江要四郎さん制作の土釜(炉)です。

すぐれた鉄を作るには、

「一釜、二土、三村下」(いちかま、につち、さんむらげ)

この釜をどのように作るか、どの土を選択するか、すべて村下の勘と技量にかかっています。

 

この写真をもう少し詳しく説明しますと

高殿 内部.jpg

 

 地上の釜(炉)の大きさも、

それを制作する村下により多少の違いが出てきます。

たとえば、現在、稼働している横田町の「日刀保(にっとうほ)たたら」では、

高さ1.2m、横幅0.8m、奥行き2.7mとなっています。

 

奥行き3m弱、高さ1m強のこの釜(炉)に、

三日三晩(70時間) 村下は砂鉄を入れ続けます。

ほぼ30分おきに。ですから眠る時間はほぼありません。

この三昼夜をもって一区切りになり、これを一代(ひとよ)とよびます。

この一代を年に60回、つまり60代をこなすのが最盛期の習わしでした。

 

 

村下には、表村下ともう一人、裏村下(副技師長)がおります。

釜(炉)に砂鉄をくべるのは、この二人だけで、

他の人たちは、絶対、砂鉄をくべてはなりません。

 

その他に炭をくべる係り、炭焚が1名、

番子が各台に3名、計6名おります。

番子は交代制で、1時間踏むと2時間休み、

そしてまた1時間踏み2時間休むという制度でした。

(ここから「替わり番子」という言葉が生まれました。

そして小廻りが2名いました。

 

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ちょうどタネスキをもって釜に入れるところを真似た写真です。

この木製の鋤(すき)はそれほど重くありません。

しかし、村下はこのタネスキに重量3kgほどの砂鉄を入れ、

釜の中、縦に二列の砂鉄の帯を作るよう、さあーと振り分けます。

表村下と裏村下が左右に位置取り、交互にくべてゆきます。

 

一方、炭焚きは、箕一杯で11kgほどの木炭の分量を釜の中へ注ぎ込みます。

 

今は、こうして博物館になっていて、女性でもこうしたものに近づけますが、

かつては、この高殿は女人禁制で、入れませんでした。

なんでも、製鉄の神様、金屋子神は、女性の神様でしかも器量が悪く、

髪の毛も、縄で縛っていたような方だそうで、女性を嫌うとのことです。

 

当然、村下の妻も、夫が製鉄に従事している三日三晩、髪も結わず、

化粧もせず、乱れ髪のままで、「月のもの」が無ければ、

早朝から金屋子神へお参りし、夫の成功を一心に祈願するのが習わしでした。

 

◆ 天秤ふいご

江戸時代、この天秤ふいごの発明で、

送風力が強まり、安定した風を送れるようになりました。

一段と製鉄の量が増えました。

 

ふいご.JPG

この天秤ふいごは安来市にある和鋼博物館の展示品です。

このふいごに上って、足で踏んでみたところ、左右に動かすには、

相当な力のふんばりが必要でした。

屈強な若者が、一時間つづけると、交代しなければ体力が持たなかったことがよくわかります。

 

高殿内部

 

高殿配置図.jpg

 

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村下(むらげ)のいた場所です。

釜(炉)を挟んで、この対面にも裏村下(うらむらげ)が居ました。

 

 

小鉄町(こがねまち)とは、砂鉄を保管する場所のことです。

町というのは、保管場所という意味です。

土町(つちまち)というのは、釜(炉)を作る時の土を言います。

三日三晩の鉄づくりが終了すると、

釜(炉)は壊されます。

釜を壊して、釜の中にできたケラを引っ張り出し、

そしてそれを鉄池(かないけ)という水たまりの中で冷却して終了します。

そして次にまた釜(炉)をはじめから築き上げなければなりません。

ですから、釜(炉)用の土は、いつでも高殿の中に用意されているわけです。

 

釜(炉)用の土は、真砂土(まさど)と赤粘土に少々水を混ぜて作りました。

この土をレンガぐらいの大きさに捏ね上げ、

それを一つ一つ積み重ねてゆくのが釜(炉)作りでした。

 

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(日刀保たたらでの釜作り「和鋼博物館 綜合案内」による)

 

小鉄町(こがねまち)には砂鉄が山盛りになっています。

 

砂鉄.jpg

砂鉄は大きく分けて二つに分かれます。

一つは「真砂砂鉄」(まささてつ) と呼び、真っ黒で、

磁鉄鉱を主に含んでいます。

もう一つは「赤目砂鉄」(あこめさてつ)で、見た目にも赤く、

赤鉄鉱を主に含んでいます。

製鉄には、二種類の製鉄方法がありました。

主に真砂砂鉄を用いて、「鉧」(ケラ)を作るのを「鉧押法」と言い、

赤目砂鉄を用いて「銑」(ズク)作るのを「銑押法」と呼びました。

要するに、釜(炉)の操業法には二種類あるということです。

これらの砂鉄は、主に、

山を崩して採取する「鉄穴流し」(かんなながし)という方法で集められました。

 

◆ 鉄穴流し(かんなながし)とは...

 

中国山地は、風化した花崗岩質の山が多いところです。

鉄穴(かんな)といっても、鉄の穴ではなく、

花崗岩質の崖山を意味します。

この崖を「打鍬」(うちぐわ)という2m以上もある長い鍬を使い、

崖山を切り崩して行きます。

切り崩しの足元には、水路のようなものを作り、

そこへ流し込んでゆきます。

 

鉄穴流し.jpg

(鉄の歴史博物館 展示より)

 

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(「菅谷鑪」島根県文化財愛護協会刊より)第一出切り

 

切り崩した土砂と岩石を水路を通して、次第次第に下へと流します。

切り崩した場所から数か所にわたって、水路には堰を設けています。

4ヶ所の砂留という箇所を通過して、上記の写真は「第一出切り」という箇所へ来ているところです。

そしてこれを下って、第二出切り、大池、中池、乙池、樋と下り、

砂鉄を集めます。

各堰を通過するごとに、土砂や岩石は砂鉄と分離され、

各池では、水をくわえてかき回し、比重の差で土砂と砂鉄を分離します。

 

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 丁度、大池のところを指さしています。

池といっても、人口の水路であり、幅50cm~60cm,

深さ40cm~60cmです。かつては両側と底は板で囲ったものでしたが、

この羽内谷鉱山(はないだにこうざん)では、大池、中池、乙池は、昭和47年まで使用されていたので、

昭和の時代にコンクリート作りにしています。

 

右を流れているのは、自然の川です

各池の出口(堰)には、不要になった土砂と水を流す口があり、

そこからこの谷川へ落とし込んでいました。

 

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「乙池より中池を見る」(「菅谷鑪」島根県文化財愛護協会刊より)

 

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鉄穴流しというのは、三つの部分から構成されています。

◆花崗岩質の鉄穴山

◆[走り」と呼ばれる水路

◆「下場」あるいは「本場」にと呼ばれる砂鉄を最終的に採取する場所

 

鉄穴流しが行われていたのは、毎年、秋の彼岸から春の彼岸までです。

計6カ月間ですが、1か月間は準備に費やし、

残り5か月間で実際の鉄穴流しを行っていました。

1日2トンを採取していました。

ですから、鉄穴場1ヶ所からの5か月間の採取量は約300トンでした。

 

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鉄穴山の切り崩す崖から下場(本場)の最終地点「樋」(ひ)までは、約1kmです。

 

鉄穴山から切り崩した時の砂鉄は、鉄分の純度8%と言われます。

土砂に含まれる砂鉄の量は極めて少ないものです。

(真砂砂鉄の場合、母岩中には0.5~2%,

赤目砂鉄の場合には、母岩中に5~10%ほどと言われています。)

それが「走り」を通り、

砂留め、出切り、大池、中池、乙池(おといけ)、樋(ひ)と流れてきたとき、

各箇所で選別され、密度も濃くなり、純度をあげてきて、

最後に採取するときは、純度85%に達しています。

 

その純度85%の砂鉄が、たたら場まで来ます。

たたら場では、「内洗い」(うちあらい)と称して、

再度、水を使って洗い直し、不純物を除き、

純度90%の砂鉄に仕上げます。

それをたたら場の中へ運び、「小鉄町」に積み上げます。

村下はその砂鉄を釜(炉)にくべることになるわけです。

 

さて鉄穴流しによって、膨大な土砂が下流に流れ出します。

下流の農民たちの灌漑用水を汚したり、

また川底に土砂が堆積して、洪水の原因となったりで、

かつては農民と鉄穴師(かんなじ)のあいだに相当な軋轢が生じたことがありました。

それに加えて、製鉄用の炭を準備するため、

炭焼き達は、多くの山を伐採し、

当然、はげ山からは土砂が流れ出し、

下流域の農民へ被害をもたらしました。

 

当時の藩の行政的な介入で、

鉄穴流しは秋の彼岸から春の彼岸までという約束事となりました。

下流域の農民たちも、秋の収穫が終わってから、

アルバイトがてら鉄穴師たちの山崩しを手伝うということにもなりました。

 

農民にとって、収入源ともなり、

また鉱山経営者にとっては、農民という季節労働者を十分使えるというメリットがありました。

たたら場で完成した鉄製品は、運びやすい形にして、

農民たちが馬で運搬を担当しました。

 

鉄穴流しの跡地や土砂の流れた平地では、鉱山経営者たちは棚田を作っています。

鉱山経営者達は、今でいえば、地方の財閥ともいえるわけで、

たたら場や鉄穴山の経営に参画しながら、

たたら場用の炭を大量に必要なため、

多くの山林を所有しました。

また多くの田畑も所有していました。

 

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美しい棚田の風景です。

ここは羽内谷鉱山からそう遠くない鉱山経営者 卜藏家(ぼくらけ)の地域です。

 

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◆ さて、話をたたらの釜へともどします

砂鉄と炭を釜(炉)に投入して、釜の中は燃え始め...

ノロの生成.jpg

(「和鋼博物館 綜合案内」による)

砂鉄と炭を釜へ投入してから5~7時間ほどすると、

釜の下に空けてある穴から鉄滓(てっさい)が出てきます。

鉱滓(こうさい)とかノロとかあるいはスラグとも言っています。

いわば砂鉄の持っている滓(かす)をうまく排出させなければなりません。

 

砂鉄と炭の炎は、釜壁を侵食します。

その時化学反応が起こり、

砂鉄の含む不純物は、鉄滓というドロドロに溶けた状態で外部へ出ます。

 

したがって、真砂土と赤粘土でできた釜壁は、燃焼しながら鉄滓を出すという

重要な役目を担っています。

 

【三日三晩にわたる一連の作業には』

・砂鉄 7~10トン

・木炭 8~13トン

・釜土 3~4トン

これらが必要となります。

 

◆ 木炭の確保

大量の木炭が無ければ、製鉄は成り立ちません。

砂鉄は、鉄穴流しによって獲得しますが、

次に重要なのは、たたらで燃料となる木炭です。

1回の操業で、木炭8~13トンという数字は大変な数字です。

13トンというと、山林1町歩(1ヘクタール)が必要です。

たたら全盛の時代、年に、60代(60回)鉄を作りました。

 

炭にするため、山林を伐採した後、

山林が、炭にふさわしい樹齢になるのに約30年はかかります。

一箇所のたたら場を永続的に維持するのには、

60×30=1,800ヘクタール 必用になります。

 

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(炭焼き用の木材の伐採と炭焼き小屋「菅谷たたら 山内伝承館」展示写真による)

 

菅谷たたらを経営していた田辺家は、

この菅谷鑪の他に数か所同時にたたらの経営操業をしていました。

昭和12年、田辺家の山林関係の資料を調べた専門家は、驚きました。

なんと、田辺家、昭和12年の時点でも、25,000町歩(25,000ヘクタール)の山林を所有していました。

 

こんな大それた数字は、ピンとこないですね。

東京ドーム(4.7ヘクタール)5,319個分。

といっても、なお、ピンときません。

 

◆ 今回の訪問も、施設長の朝日さんのお世話になりました。

 

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長時間にわたるお話の中で、

彼もまた、この地に生まれたときは、たたら場専属の炭焼きで、

自分も一生炭焼きをして生きるのだとばかり思っていたそうです。

時代が変わり、このたたら場が国指定の文化財となり、

朝日さんは、炭焼き業を退職しました。

退職金代わりに、住んでいた家(田辺家の持ち物)を譲りうけたとのことです。

家は譲られましたが、土地は、言うまでもなく、田辺家のものです。

 

このたたら場の場所を山内と言いますが、

この山内、すべて田辺家の土地所有ということになります。

 

たたらが稼働していたころは、

たたら場で働く人たちも、山で炭を焼く人たちも、

山、家、土地、すべて田辺家から与えられて、仕事をしていました。

何事も「だんさんのおかげ」という言葉を始終聞きます。

田辺家という大旦那のおかげで生活が成り立っているという意味でしょう。

 

◆ さて、話をまた燃え盛っている釜(炉)に戻します。

三日三晩の砂鉄と炭の投入を繰り返し、

4日目の朝、いよいよ鉧(ケラ)は釜底に形成されます。

村下は、釜壁の火による浸食具合をみながら、

送風のストップをかけます。

そして釜壁を打ち壊し、

鉧(ケラ)を引きずり出します。

 

ケラの引出し.jpg

 (日本美術刀剣保存協会HPより)

 

燃え盛る高温の鉧(ケラ)を、高殿のすぐ外にある鉄池(かないけ)へと投げ入れます。

 

そして鉄池(かないけ)では、鉧(ケラ)凄まじい音を立てて、蒸気を上げます。

鉄池(かないけ)の水は、完全な熱湯にまで達します。

 

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(鉧(ケラ) 和鋼博物館 野外展示品)

 

◆ 大銅場にて

2.5トンのケラの塊が出来上がります。

この2.5トンの中から、日本刀の材料になる玉鋼(たまはがね)は約1トンほどしか取れません。

そしてこの後は、この2.5トンの塊を大銅場という場所へ運ばれ、

ここで大きな分銅によって破砕されます。

 

大銅場.JPG

 後ろの上にある茶色い長方形のものが分銅です。

分銅の重さは300貫(1,125kg)あります。

これを水車の力を利用して持ち上げ、

下に置いた鉧(ケラ)の塊に向かって打ち下ろします。

 

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(アップをすると、こんな感じです)

 

高さ30尺(9m)に引き上げ、そこから落とします。

約2,500kgあった鉧(ケラ)を100kg~150kgぐらいの大きさに分割します。

 

そのあと、内倉(うちぐら)という場所へ持っていき、

そこで大きなかたまりに付着している銑(ずく)や歩鉧(ぶけら)を小槌を使って削り落とします。

そして等級ごとに選別され、

薦(こも)につつみ、三刀屋方面へ馬か手車で運びました。

 

三刀屋から庄原そして松江へは、川船の利用でした。

松江からは、「鉄船丸」という船で、下関を回って大阪へ運びました。

極上品が日本刀の刃になりました。

中級品はヤスリや包丁の刃になり、

並の品は鉈や鎌の刃になり、

日本全国へと出回ったわけです。

 

◆ たたら製鉄とは、汗と努力の結晶です。

・ 鉄穴師たちが山を切り崩して砂鉄を採取

・ 山子(やまご)と謂われる炭焼きが大量の炭を焼く

・ たたら師たちが三日三晩鉄を作る

・ 鋼作り(かねつくり)場で等級別に仕分けする

・ 大鍛冶場で使いやすい形に形成される(包丁鉄)

・ 馬方が川の船着き場まで運搬する

・ そして全国の小鍛冶(刀匠を含む)にわたされ、最終製品にされる

 

多くの人たちのなみなみならぬ過程を経て、

私たちの日常生活にまで入り込んできて、

生活を潤した日常品。

そして武具として、また美術的な鑑賞品として、

また威信財の宝物としての日本刀。

 

これらをつくりあげた人びとに畏敬の念をささげて、

この「たたら製鉄」に関する随想を終わりにしようと思います。

ここまで付き合っていただいた方々、

ありがとうございました。

ー終わりー