◆理事長ー歴史の散歩道 10ー
--羽田空港よりボーイング737で島根の出雲空港まで1時間20分。
あっという間に宍道湖が見え、出雲空港に着陸です。
これで、島根は5回目の訪問です。
そして、砂鉄関係の旧跡を訪ねるのは3度目になります。
空港でいつものようにレンターカーを借り、
夕方4時に空港のレンターカー屋さんを出発、
午後5:30に奥出雲の亀嵩(かめだけ)の宿屋に着きました。
「ここは亀だけ、うさぎはいません」というこの町のキャッチフレーズがあり、
これを読むと、亀嵩という名前が記憶にしっかりと固定します。

松江市や出雲市の都会から遠く離れた山の中です。
このあたり一帯が、言うまでもなく、砂鉄の産地であり、
それを使った製鉄(たたら製鉄)をしていたところです。
その製鉄関係の人たち、たたらに従事した人たち、また鍛造に従事した人たち、
小鍛冶を生業にした人たち、また大なり小なり、砂鉄に関係した人たちは、みな、
金屋子神を崇拝していました。
金屋子神社 本社
この亀嵩から数キロのところに金屋子神社の本社があります。


この地に伝わる伝説によれば、
金屋子神は、播磨の国、現在の兵庫県宍粟市、(一説には吉備の中山)からシラサギに乗って、
島根県安来市の広瀬西比田という場所の桂(かつら)の木に降下なされたとのこと。
そして製鉄の技術をこの地に教えたと云われています。
たたら製鉄の人たちは、自分の製鉄の現場には、かならず金屋子神を祀ります。
現場(高殿)の中にも、そして外にも。
この神社(本社)から30km離れた菅谷鑪(すがやたたら)という製鉄現場にもやはり祀ってありました。

菅谷たたらの現場では、高殿から30mほど離れた川岸に祀ってありました。
製鉄を始める前には、むらげ(製鉄の技師長)は、かならず、この金屋子神へお参りをし、
そして高殿(製鉄現場)の中へ入ったそうです。
またむらげの奥様は、夫が製鉄に従事している間、
毎日、この金屋子神へお参りし、髪も結わず、化粧もせず、
製鉄が無事成就するのを一心不乱に祈ったそうです。

菅谷川が流れており、この写真の右手の岩場に金屋子神は祀られています。
金屋子神のお祭り
祭りは、3月中子と10月初子の年二回です。
この菅谷たたらでは、ここで働く人たちならびに家族の人たち全員、
またこの山内に住む人たち全員が、休日となりました。
もちろん、広瀬町にある比田の本社も、3月中子と10月初子の日です。
10月初子の本社でのお祭りには、ミカン市が立ち、多くの人でにぎわったとのこと。
たたら製鉄全盛の時代には、ここの近郊近在はもとより、遠く安芸、備後、美作、
播磨、伯耆、出雲、石見の七カ国から、鉄に従事する人たちで賑わいました。
鉄山職の人、たたら職の人、鉄穴(かんな)流しの人、鍛冶職の人、炭焼きの人、
多くがこの本社で夜を徹してお籠りをしました。
また鑪(たたら)の現場から、裸足参りする技師長(むらげ)の姿も見受けられたとのことです。
たたら製鉄がほぼ終わってしまった現在、私がこの本社へ足を踏み入れてみると、
今回で二度目の訪問ですが、人っ子一人いないまさに無人の境内です。
前回の訪問もそうでした。

技師長(むらげ)の言葉
(安倍由蔵むらげと木原さんの現場映像から)
現代において、この伝統あるたたら製鉄の技師長(むらげ)職を務めているのは、木原さんです。
昭和7年から昭和20年まで軍刀作りが復活し、
靖国たたらといって、軍人用の軍刀を作るのにたたら製鉄が復活し、
その頃、卜蔵家(ぼくらけ)の鑪現場で技師長(むらげ)をしていた安倍由蔵さんという方がおりました。
戦後、日本美術刀剣保存協会(日刀保)では、たたらの復活を考え、安倍むらげとともに、
たたらの火を復活させようとしました。
その時、安倍むらげに学んだのが、木原さんです。
安倍むらげとともに鑪の火をいれ、鉄を作ろうとしました。
二度失敗しました。
三度目に成功を収めました。
三度目の成功の時、
木原むらげは言いました。「これすべて金屋子さんのお陰です」と。
現代においても、たたらに従事する人たちには、
この金屋子神への敬虔なる信仰が生きているのだと、
私たちに実感させるに足る言葉でした。
