◆渡来人の力

「歴史と文化を学ぶ会」 副理事長 橋爪 雅彦

どこの国でもいかなる時代でも渡来人の力は必要です。

 

 

 

先月、山梨県の「積石塚:渡来人研究会」の会合に招かれ、

多くの方々と渡来人について意見を交わす機会に恵まれました。

 

私たち日本の民族は、弥生時代から古墳時代にかけて、

中国大陸と朝鮮半島からの渡来した多くの人びとによって、

優れた文化がもたらされ、日本人の生活の基盤を形成してきました。

 

また明治維新の時にも、今度は欧米からの圧倒的な文明世界を受け入れ、

これまた「お雇い外人」という名称で、日本政府は途方もない金額をはらいつつ、

その教化と薫陶のなかで、私たち自身もその模倣から脱しつつ、

独自の文化を作り上げ、現代に至っています。

 

原 正人先生の資料から引用させていただくと、

技術を担った渡来系集団は、主に、次のような技術を招来した人々でした。

 

応神天皇陵.jpg

(応神天皇陵)

 

製鉄・鍛冶技術、馬と馬の繁殖・飼育、須恵器生産、養蚕・織物技術。

そして古事記の応神記が引用されています。

 

「手人 韓鍛治、名ハ卓素、亦呉服 西素二人」

 

{また手人(てひと)韓鍛治(からかぬち)、名は卓素(たくそ)、また

呉服(くれはとり)西素(さいそ)の二人なり。}

ー技術者である朝鮮の鍛冶屋、名前は卓素という者、

また大陸風の機(はた)を織る西素(さいそ)の二人を奉った。ー

 

この時代、応神天皇は盛んに朝鮮半島からそして大陸から、

技術や文化を受け入れました。

この応神記には、

 

「若有賢人者貢上」「もし賢し人あらば貢れ」

と応神天皇は百済の昭古王に向かってお願いをします。

 

もし賢(さか)し人あらばたてまつれ。

賢い人、技術を持った人、学問のある人、

この時には、論語十巻、千字文一巻が献上されました。

 

また日本書紀には、応神天皇37年春2月には、

「阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして、

縫工女をもとめさせた。阿知使主等は高麗国に渡って、呉に行こうとした。

が、高麗に着いたが、呉への行き方がわからなかった。

そこで、道を知っているものを高麗に求めると、

高麗王は久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の二人をつけて、

道案内とした。これによって、呉まで行き着くことができた。

呉の王は、縫女(ぬいめ)の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・

呉服(くれはとり)・穴服(あなはとり)の四人を与えた。」

 

この伝統はのちに遣隋使や遣唐使となって続きますが、

なにより私たちを驚嘆させるのは、日本の近代に入る時、

あの明治の人たちのエネルギーではないでしょうか。

 

 明治の時代ーフランス人を招聘ー

 

呉の王は、縫製を知る女性4名を日本へ派遣してくれます。

 

ここで思うのですが、

明治新政府が群馬の富岡に官営の近代製糸工場を建てたことを

思い出します。

それには新しい形での渡来人ーフランスからの技師と工女ーがはるばるこの日本の

小さな田舎までやってきてくれました。 

 

明治新政府、特に伊藤博文と渋沢栄一に依頼されて、

フランス人ブリュナー(Brunat)は、一時フランスへ帰り、

技師2名、繰糸工3名、

そして4名の女工をつれて再び日本へ来ます。

 

4名の女工(fileuses)は、

クロランド・ヴィエルフォール(Clorinde Vielfaure)

ルイーズ・モニエ Louise Monier)

アレクサンドリンヌ ヴァラン Alexandrine Vallent)

マリー・シャレイ Marie Charay)。

 

4名の工女(教婦)の左上にもう一人フランス女性がいます。

この方は、公式な名簿に載っていなくて、いったい、誰なのか、知りたいところです。

 

おそらく13名ものフランス人が来たのですから、

料理人ではないかと思います。

 

それはともかく、フランスから見ると、地球の裏側の日本という極東の僻地まで、

フランスの最新の技術を教えに来てくれた人たちです。

 

5名の工女.jpg

 

 

ー続くー