◆伝統の知恵
「歴史と文化を学ぶ会」副理事長 橋爪 雅彦
現代にも生きる伝統の知恵
ネット上では、私自身「yahoo news」も見ていますが、
愛読しているのは「プレジデント オンライン」です。
つい最近、篠原 菊紀(しのはらきくのり)さんという脳科学者が、
ー「名社長」はなぜ年を取っても元気なのかーー
というタイトルの記事を書いていました。
この記事の中で、次のような言葉があります。
「Jリーグ創設当時に名選手として知られた元日本代表の木村和司さんは、
初めて国立競技場のVIPルームからサッカー場を見下ろしたとき、
『おれが試合中に見ていた光景はこれだ』
と言ったそうです。ただ自分の目で見るだけでなく、自分の姿と
その周囲の状況を脳内で想像しながらプレーしていたわけです」
ボールを蹴ったり受けたりするのがうまいだけではダメで、
試合がどのように展開しているか、
自分のパスは誰がどこで待ち構えているのか、
相当なスピードの中で、
先読みをしつつ、いつもポジショニングを描いていなければならないものです。
自分が現にプレーしながら、
まるで鳥瞰図を見るような位置に立って
自分とプレーヤーたちを俯瞰している「眼」。
これは大変難しいことでしょう。
が、名選手と言われる人は、
こういうことも訓練と経験の積み重ねによってできるようになるのでしょう。
■ 宮本 武蔵のこと
17世紀の剣豪、武蔵もそのような「眼」を言っています。
「兵法三十五箇条」は武蔵自身によって執筆され、
時の熊本藩主・細川忠利へ送呈されています。
(GOOGLE MAPより)
ー目付之事
...目のおさめ様は、常の目よりもすこし細様にして、うらやかに見る也。
目の玉を不動、敵合近づく共、いか程も、遠く見る目也。
「訳/ 目は細くうらやかに見て、目玉は動かさない、
そして敵がいかに近づくとも、それを遠くのように眺める目。」
そして次のように続けます、
其の目にて見れば、敵のわざは不及申、
両脇迄も見ゆる也。
観見二ツの見様、観の目つよく、
見の目よはく見るべし。
「訳/ そのような目で見れば、
敵の技(わざ)もよく見え、
しかも自分の両脇までも見えてくる、」と喝破します。
そして「観見(かんけん)」という二ツの見様を言います。
観とは、こころで察知するということです。
見とは、実際の眼(まなこ)で見ることです。
古武道の専門家は上記の文章を次のように解釈しています
「こころで察知することを大事にして、
実際の眼で見ることはその次にするということです。
目を動かさず、全体を見る。
全体の観察から相手の刀を見なくとも、
その動きを察知する。」
戦いつつ全体を見る.....
サッカーの名選手とやはりどこか通じています。
■ 武蔵は「五輪書」のなかの「水の巻」でも同じように言います。
ー兵法の眼付けと云ふ事
眼の付け様は、大きに広く付るなり。
観見の二つあり。観の目つよく、見の目よわく、
遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり。
敵の太刀を知り、聊かも敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事なり。
「訳/ 戦いのとき、敵に対しての目付(めつけ)は、視野を大きく広くすること。
心で見る観の目を強く、見の目は弱くすること。
遠いところも近く見えるようにし、
近いところも遠く見るようにすること。兵法では専ら大事なところだ。
敵の剣がどのように動いているかを察知しつつ、
それらをいちいち見なくともよいようにすることが肝要である。
兵法の肝心なところである。」
敵との切り合いになれば、当然、相手の剣の一つ一つの動きは、
自分が反応せざるを得ないようになってしまうのが普通であるが、
武蔵は、ひとつ一つの動作を察知しても、
それらを少しも見ないようにする、という境地を言っています。
これは一見矛盾しているように見えますが、
これは矛盾ではなく、
武蔵の立ち合いの体験を、いわば、
言葉が体験を追いかけるといった格好になっています。
■ 私たちの日常では...
私たちも日常では、仕事というものがあり、
その仕事の分野では、ある程度の経験を積むと、
仕事の始まりから終わりまでの全体行程が頭に入っていて、
現在の仕事がどのように展開するのか、またしなければならないのか、
いわば、仕事というものを時系列において、
それを考慮しつつ仕事をこなしています
つまり「時系列」上の全体というのは、比較的、頭に描くことができます。
(大きく広く見る)
しかし、今、自分がしている行動なり仕事なり言動なりを、
現在の瞬間にまるで鳥瞰図を見るように見る「全体」に関しては、
実行不可能に近いのが実情でしょう。
この鳥瞰図を見るように現実の自分を見る、
やはり継続的な訓練が必要なのでしょう。
実社会では、自分の行動や言動に対し、厳しいものがあります。
自分の秘書に向かって、
「おい、ハゲ!、バカ!」とか、
あるいは公的な会議の席上で、出席者に対し、
「お前は馬鹿だ!」と言えば、
当然の結果として、社会から爪はじきに会います。
社会から追放されて、
もうどこにも行き場が無くなってしまうことさえあります。
自分の現在進行形の行動や言動を、やはり、上から俯瞰するような眼、
これをすこしずつ養う必要に迫られています。
■ 最後に世阿弥の「花鏡」の言葉をかかげておきます。
「見所(けんじょ)より見たる所の風姿は、我が離見(りけん)也。
然れば、わが眼の見るところは、我見也。
離見の見にはあらず。
離見の見にて見る所は、則ち見所同心の見なり。
其の時、我が姿を見得する也。」
能舞台に立つシテの心得を言っています。
「訳/
見所(見物席)から見る姿、これが我が離見というものである。
自分だけで見ている姿は、我見で、主観的なものに過ぎない。
離れた見所(見物席)から見物人の眼を以って、
自分の姿を同時進行で見なければならない。
見物席から見物人の眼を以って眺めた姿こそ、
ほんとうの「我が姿」を見得することができるのだ。」
名人というのは,凄い言葉を吐くものですね。
ここまで私のつたない感想文にお付き合いしていただいた方々、
武蔵や世阿弥のようには行きませんが、
なんとかプレーをしながら、見物席からの眼や、全体を俯瞰する眼、
令和の新たな時代に、これらを養って行こうではありませんか。
ー終わりー