◆富岡製糸場を訪ねて

「歴史と文化を学ぶ会」理事長 結城 順子

 

 

 富岡製糸場を訪ねて

ーフランスからお客様が見えてー

 

富岡製糸1..jpg

 

12月初旬、フランスから4名のフランス人の友人が訪ねてきました。

どこを案内しようかと迷いましたが、

そうだ、フランス人が技術指導して立ち上がった富岡製糸場がいいと思い立ち、

4名のフランス人を富岡製糸場へ案内しました。

 

◆ 日本とフランスのそもそもの関係の成り立ち

徳川幕府の時代は、有名な鎖国の時代でしたから、

日本は、長崎の出島を通じて、オランダとのみ輸入や輸出をするという形でした。

 

その均衡が破れたのが、幕末でした。

日本は、通商条約と言われる貿易上の条約を欧米各国と結びました。

これによって各国との貿易が始まったわけです。

 

丁度その頃、ヨーロッパではお蚕の病気(微粒子病)が流行り始めていました。

この病気で、フランスやイタリアの絹産業は大打撃を蒙り、

失業者があふれ、絹産業の多くの会社の倒産が続きました。

 

フランスも、これには弱って、病気に強いお蚕の種を探し始めました。

探し当てたのが、極東の日本でした。

日本は、お蚕の種(卵)と生糸をフランスへ輸出し始めます。

これによりフランスの絹産業は救われ、息を吹き返しました。

幕末から明治の初めの話です。

 

侍(サムライ)の時代が終わり、

明治という新しい時代になりますと、

明治政府は、このお蚕、そしてお蚕からできる生糸に目を付け始めます。

輸出すると、お金を稼ぐことができるからです。

 

ここでちょっと説明しておきますと、

 

・お蚕を飼育して繭(まゆ)を育てるが「養蚕業」。

・繭から糸を取り出し生糸にしたてるのが「製糸業」

・生糸を加工して織ったり編んだりするのが「絹織物業」

 

明治政府は、この三つの産業を奨励しようとします。

そして、侍(サムライ)の時代にやっていた家内制の養蚕や製糸、絹織物を、

これからの時代に合わせて、

いわばこれら在来伝統の産業を近代化しようと思い立ちます。

 

そこで明治政府は、

群馬県の富岡に近代的な官営製糸工場を作ることにします。

1872年(明治5年)のことでした。

明治政府は当時のフランス公使館に、

製糸業の専門家を紹介してくれるよう依頼します。

フランス公使館から推薦されたのが、ポール・ブリュナでした。

 

 ブリュナは、当時、

横須賀製鉄所で働いていたバスティアンに製糸場の設計を依頼します。

50日間で設計は終わったと云われています。

 

バスティアン - コピー.jpg

 設計者 バスティアン(「絹と光ー日仏交流の黄金期ー」HACHETTE刊より)

 

ブリュナは、工場の機械・設備の発注のため、一時、フランスへ帰国します

そしてフランス本国で富岡製糸場で必要な人員を集めます。

・技師2名

・織り糸工(男性)3名

・織り糸工(女性)4名

この人たちを連れて日本へ来ます。

そしてさらに

・技師1名

・織り糸工(女性)1名

・医師1名

計3名が合流します。

これらの人たちは、みな、フランスはリヨンの出身でした。

当時、リヨンは、世界最大の絹織物業の産地でした。

 

そして上記の人たちの指導を受け、1872年、生産開始です。

1873年には日本人女工400名となり、

6月には皇后陛下が見学に来ます。

1873年のウイーン博覧会に出品し、2等賞の栄誉に欲します。

 

日本全国の模範工場となり、名声を博します。

 

ラベル富岡製糸場.jpg

(「絹と光ー日仏交流の黄金期ー」HACHETTE刊より)

これは、富岡製糸場の製品につけられたラベルです。

訳すと、

最初は漢字で、◆大日本上野国富岡製糸所

その下がフランス語で、◆富岡製糸場、その下が上野国、その下が日本。

そして製糸場の図柄があって、その下が面白いですね。

◆フランス人ブリュネ氏の指導の下、1872年設立された製糸場。

◆われらの製品は、常に、我らの製糸場マークを付けている。

 

というわけで、明治当初、日本の絹産業の原動力となりました。

 

 

これらの話を、今回訪問した4名のフランス人たちは、初めて聞き、

「ああ、フランスも日本の近代化、経済大国への道のりに貢献したんだ」と

フランスが日本の近代化にいたく貢献したことを誇りに感じていました。

 

案内した私も、4名のフランス人たちに感謝され、

日本とフランスの仲の良い交流の原点である富岡製糸場を、

誇りに感じ始めていました。

ー終わりー