◆「高崎信濃会」との交流

高崎信濃会創立90周年(2022年11月6日)

古代からつながる信州と上州

歴史と文化を学ぶ会

理事長 結城 順子

 

はじめに

「科野」は8世紀初めまでつかわれていた古い国名で、和銅6年(713年)5月に発せられた勅令「好字二字令」(地名の表記を、良い意味の漢字二字)により「信濃」と変わりました。これは奈良時代の朝廷は、中国の制度に習った国づくりを進めていたからです。

1871年(明治4年)に長野県が誕生・1897年(明治30年)市制施行うに伴い長野市が誕生しました。

群馬県は「上毛野国」かみつけぬのくに→から毛を取り「「上野国」かみつけのくに→鎌倉時代以降に「こうずけ」と呼ばれるようになり、群名以下の地名も同様に「車郡」→「群馬郡」と書き表すことになったが、読み方はいずれも「くるまのこおり」で、「車」の地名は、今日まで続く「群馬」の二字に変更されました。その理由は当地で国家財産である馬が大量に生産されていたからであり、そのことが極めて慶事であったからと思われます。

古代の人々にとって財力と軍事力、権威の象徴であった「馬」の豊かなイメージから、「車」と表記されてきたものが、「群馬」と表記されるようになったと考えられます。

漢字の当て方に明らかに無理があり読みづらいものも見られ、当てた漢字の音に引きずられて読みが変わった例も多くあります。

 

7世紀末の都である藤原京跡(奈良県明日香村)から「上毛野国車評桃井里大贄鮎・・・」(かみつけのくにくるまのこおりももいのさとおおにえあゆ)と書かれた木簡が出土、これは、上毛野国(群馬県地域)から宮廷に献上された鮎に添えられた荷札であり、今でも残る「桃井」の地名(現在の北群馬郡吉岡町・榛東村)で当時「車」という評(郡)に属していたことが分かります。

 

「群馬」の漢字が確認できる初例は、ユネスコ世界の記憶に登録された上野三碑の一つ「金井沢碑」である。この碑文(726年)に記されている「上野国群馬郡下賛郷高田里・・・・」(こうずけのくにくるまのこおりしもさぬごうたかだのさと)は群馬の地名の起点です。

 

長野県歌「信濃の国」に信濃の国10州に境連ぬる国にしてと詠われておりますが、群馬(上州)・埼玉(武蔵)・山梨(甲斐)・静岡(駿河・遠江)・愛知(三河)・岐阜(美濃・飛騨)・富山(越中)・新潟(越後)の隣接都道府県数8県は全国最多です。

また、上州と信州は多数の峠でつながっております。

澁峠・万座峠・鳥居峠・角間峠・地蔵峠・車坂峠・碓氷峠・入山峠・和美峠・八風山トンネル・志賀越・内山峠・余地峠・十石峠・田口峠・二度上峠などがあります。現在では使用されていない峠もあり、また地図上に表記されていな      

い峠もあります。

これらの峠をとおして様々な交流がありました。

 

黒曜石・土器・鉄剣の交流

火山が生み出した天然ガラスである黒曜石は、約3万年前の旧石器時代から縄文時代・弥生時代の中頃まで石器の材料として使われていました。

信州産黒曜石は関東・中部地方を中心に、遠くは青森県からも出土が確認されております。

群馬県では、安中市中野谷松原遺跡・天神原遺跡・昭和村糸井宮前遺跡で諏訪系の黒曜石が確認されています。

この様に信州産黒曜石は各地に運ばれ「元祖信州ブランド」だったそうです。

 

弥生時代後期後半には善光寺平を中心とした、赤色に塗り上げられていた赤い土器「箱清水式土器」は北陸地方や群馬県・埼玉県までに交流がみられます。各地に土器文化圏が存在し、それぞれの独自性のある地域色の様相が強まり多様化し変遷し交流が活発化して行きました。

渋川市赤城町樽(旧・勢多郡赤城村樽)で出土した「樽式土器」は長野県北部域に形成する「箱清水式土器」」と親縁性が強く「兄弟様式」として注視されています。

 

長野県木島平村の「根塚遺跡」からは三振の鉄剣が発見されています。

そのなかに柄の部分が渦巻の装飾がついた特徴的なものがあり、この装飾は加耶地方独自の様式であり、また、鉄素材も三振とも朝鮮半島南部産であることが成分分析から判明しています。日本海の流通ルート経由でもたらされたものとおもわれ、渋川市「有馬遺跡」高崎市「八幡遺跡」でも鉄剣が出土しています。これらも日本海から、長野県を経由してもたらされたものと考えられます。

 

馬の交流

中国の書物「魏志倭人伝」の記述に「其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲・無し」とあります。

「日本書記」応神天皇15年条に、百済王が阿直岐(あちき)を使わせて良馬2匹を献上し軽(かる又はかろ)現在の奈良県橿原市大軽町付近というところで馬を飼わせたという記述があります。

継体天皇6年条や欽明天皇7年条には日本から朝鮮半島に馬を送っているという記述もあります。河内平野の中央に広がっていた河内湖、その東から生駒山西麓までの地域で5世紀中頃から6世紀中頃まで馬の牧と集落が営まれていました。

古墳時代中頃、河内の四條畷市に飼育技術が伝わり、渡来系の馬飼人が係わっていたようです。

百済から馬が伝わって渡来人が飼育したことや、6世紀になると朝鮮半島に馬が送れるほどの馬の飼育が拡大していたこたがうかがえます。

 

その後、律令体制の成立とともに「官牧」という官営の牧が整えられていきました。朝廷に馬を献上するための御牧は上野国には9牧がおかれ毎年50匹・信濃国からは16牧・80匹、その内20匹は望月牧であったようです。

信濃では、長野県南部の飯田市域の伊那谷地域で、古墳に伴う馬の殉葬墓が集中しています。伊那谷の牧の開始時期は、河内と同じか、やや先行するようですが、河内の牧と一体的な経営がなされていたと思われます。後の東山道のルート上にあり、そこで育てられた馬を近畿まで運んで、河内の牧にいったん集めて、そこから必要に応じて馬を運び出すことで、馬の需要の増加に対応したと考えられます。

 

同じ東山道沿いの高崎市剣崎町の剣崎長瀞遺跡では鉄製のクツワをはめたままの馬の遺体が見つかっています。この地域では渡来系の古墳や土器も発見されています。

 

馬の導入は、軍事・流通・運輸・農耕・儀礼などに大変革をもたらし、その画期性は今日の自動車産業及び軍事産業に匹敵するものであります。

 

今から1500年前に噴火した榛名山、渋川市金井でその時の火砕流堆積物に埋もれた溝の中から、成人男性1人、成人女性1人、性別不明乳児1人、幼児1人(5歳前後)の4体の人骨が発見されました。成人男性は甲を着たまま発見されたので「甲を着た古墳人」・成人女性は首飾りをつけていたので「首飾りの古墳人」と名付けられました。成人男性は甲を着装した姿で発見されたことから、ムラや地域を統括するリーダー的人物として注目されています。

この「甲を着た古墳人」」は渡来系の骨格をしているが渡来後数世代を経たと思われます。

歯に残されていたストロンチウムという微量物質の同位体比分析によって成人男性・女性は長野県南部の伊那地方で育ったことが有力となりました。伊那地方から移住した、馬飼人とおもわれます。

甲冑を着用した状態の古墳人骨の発見は全国で初めての例です。

ひざまずく座り方のような姿で発見、推定年齢40代で。推定身長164センチ・やや背が高く、顔面骨の特徴から、細い顔立ち、高かくて細い鼻「渡来的形質」と思われます。筋肉の付着部の観察からは、肩を頻繁に回したり、乗馬や足を踏ん張るような運動に特徴的な筋肉の発達が見られ、左肩の発達が認められるので「左利き」の可能性も指摘されています。ウエストサイズが90~100センチの甲を着用しているので、肥満体ではなく締まった頑健な体つきだったと想像されます。

 

[首飾りの古墳人]は甲を着た古墳人が発見された同じ溝の中で、16メートル余り西に離れた場所から倒れ伏した状態で見つかりました。その姿は、異様なほどに腰をひねった状態で、迫る火砕流からそむけるように顔は横を向いていました。

推定身長は144センチ弱で古墳時代の女性人骨でもやや背の低い人で、上下に高くない眼窩(がんか)や下の顎の形、鼻幅が広いなどの顔面の特徴は、関東から東北地方にかけてみられる古墳人骨と同じです。

歯の状態から年齢30代と推定、さらに、腰骨に残ったわずかな特徴から、経産婦の可能性が高いことも判明、筋肉の付き方は、何らかの肉体労働に従事したと考えられます。

 

5歳前後の幼児はストロンチウム同位体比の分析結果から、金井の地で生まれ育った可能性が高いことがわかりました。ただし、血縁関係は判明していないので、成人2人との親子関係は不明です。

 

この遺跡(金井東裏遺跡)の近くでは馬の足跡が沢山見つかっております。

人の足跡に並んで馬の蹄跡(ひづめ)も残っていたので馬を引きながら歩いていた様子がわかります。馬の歯・馬体・も発見されております。

このころの成馬は蹄跡の計測データーから、体高130センチ程度で現存する日本在来馬の「木曾馬」に近い中型馬とおもわれます。

この様な様々な考古学的な研究の成果で金井東裏遺跡に特徴的な馬匹生産は長野県(伊那谷周辺)から群馬県に持ち込まれた可能性が指摘されています。

 

米の交流

十石峠は群馬県南西部の多野郡上野村と長野県南佐久郡佐久穂町の県境にある峠で標高1351メートル。神流川と支流の黒川に沿い、東西に走る十石街道唯一の重要な峠です。

十石峠の名は、江戸時代に日に10石(1800リットル)の米を佐久地方から、米のとれない神流川流域地方に運んだことから出たとされています。

馬の背に乗せて運んだもので、上野村白井には白井関所がありました。

十石峠街道は蛇行して流れる神流川の北岸で、断崖や狭谷が多く、人や馬の転落事故が多く河岸のあちこちに供養塔がみられます。

 

生糸の交流

世界遺産「富岡製糸場」は明治5年(1872年)10月日本で最初の官営として操業開始、その後民間企業(三井家)に払い下げ・原合名会社に譲渡、その後昭和13年(1938年)7月岡谷市の片倉製糸紡績㈱に引き継がれました。

片倉家の三原則「売らない・貸さない・壊さない」により富岡製糸場を守り抜き2014年6月世界文化遺産登録になりました。

先日は富岡市から岡谷市108キロをランナーで結ぶ両市の友好駅伝が行われました。現在も富岡市と岡谷市はこの様に交流がつづいております。

 

官営富岡製糸場には明治6年(1873年)4月松代から和田(旧姓・横田)英が伝習工女として赴きました。和田英は松代藩の士族の子として生まれ、父が富岡製糸場の工女募集の責任者であった事によります。

ここで技術を学び松代に戻った後、西條村製糸工場(のちの六工社)で工女の指導にあたりました

松代から16人が伝習工女として富岡製糸場へ入場し、器械製糸の技術を学びました。

工女達の活躍が、絹産業ひいては日本の近代化に大きく貢献しました。

 

善光寺との交流

本年は長野市の善光寺にて7年に一度の御開帳が行われました。

善光寺と群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原の交流は1783年(天明3年)に発生した浅間山大噴火直後に善光寺の僧の「藤順」が被災地の鎌原を訪れ、被災者の施しや慰霊をしたことに由来するそうです。現在の御開帳も犠牲者への供養のため天明5年に浄財を集めたことが起源とされるそうです。本年も善光寺より約90本の回向柱が鎌原村区長・鎌原観音堂奉仕会に届けられたそうです。

 

人の交流

高野 辰之

長野県水内郡永江村(現在の中野市永江)出身の国分学者・作詞家・文学博士「高野辰之」は東京から故郷(永江村)に帰る途中、列車の車窓から眺めた碓氷峠あたりの紅葉をみて「紅葉」を作詞したようです。

ちなみに、高野辰之作詞・岡野貞一作曲の文部省唱歌は、小学校教科書の教材として次の6曲「日の丸の旗」「紅葉」「春が來た」「春の小川」「朧月夜」「故郷」が現在も教科書に掲載されています。

 

土屋 文明

歌人「土屋文明」は明治23年(1890年)9月18日現在の高崎市(群馬県西群馬郡上郊村保渡田)に生まれ、歌人として活躍をしました。

小説「野菊の墓」で有名な「伊藤左千夫」を頼り上京、その後「島木赤彦」「斎藤茂吉」らと知り合い、現在の諏訪市出身の赤彦の紹介で、27歳から33歳まで諏訪高等女学校の教頭・校長として赴任その後も「信濃教育」編集長として活躍をしました。その頃の詩「寒き国に移りて秋の早ければ温泉(いでゆ)の幸をたのむ妻かも」を詠みました。

 

終わりに

私と長野県のご縁は現在の佐久市にある五郎兵衛用水と五郎兵衛新田の研究に通ったことです。上州南牧村と佐久市を結ぶ峠を越えて調査に通いました、時には春日温泉に宿泊しました。

 

また、昭和9年陸軍特別大演習が高崎市乗附町にておこなわれました。

天皇をこの地に迎えるにあたり、私の祖父はその奉迎委員を拝命いたしました。その時、長野県の多くの方々が高崎市乗附町にて天皇陛下の御親閲を拝受しました。長野県の方々を高崎市乗附町にお迎えしお世話したのが私の祖父で、その後、その好意に対し長野県知事「岡田周造様」より感謝の礼状が届きました。この礼状を私は4~5年前に発見しました。

祖父から続く長野県とのご縁を感じました。

 

信州と上州はこの様に古代より様々なつながりがあります。

これからも信州と上州の歴史遺産を皆様と共に学び、両県の繁栄と交流が長く続くことを祈念いたします。

 

 

 

参考文献

編著者 公益財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団

[金井東裏遺跡の奇跡 古墳人、現る]

 

発行者  高崎市 ・ 著者 若狭 徹

   [ 高崎千年物語]

 

 編 者  長和町町立黒曜石体験ミュージアム(執筆者 大竹幸恵)

           シリーズ「遺跡を学ぶ」 [黒曜石の原産地を探る]

発行者  ㈱新泉社

 

 編 集  かみつけの里博物館 

第24回特別展 [ゆくものくるもの]

    第20回特別展 [馬と共に生きる]

 

発 行 群馬県群馬歴史文化遺産発掘・活用・発信実行委員会

     [東国文化副読本(~古代ぐんまを探検しよう~2019年度版)]

 

発 行 群馬県立土屋文明記念文学館 

    「歌人・土屋文明―その短歌と群馬県立土屋文明記念文学館コレクションー」

 

制 作 片倉興産㈱

     諏訪・富岡シルク紀行(時を越え、場所を越え、紡ぎあう)

 

編集・発行 長野市立博物館 

長野市立博物館「常設展示案内図録」

 

 発 行 上毛新聞社 掲載記事より