◆「積石塚・渡来人研究会」主催の講演会への参加と遺跡の見学 山梨県甲府市

◆ 2020年2月23日(日)

高崎駅より新宿駅へ出、

そこより甲府行きの中央本線の特急に乗り換え、

甲府駅までやってきました。

甲府駅から最寄りの駅の石和温泉駅近くにある帝京大学文化財研究所にて、

「積石塚・渡来人研究会」により講演会が開催されました。

テーマは:

「渡来人と諸技術ー6、7世紀における技術革新の諸相ー」でした。

 

■ 「積石塚・渡来人研究会」は

山梨県下に残る積石塚を含む後期古墳の調査・

研究をしながら高い技術文化をもって地域開発に貢献した渡来人の痕跡を探すとともに、

年度ごとに共同研究テーマを掲げて考古学・文献史を基軸に古代甲斐の地域開発の特質や

変遷を追求」している会であります。

今回は第5回目の開催にあたり、記念講演として

京都府立大学教授の菱田 哲郎氏の講演がありました。

菱田先生①.JPG

 

■ 記念講演:「渡来人がもたらした技術とその拡散」

先生の講演の骨子を要約すると、

7世紀において屯倉(ミヤケ)は重要な役割を演じました。

農業生産や漁業生産の開発拠点としての機能のほかに、

手工業生産のなどの技術伝播の役割も担っていました。

これらの貢納物を徴収する一方、

政治的・軍事的な機能も担い、

また地域の交通拠点としての役割も持っていました。

製鉄・鍛冶などの先端産業の部門も、屯倉を中心として、

渡来人の技能者たちも大いに関係していました。

 

■ 最初の屯倉 茨田屯倉

私たちには、最初の屯倉として、茨田屯倉(まむたのみやけ)が馴染み深いものです。

 

仁徳天皇の時代ですから、4世紀末期のころでしょうか、

当時、朝廷は奈良を離れ、大阪湾に面した難波津へ移っていました。

朝鮮半島や中国との交流が頻繁となり、

瀬戸内海はその交流交通の要所としての幹線でした。

当然、都は大阪湾を見下ろす上町台地に置かれます。

 

上町台地は台地とはいうもののわずかな高台で、ほぼ平野そのものです。

近くには河内湖 (昔は草香江と呼ばれていました)があり、時には洪水となり、朝廷や民を苦しめました。

河内湖へは北東から淀川の支流が流れ込み、また南からは大和川も入り込んでいて、

また河内湖の水の出口は、上町台地の北の部分で、砂州状に狭められており、

水が大阪湾へはほぼ流れ出ないような地形でした。

(かつての大和川は、奈良から多くの支流を抱え込み、生駒山系を通過し、

大阪の現在の柏市付近から直北へと進路を取り、河内湖へと注いでいました。

現在は、江戸時代の土木工事により、

柏市にて西の方面へと河道を変え、

堺市方面へと流れ、大阪湾へと注いでいます。)

 

そこで何とかしようと天皇も思いたち、

淀川辺に大きな堤防を築きました。

茨田堤(まむたのつつみ)と呼んでいます。

現在の枚方市から寝屋川市へと至るものです。

 

大きな堤防を築くと、(長さ20kmと云われています。)

堤防の周囲は一面の水田と畑作地へと変貌します。

いわば、治水対策と産業上の開発政策を合わせて実施したかのような工事でした。

 

茨田堤の周囲はいうまでもなく朝廷の直轄地となり、茨田屯倉を置きます。

大規模な開発工事の完成の後、洪水に悩まされることなく、民は耕し始め、

朝廷は、食料上の安全を確保し、また税収も上がるという好結果につながったと思われます。

 

「また秦人(はたびと)を役(えだ)てて、茨田の堤と茨田の三宅(みやけ)とを作り、

また丸邇(わに)の池、依網(よさみ)の池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、

また小椅(をはし)の江を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定め給ひき。」

(また大陸からやってきた秦人を使って茨田の堤と茨田の屯倉をおつくりになり、

また丸邇(わに)の池、依網(よさみ)の池をお作りになり、

また難波の堀江を掘って海に通じさせ、

また小椅(をはし)の江を掘り、またまた墨江(すみのえ)の港をお定めになった。)

(古事記下巻 仁徳天皇)

 

やはり大陸や朝鮮半島からの技術者集団を使っての大土木工事だったのですね。

堤と屯倉をつくるのに、渡来人の技術が大いに物を言った時代だったのでしょう。

 

ここまでは、私のミヤケに関する初歩的理解というべきもので、

菱田先生は上記のことには言及していません。

 

菱田先生の話は、このような初歩的理解を飛び越えて始まります。

 

IMG_7948.JPG

 

■ 屯倉(ミヤケ)の形

もちろん、最初の屯倉の形から時代を経るにつれ多くの派生形が生じてきます。

菱田先生によれば、屯倉をカタカナで「ミヤケ」と書いてます。

 

「中大兄皇子ひとりだけでも181か所の屯倉を所有していて、

また「群臣連および伴造、国造」が屯倉の所有に関わっており、

多様な屯倉の管理が推測できる」としています。

王家だけではなく、諸豪族もかかわっており、

7世紀の社会を知るうえで重要なものであると先生は言います。

 

正史には載ってこないミヤケの存在

先生は、播磨国多可郡の例を引き合いに出します。

日本書記などの正史には載らないものの、

あきらかにミヤケの存在を彷彿せしめるものがあると言います。

以下、先生の講演資料から抜粋しますと、

播磨国多可郡の西部では:

① 大型横穴式石室をもつ古墳が集中する東山古墳群

② 平野部での部落の展開と郡名寺院の多可寺の造営

③ 平城京二条大路木簡の記載「播磨国多可郡那珂郷三宅里」

④ 集落から離れた山の古墳ー巨大な群集墳ーの形成

⑤ ④はこの地域の人口の爆発的現象と対応

⑥ 多くの人のこの地域への移住が確認できる

⑦ ミヤケの経営に関わる部民に関する情報がある

⑧ ミヤケの開発の場合、移住者のための新たな墓域が計画される

ー群集墳の形成ー

⑨ 7世紀には須恵器生産がおこなわれている。

また鉄製紡錘車が出土しており、朝鮮半島系の鉄斧も出土している。

 

「このような諸生産の拠点、あるいは生産物の貢納拠点としてのミヤケが機能していた

と推測できる」と先生は言います。

この時期の窯業には、地域を越えて共通する技術があり、

それは王権から地方へと伝わるのではなく、

ミヤケから他のミヤケへと技術が伝播されていくと先生は看做します。

渡来系技術者の移動にも、やはり、ミヤケが大きく関与していたと言います。

 

「葛野大堰を設け、桂川両岸の灌漑を行った秦氏」が中心となって、

「各地にミヤケが置かれた6世紀において、そこに関わる渡来系の技術集団の一部は、

秦氏として編成されたことが推察される。」と。

 

「列島規模で技術が平準化されるのは、ミヤケを介した技術伝播が広範囲に

おこなわれた結果とみるべきであろう」と喝破します。

 

■ 甲斐国のミヤケは ?

もちろん正史の上では、甲斐の国にはミヤケはありません。

またミヤケを関した地名や人名も見当たらないとのことです。

当然、ミヤケの存在には関心が無くなってしまいます。

 

だが、先生は、

「巨麻郡の前身となるミヤケの存在は想定可能」と考えます。

以下、その想定可能を言わしめる根拠として、講演資料から引用しますと、

 

-天狗沢窯の瓦が遠隔地との交流を思わせる

ー窯体構築技術も石組窯として信濃地域との密接な関係

ー韮崎市の御座田(みさだ)遺跡における6世紀末~7世紀初頭の須恵器窯跡

ー南アルプス市野牛島西ノ久保遺跡における8世紀代の須恵器窯

(第二次拡散期の須恵器窯はミヤケを介した技術移転があったことが想定できる。)

ー窯跡群から釜無川を挟んだ対岸にある赤坂台古墳群

(この古墳群は、7世紀を中心に営まれた横穴式石室を埋葬主体とする群集墳。)

ーこの地域の核には、「志摩」の地名があり、渡来系氏族「石川氏」との関係から

地域の開発拠点と目されている。

 

「百済滅亡後の渡来人が定着する以前から、渡来人はすでにミヤケを核とする

地域開発に携わっていたと推測できる。渡来人の重層的な定着過程もまた、

列島各地の普遍的な現象と一致するとみてよい。ミヤケを核に渡来人の技術を導入し、

開発が行われ、それが巨麻評、巨麻郡に受け継がれたと考えておきたい。」

 

今回の先生の講演を聞き、

正史には載らないミヤケの存在が推測可能であるということを

あらためて認識した次第です。

 

講演会の翌日は先生とともに、

原事務局長の車に同乗させてもらい、

上記の引用のあった韮崎市の「御座田(みさだ)遺跡」を訪問しました。

調査担当の渋谷氏から出土品とその現場を案内説明していただきました。

また菱田先生の出土品に関する講評もありました。

 

御座田遺跡全景.JPG

(韮崎市 御座田(みさだ)遺跡全景 正面には八ヶ岳が見える。)

 

古代の甲斐の国では、窯業生産は低調とみなされてきました。

ようやくこの御座田遺跡の発見により、

須恵器生産が確実視されました。

 

渋谷氏の現地説明.JPG

(須恵器の窯跡前にて担当者 渋谷氏による説明)

 

講評.JPG

(御座田遺跡の出土品に関する菱田先生の講評。遺跡発掘事務所内にて) 

 

原 事務局長.JPG

(今回、何から何まですべてお世話をしてくださった積石塚・渡来人研究会の原 正人事務局長)

 

集合写真①.JPG

(南アルプス市の博物館にて最後の記念写真)

 

今回は、菱田先生、原 正人先生また多くの方々にお世話になりました。

あらためて感謝の意を表します。

ー終わりー