◆移動研修教室ー遺跡探訪ー2019
現地研修会
森将軍塚古墳 (長野県千曲市屋代)
今年の現地研修会は、長野県千曲市に位置する森将軍塚を訪ねました。
小型観光バスにて20名ほどが8:10 高崎駅東口に集合、
吉井方面から高速道路へと入り、長野県へと向かいました。
(森将軍塚 前方部にて記念撮影)
■ 今から1,650年ほど昔、この古墳は作られました。
有明山の尾根伝い、海抜500mほどのところに、
「く」の字形をして全長100mほどの竪穴式古墳です。
(古墳全景)
■ 科野の国を治めていた王様の墓
古墳の向こうに見えるのは、善光寺平です。
この古墳は、
善光寺平から科野(しなの)の国を治めていた王様の墓であろうと推定されています。
(どこから見ても、この古墳、優美な姿をしています。)
■ 古墳 後円部の頂上にて
この古墳の復元に4億円がかかったとガイドさんが説明してくれました。
また古墳側面の葺石、8万枚が必要とされました。匠の技を持つ老職人の指導の下、
一枚一枚、丹念に葺かれたとのことでした。
(古墳後円部の頂上です)
ここでも、地元のガイドさんが、丁寧に説明してくれました。
ちょうどこの写真は、古墳の頂部分で、
長方形の置き石が見えますが、
この部分が、竪穴式石室でした。
この竪穴式石室は、古墳下の古墳館という博物館に復元されています。
(古墳 前方部にて)
森将軍塚古墳の山頂部での見学を終えた後は、
またマイクロバスにて下り、古墳館近くの物産館での昼食となりました。
左手に見えるのが、昼食をとる物産館です。
長野県は、どこへ行っても、山、山、山、の風景です。
私たち群馬は、東南方面が関東平野で、そこだけはぽっかりと空いています。
長野県には、どこにもこの空きがない、
これが私たち異郷人にはたまらない魅力と映ります。
■ 古墳館の見学
昼食の後は、古墳館の見学となりました。
(古墳館にて。竪穴式石室の復元)
一般に、竪穴式石室の古墳は、
西暦250年ごろから400年代初めまで作られたものです。
森将軍塚古墳も、西暦350年から400年ごろの築造であろうと考えられています。
■ 竪穴式石室
竪穴式石室は、遺体を棺に納めたのち、側壁を積み上げます。
そして大きな石で蓋をしてしまいます。
床面は玉砂利が敷かれ。
側壁にはベンガラが赤く塗られ、
側壁は上に向かうにつれて少し狭まります。
石室は、長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mです。
床面は、面積15.6m2と相当な広さを持っています。
石室の面積、容積、日本でも最大級のものの一つです。
床面に収められた棺はどのようなものであったか、
ごく一般的に想像すれば、
前期古墳時代の竪穴式石室は、
大きな木を丸ごとくりぬき、
そのくりぬきを合わせた「割竹型木棺」(わりたけがたもっかん)、
あるいは石材をくりぬいた「「割竹型石棺」(わりたけがたせっかん)、
であってもよさそうですが、
石室の床面が広く平らであることから
上記の両棺ではなかったと考えられています。
しばしば盗掘に会い、棺の痕跡が残っておらず、
今でははっきりしたことは言えないそうです。
この石室は、「墓壙」という大きな石垣の枠組みの中にあります。
この枠組み、長さ15m、幅9.3m、深さ2.8mという大きな石垣の枠組みの中にあります。
上記の写真は、二重の石垣に囲まれた枠組みです。
(古墳館では、学芸員が懇切丁寧に説明してくれました)
■ 全体図の説明
学芸員の女性が、熱心に説明しているのは、
博物館の壁面に飾られた森将軍塚古墳の作図です。
大きな作図は4枚壁面にありました。
上記の作図は、発掘調査時(1983年)のものです。
これで見ると、はっきりと「く」の字型をしているのが見てとれます。
前方後円墳は、長方形の前方部と円形の後円部とが一直線上にあるのが普通ですが、
ここでは曲がった形になっています。
なにしろ海抜500mの尾根上の地形を利用しての前方後円墳の築造です。
尾根の地形に従わざるを得なかったのが、
この古墳を類を見ない独特な形にしたのでしょう。
(石室の側壁復元前にて)
学芸員さんの説明が終わり、
学芸員さんと私たち有志との記念撮影です。
懇切丁寧な1時間にわたる説明、ありがとうございました。
■ 古代科野の村
古墳館を出たあと、隣接する古代科野の復元村へ足を延ばしました。
信州の夏の緑が目に鮮やかに写り、
その中に、科野の古墳時代(5世紀前半)を復元した建物がありました。
(千曲市 屋代の「森将軍塚古墳」を離れ、バスは「浅間縄文ミュージアム」のある
御代田町へと向かいます。)
■ 浅間縄文ミュージマム(長野県北佐久郡御代田町)
長野県と言えば、誰もが八ヶ岳山麓の「縄文のビーナス」を思います。
また同山麓の「仮面の女神」を思い浮かべます。
どちらも日本の国宝に指定されています。
縄文中期の大傑作というわけです。
■ 浅間山麓の縄文文化
しかし、長野県には、浅間山を中心とした浅間山麓の縄文文化がありました。
もちろん草創期から晩期に至るまで、その遺跡は連綿と続いていますが、
とくに縄文中期(4,000年前)の川原田遺跡出土の「焼町土器」は有名です。
今回の訪問は、この「焼町土器」を見ることでした。
御代田町の川原田遺跡46軒の住居跡から出土した100点ばかりの土器は、
一種言いようのない独特な形をしています。
ドーナツ状のデザインを曲線と渦が取り巻き、
またメガネ状の突起やV字状の突起があちこちにあり、
土器の上方へ向かって燃え立つような躍動感がみなぎります。
縄文人の粗剛な生命力と芸術的感性がダイナミックに融合し、
はちきれんばかりの情動がみなぎります。
上記2枚の写真は、川原田遺跡出土のものです。
川原田遺跡の近くに川原田遺跡より若干新しい滝沢遺跡があります。
そこから「注口土器」が出土しています。
今から3,500年ほど前の土器です。
液体を注ぐための土器ですが、
なんだか現代でも通用しそうな急須の原型のような気がします。
相当な歳月を経て、不思議なエネルギーが放出されているように見えます。
素晴らしい博物館でした。
圧巻は何といっても大きな一室全部が「国指定重要文化財」になっている焼町土器の展示です。
また懇切丁寧な説明をしてくださった学芸員の方、
ありがとうございました。
-終わりー