カザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタンの旅

Kazakhstan 001.JPGKazakhstan 041.JPG    昨日無事帰国し、本日から平常?営業、開始しました。

  鉄人にはなれず、RUN 21km過ぎでリタイヤ~。

  これで2019年のマレーシアに続いての2戦連続のリタイヤ・・・

  カザフスタン南東部から南西部への750kmのサイクリングは

 予定通り4日間で完遂。

 デジカメなるもので写真を少々撮りましたので、追々、

 紹介いたします。しばらくお付き合いください。

  この写真は、カザフスタン旧首都のアルマトイにあった

「科学大学」(女性に聞きました)的な建物。

 ソ連臭バンバンです。分かりにくいのですが不必要に

 デカいです。チェコのプラハで泊まったホテルの時と同じ印象です。

  次の写真もアルマトイ。質実剛健、機能重視。

 これもソ連時代の建築です。

  しかし市民生活はもう完全に改革開放?まっしぐら!

街を歩く人たちは皆、着飾り、佇まいは総じて落ち着いています。

十分な収入と生活が確保されているからだと解釈しました。

 私の自転車旅はシルクロードのオアシス、

ここアルマトイから始まります。

 

 

 

  成田から飛行機を乗り継ぐこと三回。

 移動時間は待ち合わせを合わせて49時間。
コロナ禍、成田空港はガラガラ、ファーストフード以外の飲食店は全店、絶賛閉店中!静かでよい。
 貯まったマイルを使ったために飛行機代はタダです。それにしてもちょっと遠いなあ。途中、チグリス川を眼下に見る。イスタンブール到着直前、隣の男性がアラーの神に祈りを捧げはじめた。通常の祈りなのか、安着に対する感謝なのかは皆目不明。
 便所に入る。えーと、どっち向きに座るんだこりゃ。(という写真)穴があるからそこに汚物を落とすのが当たり前だろうという訳でドアに向かって座る。左に見える蛇腹のホースのレバーを握って勢いよく水を発射し、クソまみれになった経験がマレーシアであるので、「へへへぇ、今回は騙されないぞ」と、壁にある地味な押しボタンで排水!事なきを得る。
 アルマトイ空港着。ここで一度荷を解く。ホテルに一泊し、西に向かって自転車旅をし、列車で舞い戻る。そして現在の首都、ヌルスルタンに飛行機移動してトライアスロンレースに挑む。
 ここは旧首都、とはいえ現在でもカザフスタン最大の都市である。
 また便所へ入る(よく入る)。便座と蓋がない。よく見ると床に二枚まとめて立てかけてある。なるほど~、これを自分ではめて用を足せという趣向だなあ~、気が効いている。それにしてもカザフスタンのトイレットペーパーは最強だなあ、いくら強くケツを拭いても破れる気がしない。中指が紙を突き破って、あれれっ・・・という心配は無用だ。というわけでカザフスタンではケツを拭いた紙を汚物と一緒に流してはいけません。多分詰まるのでしょう。横にあるゴミ箱に捨てます。クソだらけの紙がゴミ箱からこぼれ落ちています・・・というわけで、次の人ためを思って、溢れたクソ紙をゴミ箱の中に押し込みます。
 そうそう、外国人、マスク装着率現在、ほぼ0%です。
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アルマトイの空港を出るとすぐに白タク攻め。大きな自転車箱が一緒なので、ある程度の超過は想定内だ。カザフの通貨テンゲではなく「30米ドルで」と言われたので根拠もなく「25ドルならOK」という訳で老運転手との筆談交渉成立。ボロボロのワーゲンのステーションワゴンに無理やり自転車を突っ込む。ホテルの場所がよく分からないらしく、途中、車を停め、仲間の白タク運転手に聞きに行く。その仲間がスマホを持っていて、住所をインプットしてはじめて行く先が分かったらしい。ということは、いったい最初の30ドルという数字はどこからはじき出したんだ、コイツ! 
 しかし左手に見える天山山脈の美しいことといったらない。4500m級の雪をかぶった山の頂がくっきり見えている。
 「どうだ山が綺麗だろう」と得意顔の運転手。
 40分ほど走ったろうか、ホテルに到着して金を払う段になったら、運転手が「30ドルくれ」と駄々をこねはじめる。近所にある大きなホテルに行って手持ちのドルをテンゲに両替し、ついでにドルも細かくしてもらって運転手に渡すが、この世の終わりのような顔をして「30ドルくれ」というが、ここは約束なので25ドル払って「バイバイ!」と強制終了。
 ここで、タクシーの相場を予め知っておかないと値切りようもないことを覚えました。以後、相当役に立ちました。
 ホテルのフロントの女性が英語が話せたので「空港からここまで25ドル払ったけ相場はどのくらい?」と聞いたら「あなたは相場の4倍ぐらい払ったわけね」と彼女。あのくそジジイめ・・・
 自転車を組み立てて翌朝、勇躍出発!目指すは700km先の同国第三の都市、シムケント。途中、国境を超えてキルギスタンにも入るつもりです。
  朝の渋滞を避ける為、6:30amに出発。
 カラになった自転車箱等々は8日後に戻ってきて一泊するという約束のもと、預かってもらっています。これは私がいつも旅先で使う手です。
 「シムケントまでこれでいくわけ?」とフロントの女性。
 「今日は雨が降るらしいわよ~」
 カザフ最大の都市を抜けるまでしばらくかかりましたが、その後は整備された、あるいは絶賛整備中!の郊外を快適に西に走ります。自転車道路まで整備されています。明らかに日本より快適です。
 多分4、5日間ず~と左手に天山山脈を見ながら走ります。気温は32~35℃、湿度が20%ほど!戦いが始まりました。2週間後のIRONMANレースに向けて虎の穴トレーニングです。
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先日載せたような写真の自転車道路が永遠に続くのかと思ったら、やっぱり・・・
 という訳で行き止まりになってしまいました。やっと現れた通行人に(奇跡的に英語)道を聞いて、方向転換し何とか、走るべき道に戻れました。もうそこから、市街地の出入り以外で迷う事はありません。基本的に700km一本道です。↓ こんな感じです。前後50km 見えます・・いや見えませんが真っ直ぐです。この白線の右側50cmが私のテリトリーです。その右は砂利道ですから、まあ、走れません。白線の左側は分かりずらですが基本2車線あり、車が120~150km/hで走っています。キチガイ沙汰です。制限速度は110km/hです。私の1m横を120km/hオーバーの車がビュンビュン走ります。左にふらついたら命はありません。気温は35℃。一日中神経張り詰めで走ります。
 この日(初日)200km以上走って通過した村落は3つ。水の補給が命取りになりかねません。湿度が20%程度ですから、発汗はありませんが喉が猛烈に乾きます。2時間ごとに1ℓ 飲みます!
 そんな時、忽然と何やら小屋(相当粗末です)が出現。食事を提供しているらしい!中年夫婦がその小屋で暮らしながら、いつ来るやもわからぬ客を一日中待っているのだろうか。食べ物をくれとジェスチャーすると、「ピロシキ、ピロシキ!」指で2つ!と合図して食料をゲット。チーズが入っただけのピロシキでした。白いスープのようなものがあったので、それもくれと頼む。ひとくち口に入れてビックリ!酸っぱいスープだ。それもどんぶり一杯だ!不味いぞ!右手の親指を立てて、「美味い!」と合図をする。喜んでいる。無理をして完飲。400テンゲ、120円の昼飯でした。
 すると5分もしないうちに腹がゴロゴロ云いだしました・・・
 はれっ~・・・
 道を降りて、道路の下を潜るトンネルに潜入。
 豪快に下痢です!
 日本から持ってきたポケットティッシュに感謝。
 という訳で、察するにあの酸っぱい飲み物は、ヨーグルトの上澄み、ホエではないかと想像します。放牧している動物の乳からヨーグルトでも作っているのでしょう。
 少し昼寝をして、出発しようとしてコーラをくれというと、ないとの事。エナジードリンクを薦めるのでじゃあそれ、500テンゲ
150円。昼飯より高いぞ!
 下の写真は道路標識を管理している労働者の方々が乗る車。ソ連時代の代物でしょう。運転手が手を振ってくれました。
 バックは天山山脈。この山の向こうにひときわ高い峰々が潜んでいます。
 50kmに一度くらい、こういった休憩所のようなところが出現します。屋根があるので体と神経、両方が休める場所です。
 キリル文字・・・・・無理だ~ やばいかも・・・・Kazakhstan 003.JPGKazakhstan 012.JPG
この日(初日)は220km走ればホテルに泊まれます。がそこに辿り着かなければ無装備の野宿を覚悟しなければならない日でした。ホエの飲み過ぎで下痢をした後、何とか夕方までに170kmほどを走破したものの雨が降り出しました。気温が高いのでそれほど気になりませんが、体力がギリギリです。途中、10か所ほど未舗装の区間を走らされたりして、結構、時間もかかってしまいました。
 忽然と現れた廃業して久しい食堂っぽい建物に雨宿り。2、3の商店が繋がった建物ですがすべてが廃業して荒れ放題の廃屋。空のペットボトルがゆうに100本は散乱し、誰かがしたクソの痕跡もあちこちに・・・気力が萎えていたこともあり、今日はここで野宿しようかなという気持ちが頭をもたげます・・・しかし、30分ほどして雨が上がったので気力を振り絞り再出発。が10kmほど走ったところで登り坂出現。その日初めての坂です。「6%の登り、8km」の表示。またしても気力が萎えます。ちょうどそこにまたしても廃屋出現。今度は少し立派な廃屋。しばし休憩。今日はもうここでいいかも・・・・とまた弱気になった。
 何とか登り切った峠の先には何故かトレーラーが数珠繋ぎになって止まっていた。さっき私を追い抜いて行ったトレーラーである。追いついてみると止まってはいなかった。時速10~20km/hほどで下りを下っていたのである。スピ-ドがついてしまうと止められないので低速で下っているのである。トレーラーを10台ほど追い抜きながら60km/hで30分ほど豪快に下る。路面の石ころ、穴に神経を集中しながら下るが疲れもあるので恐怖との戦いである。
 また降り出した雨にあたったが何とか、今日の目的地だったキルギスとの国境の町「コルダイ」に到着。家具屋の若い女性従業員に「この近くにホテルはありませんか?」と聞くと、何とか通じたらしく、「ついてこい」といわれ、徒歩1分で無事に宿を確保。見せてもらって部屋は不必要に広く、8000テンゲというので7000テンゲに(¥2100)まけさせた。
 既に8:00pmをまわっていましたが、街に出ます。ほとんどの商店が閉まっている。かろうじて灯りのともっている店に行くと店じまいの真っ最中だった。ジェスチャーで「飯をくれ」というとテイクアウトなら良いという返事。↓ 写真のような晩飯と相なった。(¥450) 牛肉とパブリカと玉葱の炒め物をご飯の上に乗せたもの。ボインのお姉ちゃんのカザフの缶ビールは¥100でした。しっかり味のある、まあまあのビールでした。
 という訳で、虎の穴トレ、一日目無事終了。
 きつかったなぁ ガムバりました!
  初日 走行距離 222km!
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旅二日目、6:30am日の出とともに走り出す。街の車が動き出す前に街を脱出しなければならない。
 走り出して30分もしたら、キルギスの国境が現れた。まずはカザフを出国、無国籍地帯を100mほど走ってキルギス入国。朝7:00amなので8:30amぐらいまで待たせられるのを覚悟していたが、何と国境は絶賛営業中!
 「おいおい、日本人が自転車でやってきたぞ!」と入国官が叫んでいる。難なく入国。とはいっても、その日のうちに150kmほど走って、西の端から出国する予定なので、滞在は1日だけです。両替店で20米ドルをソムに両替。カザフのテンゲにもまだ慣れていないのに・・・
 整備が全く追いついていない舗装道路を首都、ビシュケクに向かって走るが、朝のラッシュにぶつかってしまった。隙間を見つけては割り込んで走る車が多く、至る所で妙な渋滞が起きている。皆、車線を無視して走っているためその道がいったい何車線なのか皆目わからない。黒煙を上げて猛スピードでバスが行き交う。排ガス規制はないのか、この国には!車に轢かれないように用心して走る。何しろ自転車という乗り物が道を走っているという状況が普通ではないので、邪魔でしようがないらしく、ずう~とクラクションを鳴らされ続けました。
 必死で走った後、いきなり広大な公園地帯に辿り着きました。どうやら首都の心臓部のようです。さっきまでの殺人的なラッシュアワーが嘘のようなのどかさです。都会の中のオアシスとでもいうのでしょうか。そうです、そこはまさに紛れもないオアシスなのです。天山山脈と並行して走るため、山から流れ出した水が辿り着くところにに緑が茂り、旅人の目印となり、オアシスとなりました。
 実はワタクシのこの旅、多分何千年も前から人々がラクダに乗り、命がけで旅したシルクロードを走っているのです。
 NHKで放送したシルクロードの番組に夢中だった私は45年の歳月を経て、ついに憧れのシルクロードを旅する機会を得たのです。玄奘三蔵が旅したその道を走っているという喜びでいっぱいの筈でしたが、現実は車の影におびえながらの日々でした。
 焼きたてのパンを売っている店を見つけ、そこでパンを買って道端のベンチに座って朝食にしようと思いましたがどうやらその奥で朝にもかかわらず店が営業しているようです。という訳で朝からレストランで食事することにしました。「何かキルギスの朝食を」と英語でいうと、店の娘さんらしき人が何とか理解してくれて、シュウマイぐらいの大きさの茹で上げた肉まん?が10個の朝食が運ばれてきました。不味くはないですが、それほどおいしいわけでもありません。不味いコーヒーを飲んで、375ソム=¥680 うわー朝から贅沢だぜ!外の焼きたてパン屋で昼食用のパンを3個買って、175ソム=¥300。
 キルギスの物価もカザフ同様、日本とそれほど変わりません。そのパン屋、大繁盛してましたから、皆それ相当の収入があると思われます。日本が給与も上がらず、物価も上がらない30年を過ごしている間にソ連から独立するという大事業を成し遂げ、紆余曲折を経たにもかかわらず、生活レベルは日本と同等です。
 レストランの窓から見える朝の出勤風景は非常にのんびりしています。衣食住、すべてに満ち足りている様子が感じられます。
 それにしても公園の緑が深い。首都のど真ん中にこんなに広大な公園があり(点在してます)、朝から人々の歩みがのんびりなのは優雅にさえ見えます。
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キルギス人と日本人は先祖が一緒などといわれることがあります。肉好きがキルギス人になり、魚好きが日本人になったと。
 それほど顔が似ています。私はメガネをかけているので間違われることはないですが、日本の町で見かける友人や友人の妻によく似た人によく出会います。あっ、この顔は○○さん!と言い当てることができます。
 とはいっても「スタン」と名のつく中央アジアは人種のるつぼです。ソ連下の名残で完全な金髪ロシア人も多く、お隣中国のウイグル族の顔も見えますし、イスラム教徒の方もいます。という訳で皆、宗教が異なります。仏教伝来とされるシルクロードを通って西進すると徐々にイスラム臭が強くなります。しかし都会では思い切ったファッションを目にすることもしばしば。いわゆる若い女性のへそだしファッションです。そうかと思うと、上から下まで真っ黒のヘジャブを着た女性もいるわけです。しかし、ヘジャブを着た女性たちの足元からチラッとのぞく靴は意外とNIKEやNEW BLANCE ASICSだったりしますから、やはり彼女たちもどこかで必ずおしゃれに気を使っているようです。いつまでもお互いの文化や伝統を認め合う人達であってほしいと願います。
 あれれっ、午後には何とキルギス出国!
 スミマセン、金もそれほど使わないで・・・
 というわけで、再び、カザフスタン入国。国境の出入りは全く問題ありません。日本で苦労して手に入れた英語のワクチン三回接種証明書を見せろといわれることなど全くなく。入国理由を聞かれることもありません。まあ自転車で入国してますからねえ~
 夕刻、その日の目的地、「メルケ」着。メインストリート約1kmの街です。
 キリル文字に交じって「HOTEL」の文字を発見! ちょっと豪華な感じのする、私には贅沢すぎる建物で気が引けますが、まあ入ってみます。が、おばちゃん、全く英語がダメです。とはいってもホテルに来る人は泊まりたいだけですので、部屋を見せられて値段を聞いて交渉成立ですが、そのおばちゃん非常に感じ悪いです。俺の自転車が汚いからか、俺が汚いからか知らんけど、金を払って泊まるのに、なんでそんなにつれないの・・・しかしこんな態度をされても、明日の朝、別れる時はこのおばちゃんを笑顔にさせてやるぞと心の中で誓うのでした。
 このホテル、部屋の鍵が入らないし抜けないしで少々困りましたが、部屋自体は非常に綺麗で、一泊¥1200 なり!!!
 しかしこのホテルも階段の最後の一段が寸足らずです。何故かスタンのホテルには多いです。
 オイ、おまえ、人生一歩先は闇だぜ!と警鐘を鳴らしているのでしょうか?私が階段造ったとしてもそうはならないんですがねえ~
 すぐ隣のレストランへ行き早速、ビールを注文・・・・と思いきやメニューにビールはありません! いよいよ、イスラム圏突入のサインです。しかし、臆することなく歯並び矯正中の若いウェイトレスに「ビールがあるレストランはありますか?」とジェスチャー交じりで尋ねると、この先に「セントラル」という店があるとの事、勇躍出かけます。という感じで、異教徒にも何ら妙な態度をとるわけでもなくごく自然なお付き合いがなされているようです。
 セントラルでビール2杯とスタン地域ではどこでも食べられる庶民的なうどん、ラグマン(下の写真は拝借しました)と断ったはずの大盛りサラダを何とか平らげ、¥1500なり。33円のアイスクリームを道すがら食べ、帰路へ着いたのでした。
 旅二日目、走行距離 144km (未舗装路結構走りました)
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旅、三日目。
  今日も6:30am、日の出とともに出発する。
  嫌みなおばちゃんがフロントの長椅子に寝ている。
  「いい夜をありがとう!」と満面の笑みでいうと、昨日、お釣りがないから明日払うよといっていた、1000テンゲを払ってくれた。(半ばあきらめていたが)
  「ハブア ナイス デイ!」というと「ハイハイ、ありがとよ!」と「まだ私は寝たいのに、元気な野郎だなあ」といった半分呆れ顔の笑顔で「バイバイ!」といってくれた。
 気分のよい一日の始まりである。
 多分今日の道も曲がることも登ることも下ることもないだろう。昨日から気温が上昇気味で今日も困難が予想される。多分40℃近くなるだろう。
 自転車に装備されている水筒が600mℓ、背中のリュックに1ℓのペットボトルが入っているが、50km町がないとその水では全く足りない。汗をかくことが全くなく、小便すらあまり出ない。徐々に体が干からびていく感覚である。時々、道路の下を流れる川の濁り水を汲もうかと思ったりします。
 長距離ドライバーの為の休憩所が現れ、トレーラーがつくる日陰に身を沈め、しばし体を休める。そういった人工物がつくる日陰以外に日陰はありません!
 すぐ1m横を120km/hで飛ばす車におびえながらのサイクリングは神経も疲弊していきます。
 我慢しきれず、思い切って水をがぶ飲みすると、残りはもう600mℓ しかありません・・・ 
 そこに現れた郵便局のトラック。長距離運転なのでしょう、運転手は両サイドのドアを開け、寝はじめました。意を決して、ドアをノックして、水筒を差し出し、「水をくれ!」のジェスチャーをすると、「何だそんなことか、その水を好きなだけ汲め!」と笑顔で薄汚れたポリタンクを指差し、また寝はじめました。これで、あと50kmは生存が保障されました、大丈夫です。
  50kmほど走り、現れたバス停の日陰で休んでいると、対向車線のバス停にいた若者が訪ねてきました。オートバイの友人も一緒です。スマホを駆使して私に話しかけますがなかなかうまくいきません。カザフ、どこに行っても皆スマホを持っています。老若男女、放牧民も皆持っています。広大な大平原に背の高いアンテナ一本立てれば、障害物もないので、どこにいてもスマホが活躍できるのでしょう。多分、国としても紙媒体を世界第9位(人口密度は世界最低)の広大な国土に配布するよりは、スマホを安価で与えたほうが安上がりですから、積極的にスマホの普及に努めたに違いありません。
 ・・・が私は持っていません。
 若者の一人が私の自転車に乗りたいといいだしました、が、オートバイ乗りの彼が、タイヤ幅21mmしかない自転車を扱えるとは思えず、「転ぶからダメだ」と丁重に断った。転ばれて故障でもされては、旅どころかトライアスロンのレースにも影響しかねない。
 4:30pm。目的地「タラズ」に到着。
 結構大きな町で車の通行も激しく、気を使いますが、たむろする若者が教えてくれたホテルが大層、上等でビックリ!
 が、ここの階段も何故だか一段目が寸足らず!いったいどうなってるんですかなあ、カザフの階段・・・・
 シャワーを浴びて、夕餉に出ます。
 何やら庭園を模したような巨大な屋外レストランです。立派な木々が夕刻の日差しを遮って、心地良い風も吹いています。屋根のついた6角形の東屋風なテーブル席が数十席。それも隣の席が見えないように余裕を持って配置されています。小川が流れ、滝まで配しています。何と贅沢な作りでしょう。日本でこれほどの店を造るとすると・・・などとと考えながらビールを二杯飲んで、サラダと ↓ の彼女のお薦めディッシュを食べて、いったいいくら取られるのかびくびくしていたら4000テンゲ=¥1200ですた~ あれぇ~ 安~っ
 焼きたてパンを売る店を見つけて、明日の昼食用に3個購入。450テンゲ=¥140 はれ~っ これも安いぞ~ ついでにスパーマーケットに寄ってアイスクリーム購入! 400テンゲ=¥120これは高いぞ~ パン3個とアイスクリームがほぼ同金額です。パンは必需品、アイスクリームは贅沢品?という感じかな。
 今日もガムバりました! 40℃の炎天下 165km。
 相当体重が減っている感覚があります。多分 58kgぐらいです。
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旅、4日目。
  今日190km走ればカザフ第三の都市、シムケントに着く。という訳で、今回の自転車旅は今日で終了という事にする予定だ。
暑さで体調を崩しかねない旅になっていて、トライアスロンに向けたトレーニングどころではなくなってきている。
 早朝6;00pmホテルを出発。暑くならないうちに距離を稼ぐ作戦だ。そうすれば水の心配も少なくて済む。
 その日も町らしい町はなく、早くも午前中に水の心配をする羽目になってしまいました。
おまけに道に登り下りが現れ出しました。県境といいますか州境と思わしき登りを終え、さあ下りだ、
と思ったところに予想外の巨大なホテルが出現!が、、、しかし、またしても廃業したホテルのようだ。
カザフ、何しろ廃業したまま打ち捨てられた建物が多いことに驚きます。
 ところが店頭で何やら焼いています。昼時だったので、何だかわからないけどそれを喰って休憩することにする。
 「何か食い物を!」とジェスチャーで伝えると、ひとつか?ふたつか?と聞くので「ふたつ!」と答える。
 「まあ、中で休め」という仕草。予想外の旅人が自転車に乗ってやってきたので喜んでいるようだ。中に入ってビックリ仰天!
物凄いホテルです。広いエントランスの先には中央から2本の螺旋階段が左右へ二階に延び、
右手には見えなくなるまで広い廊下が続いています。いったいこの建物をこの父親と息子が所有しているのでしょうか?
 外側の皮が固く、中の具は馬肉と野菜の炒め物が入った日本のコンビニで見かける肉まんに似た外見のサモサという
釜戸で直火焼きしたものを食べながら会話にならない会話をする。
  いきなり、父親が私にむかって「○○○!!!」と連呼するので聞き入るとなんと「シンゾウ アベ!」と叫んでいるのでした。
銃で撃つ真似をして、「日本の元総理大臣が銃で殺されたんだぞ」と息子に教えているのでした。こんなカザフの山奥ならぬ、
大平原奥地にあってもテレビを見て知っているのでした。水をもらってその場で1 ℓ を飲みほし、
ペットボトルにもう一杯もらってひと安心。椅子の座ったまま30分ほど眠ってしまいました。
 親子とサモサを焼く使用人の三人で写真をとってお別れしました。「シムケントまでは90kmほどだぞ」といわれ俄然、戦意喪失。
その日は一日中向かい風なのでした。
 大都会、シムケントには入るのに苦労しました。三日間見たことのない坂道が出現しました。道は間違うし、交通渋滞は凄いしで、
集中力も途切れ気味ですが、カザフのスピード狂ドライバーの車に当たって事故っては命にかかわります。慎重に走ります。
 8:00pm、何とかシムケントの中心地に辿り着き、若者が連れてきてくれたホテルに無事チェックインできました。
一泊12000テンゲ=¥3600。いい部屋です。やれやれ・・とりあえず、自転車旅は終わりです。
 シャワーを浴びて夕餉に出ます。これが楽しくて昼間の虎の穴トレ、頑張れているのです。外にテーブルを出して多くの客でにぎわう
トルコ?料理の店に入って?もしやここにもビールはないのでは・・・と思い、
聞いてみると案の定「イスラムの規律で」という返事でした。「どこかビールの飲める店はないですか?」と聞くと、
「ついてこい!」といって、100mほど歩いて「ここなら飲めるよ!バ~イ」と言って行ってしまいました。
ここでも、異教徒異文化に理解のある人達がいます。
 ビール一杯とのラグマン(馬肉うどん)と食べて、2000テンゲ=¥600。安~  というわけで、もう一軒。
メキシコ料理のブリトー風(肉は勿論、馬です)なものに巨大なペプシがついて1100テンゲ=¥330 これも安~い。
 明日からは自転車を乗り捨てて、汽車やバスでシルクロードで花開いた文化でつとに有名なウズベキスタンの
「サマルカンド」に向かいます。途中、ウズべキの首都、タシケントを自転車で通るのが嫌で交通手段を変えました。
あまりに巨大な都市らしいのです。
 まあ、自転車を乗り捨てても、苦労の連続でした、トホホ・・
 今日の走行 187km 4日間の合計 718km+ 50kmほど
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カザフのシムケントで滞在したホテルのフロント係は皆、
英語が話せません。ですのでジェスチャーが活躍します。
時には絵を書いて。この時ほど自分に絵心がないことを
悔やんだことはありません。
 駅に行きたいと伝える時は、皆さん、どうしますか?
 私は両手で小さい円を描いて車輪が回る様子を伝えながら口で
「シュツ、シュツ」と言う訳ですが、それは、正に蒸気機関車の図です。
若者にそんな様子を伝えたところで、蒸気機関車など知る由もありません。
そんな訳で、ジャスチャ―でも意志を伝えることは難しいのでした。
 それでも何とか、絵とジェスチャーで「二日後には戻ってくるから
この自転車を預かってくれ」と伝え、了承を得たのでした。
(3000テンゲ=¥900)握らせましたが・・・
 翌朝、行動開始です。まずはウズベキスタンの首都、
タシケントに向かいます。その300km先にある、
サマルカンドが目的地です。チムール、ムガール王朝時のモスクの
遺跡がたくさん残っている古都です。
 前夜、食事をしたところで生ごみの収集をしていた若者に、
ウズベキスタンの国境行きのバスの乗り場を訪ねましたが、
どうやら遠そうです。それでも、方向だけは確り教えてもらいました。
5kmぐらいは歩くつもりでした。歩き出すと先ほど道を教えてくれた彼が
クラクションを鳴らし「乗れ!」との仕草。そのまま長距離バスの出るバス停
まで乗せてくれ、国境行きのバスを探し出して、
「この日本人を国境まで乗せてやってくれよ!」と運転手に告げ、
去っていきました。
 
 ポンコツの大きなバンは12人乗りです。全席埋まるまで出発しません。
とはいってもすぐ埋まりました。6歳ぐらいの少女が母親と一緒に乗りました。
若い女性が最後に一人。
料金は前払いでひとり1000テンゲ=¥300です。(安い~)
 120km/hで飛ばします。
 途中なんにもないところで、少女連れの母親が「!!!」と叫び、急停車。
車を降りて大平原の砂利の一本道を親子が手を繋いで歩いていきました。
その10分後、若い女性がまたしても何か叫ぶと急停車。
人工物の気配すらない大平原の砂利道を着飾った女性がしっかりとした
足取りで歩いていきます。その道を行った先に彼女たちの生活があるとは
到底思えない場所でした。放牧民なのではないかと察します。
 ちょうど1時間で国境到着。皆降ります。
 歩いて国境を越え、無事、ウズベキスタンに入国です。
 ここでも、苦労をして地元の市役所で手に入れた英語のワクチン接種証明書の
提示を求められることはありませんでした。せっかくコピーまで取り、
用意していたのに・・・
 コロナ、コロナと声高に叫んでいるのはどうも日本だけの
ような気がするんですが・・・
ウズベキスタンに入国するとすぐに札束を鷲掴みにしたおばちゃん達が
群がって襲ってきた。両替師達である。何故かおばちゃんが多い。
 米ドルをウズべキのスムに両替すると一気に札の量が10倍ぐらいに増えて、
金持ちになったような気がします。が、それは気のせいです。
そこを抜けると今度は白タクの運ちゃん達が群がってきます。
 カザフもそうでしたが白タクという存在は日本におけるそれとは意味が違い、
それは国の交通に欠くことのできない絶対必需品とでもいうような存在です。
白タク以外のタクシーの存在がほぼないからです。白タクこそがタクシーなのです。
値段交渉など、旅行者には煩わしいことが多いですが、
これ抜きの移動は考えれません。バス網も発達していますが、キリル文字、ロシア語、
料金確認等々、旅行者にはハードルが高すぎます。
 白タクのひとりに「タシケント駅まで」と伝えると20米ドルというので、
米ドルの手持ちを残しておきたいので「スムでは?」というと「200000スム」
だということでした。高いのか安いのかよくわかりません。
 車中から見るウズベキスタンの首都、タシケントの広大さといったら!
あぁ、自転車で来なくよかったと思ったのでした。渋滞は激しいし、暑いし、
何度事故に遭うかわかったものではありません。命がいくつあっても足りません。
しかし、街を歩く人々はカザフやキルギスの人達同様に優美にさえ見えます。
オシャレに気と金を使う余裕があることが見て取れます。まあ首都という事も
あるのでしょうが。
 さて、白タクで小一時間走り、駅に到着しました。順調ですねえ。
 運転手に200000スム払うと、「!!!!」何やら、激昂しています。
私はちょっと困りました。札束を私に突き返して「!!!」と連呼し、
なお、激昂しています。やっと判明しました。20000スムしか払っていないのでした。
ゼロの数が多すぎると、ヤヤッコシイ事になります。ここ2日で3カ国移動し、
そのたびに紙幣が変わりますから、もう何が何やらわからなくなります。
 駅の窓口に並び、300km先にある「サマルカンド」までのチケットを買い求めます。
が、その列がなかなか進みません。割り込みが激しいのです。女性ばかりです。
女性には優しくする習慣なのか知りませんが、右から左から次々に女性ばかりが
割り込んできます。それも、列の途中に割り込むのではなく、
いきなり窓口の横に並ぶのです。ですから窓口ひとつにいつも3~4人が立っています。
そんな状態でも文句を言う人はいません。そういう社会のようです。全く困ったものです。
 30分ほど並び、必死の思いで辿り着いた窓口では「サマルカンドへの汽車は南駅へ行け」
といわれました。どうやら駅が2つあるという事らしいのです。
「どうやって行けばいいのだ?」と聞くと「タクシーで20分ぐらいだ」ということでした。
さすがに窓口の女性は英語が上手でした。またタクシーです~
 スタンの国々では、「TAXI」という表示のタクシーはほとんど走っていません。
ですから、一般車両なのか白タクなのかの判別は不可能です。
手を少し下へ向けて意思表示をすると、タクシーが目ざとく私を見つけるらしいのです。
あ~、メンドクサイ!
 駅周辺の交通整備をしている男にタクシー料金の相場確認の為、
「南駅へはタクシーで料金はどのくらいだ?」と(やっと)聞くと
「南駅?そんな駅は聞いたことがない!駅はこれしかない」と断言します。
その辺にたむろする友人にも聞いて回ります。「駅はこれだよ!これ以外に駅などない!」と、
たった今私が出てきた駅舎を自信満々で指さします。あっ、
この会話はロシア語でなされています。多分、こんな会話だったはずです。
 あ~、長くなったので一旦、終了~
スム紙幣 001.JPG
そもそも車社会である、○○○スタンの人々は汽車にあまり乗らないのでしょう。
駅の場所を聞いても「?」という人がたくさんいます。そしてどこの駅も街から遠く、
10km以上離れていることもざらにあります。
 駅周辺を警備している人達が皆「駅はここだ、ここしかない!」
と言い張るのを聞いて、私はまた駅に舞い戻り、再確認です。やれやれ・・・
こういったことの連続です。
 駅舎のど真ん中にある、総合案内のようなところは、
列をなしている切符売り場と違い、暇そうでした。
英語など無理そうな老人がただただ時間を持て余していました。
 「ここから、南駅へ行くにはどうすればいいですか?」と諦め半分で聞くと、
その老人「そこのバス停から40番のバスに乗れ」と流暢な英語で言い切りました。
人を見かけや年齢で判断してはいけません、学びました(今更ですが)。
 早速、いわれたバス停に行き、時刻表らしきものを見ているとなるほど40番の
バスが来るらしい、らしい・・・しかしどのぐらいの間隔でやってくるのかは
皆目わかりません。挙動不審な私を見て、若い女性が英語で「大丈夫ですか?」
と聞くので、「40番のバスで南駅へ行きたいんですが」というと、
「今来るあの63番のバスでもいけますから、あれに乗ればいいですよ」
といってくれました。その女性、バスが停まると、運転手に
「この男性を南駅で降ろしてあげて!」とでもいってくれたようでした。
彼女が女神に見えましたよ本当に。
 バスに乗り込み、空いてる席に座り、やっと人心地。
もう日本では見られなくなった、切符売りの老人がやってきました。
周囲の人が払うのを見ていた私はきっちり1400スム(¥20 安い!)
払いました。バスに乗っている人達はほとんどが老人です。
あの凄まじいスピード狂達が跋扈する道での運転などかなわない人達の
乗り物のようです。ですから、料金も安く設定されているのでしょう。
 老人がたくさん乗ってきたので私は席を譲ろうと立ちましたが、
切符売りのおじいちゃんが、お前はそこへ座ってろ、南駅が来たら教えるから、
といったようでした(多分)。
 何と、小一時間も乗りました。私が降りる段になったら、周囲から
「おい、お前の降りるところだよ!」という声が次々にします。
皆、気にかけてくれたようです。切符売りのおじいちゃんにも礼を
いって降りました。やっと、南駅に着きました。
言葉と文字が分からないと万事こういう事になります。へろへろです。
体力も使います。おまけに外は40℃です~
 南駅ではまたしても女性の割り込みとの戦いです。それでも時々、
窓口の人が、きちんと並んでくださいね、といっているようでしたが
その効果はコロナワクチンのそれよりも低いようでした?
 体を張ってやって手に入れた憧れの地「サマルカンド」行きの汽車は
19:35に出て、0:00am 過ぎに着くらしいです。まあしょうがありません。
夜汽車ですがが、寝てらいれない夜汽車のようです。
 はい、乗車まで6時間暇です。絵葉書を探しに外へ出ました。
 私は旅に出ると友人に絵葉書を出すことを常としています。
受け取る側も楽しみにしていると一人勝手に思い込んでいます。
しかしこの旅に出て、絵葉書が買えません。
習慣のない方はわからないでしょうが、どうやら世界中から絵葉書が
消えているような気がしてなりません(ほぼ確信ですが)。
スマホの普及によって私は今ここですよ~という写メを送ることが
絵葉書の代替となっているのでしょう(ほぼ確信ですが)。
私の汚い文字が海を渡って日本に辿り着く(時々、着かないが)
であろう様を思いながら、なぐり書く絵葉書はいいもんなんですがねえ~
 というわけで、今回、絵葉書の姿をみることはありませんでした。
(実は帰路ヨルダンのアンマン空港で一度だけ見ました)
 長い~、休憩、続きます。
夜汽車 2 005.JPG夜行列車チケット 005.JPG
 旧ソ連邦、○○スタンの国々では駅で切符を買う際にも何故か
パスポートの提示を求められます。国内旅行であってもです。
昨日私が添付した写真にも私のパスポート番号がしっかり
記されています。人々は何の疑問も抱かず提出しているように
見えましたが、国民の行動を監視していたソ連時代のシステムが
そのまま残った結果ではないかと私は思っています。
継承したほうが国家として便利だったのではないでしょうか。
国民の移動がチェックできますから。私にはちょっと不愉快でした。 
 サマルカンド行きの寝台列車は2段ベットです。
発車してすぐに上段の男が降りてきて、向かい合った2段ベットの
隙間に無理やり絨毯を敷いてお祈りを始めました。
下段にいた私の眼前です。目のやり場に困ります。
凝視するのも失礼なような気がします。
5分ほど続いたお祈りは突然終わり、上段に戻っていきました。
イスラム臭が相当濃くなってきましたよ~
 汽車は0:00am過ぎ着ですから、熟睡して乗り過ごすわけにはいかず、
1時間毎に目が覚めます。いきなり何者かが足を叩き、
「サマルカンド○○○・・・」と言ってきました。
車掌は私がサマルカンドで降りる客だと知って起こしに
来てくれたようです。分かっていれば初めから思いっきり
寝たのになぁと少々残念な思いでした。
 0:00am、チムール、アムール帝国時代、イスラム文化が花開いた都、
サマルカンドに到着しました。が、それから街に出てホテルを探すのは
ちょっと治安的に不安な思いがあった為、そのまま、
駅舎で寝ることにしました。一度、警察が来て、パスポートを見せろ!
といいます。ほー、日本人か、といってどっかへ行ってしまいました。
  勿論、熟睡は出来ていませんが、日の出とともに、
朝6:00am行動を開始します。
 駅舎を出ると、ひえ~、6:00amだというのに白タク攻勢です。
全く仕事熱心な男たちです。
 こうして白タクに何度も乗りましたが、そこにも一定のルールが
あることが分かりはじめました。パッと見、
十数人の運転手がいるわけですが、どうやら、客に真っ先に声をかける
運転手がそこをまとめているリーダーのようです。
厳格な序列がそこにあるようです。ところが私に真っ先に声を
かけてきたその男は英語がまったくダメな男でした。
すると英語が分かる男が出てきて、彼は30米ドルでこの街の遺跡を
すべて案内してくれる良心的な男だと、客を奪うことなく、
単純に通訳を果たしただけなのでした。・・・という具合なのです。
 いよいよ、サマルカンドのモスクを巡ります。
とはいっても朝6:30です。モスクはまだ観光客に開放していません。   
 ところが我がツアーガイドは、行く先々で
「まだ、開いてないないだろうけど見せてくれるか?」
と妙な明るさで次々と門を開けさせるのでした。でもしっかり、
入場料は取られました!その入場料がけっこうな値段です。
京都の神社仏閣を巡る時のようです。たちまち、
ウズベキスタン ソムが減っていきます。世界遺産のレギスタン広場に
代表されるイスラム建築、特に青いタイルの建造物にはただただ口を
開けてビックリするだけです。建物がデカいのにもビックリ。
改築真っ最中という建物もあり、それはそれで見ものでした。
朝早いのでどの建物にも人はいませんが、何も知らず建物の上方を
眺めながら歩いていると、真剣に祈っている人がいたりして
ビックリさせられたりします。
 2016年に亡くなった、サマルカンド出身のウズベク初代大統領
カリモフさんは今現在、誰もが触れることができるような状態にある
大理石の石棺に入って眠っています。世界最悪の独裁者とまで
いわれたことのある人ではありましたが、そこでは誰もが真剣に祈り、
涙している人もいました。故郷では愛されていたようです。
 我がツアーガイドは次々とサマルカンドの名所、
旧跡を回ってくれます。自力であれだけの広範囲をしかも短時間で
回ることはどう考えても困難です。サマルカンドには結構坂もありますし。
 白タク、白タク、と毛嫌いしますが、使い方次第では便利ですねえ~白タク!
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丸一日かけて観光しようと思っていた古都、サマルカンドでしたが、白タク、アーバップのおかげで10:00amにはほとんどの名所は見終えてしまいました。何しろ早朝から観光してますから、私の嫌いな割り込みも順番待ちも行列もないわけで、物事がさっさと進みます。サマルカンドに一泊しようかと思っていましたが、どうやらその必要もなさそうです。本来の第一目的である、トライアスロン・レースに向けて体調を整えるべく、カザフスタンのアルマトイへ戻ったほうがよさそうです。
  手持ちの円をウズべキのソムへ両替するため銀行へ寄ってくれと予め、アーバップに告げていましたから、駅へ戻る途中、銀行へ寄ってもらいましたが、土曜の為、どこの銀行もやっていません。米ドルも手持ちは17ドルしかなく、約束していた30米ドルには足りません。駅に戻ってアーバップの仲間と頭を突き合わせて困り果てました。結果、手持ちの1万円札を手渡し、30米ドルがだいたい¥5000であることから、¥5000相当分のお釣りをソムでもらって解決としました。世界遺産の街、サマルカンドでさえもクレジットカードの流通率は意外と低く、現金の大切さが身に沁みます。
 白タク仲間から「じゃあなぁ、いい旅をなぁ」といわれながら(多分)別れ、駅舎に入り、首都、タシケント行きの切符を買い求めます。が、ここでまたしても、ウズべキ女性の割り込みに悩まされます。全く、どうなっているんでしょうこの国は・・・
 何とか辿り着いた窓口で仁王立ちになって、女性が入り込まないないように荷物や足で左右の防御を固めます。この国で優しい紳士を気取っていてはいつになっても順番は巡って来ません。
 タシケント行きの汽車は一日5便あると聞いていました。その日のうちに着けばさえいいので気楽なものです。
 窓口の男性に「タシケント行き、一枚、どの汽車でもいいです」と伝えます。しばらくコンピュターを打っていた男性は、
「今日の便は、すべて満席です」と、驚きの答えが返ってきました。「一日5便あると聞いてますが、全てが満席なのですか?」と聞くと、もう一度初めから調べ直してくれました。が、答えは同じでした。「いつの便なら、乗れますか?」と聞いてみました。「明後日なら乗れます」ひえ~。明日の5便も満席だというのです。にわかには信じられませんから、私は、二つ隣の窓口に並び直し、またしてもウズベキ女性との決闘に挑んだのでした。いらいらして精神状態を正常に保つのも大変です。しかし窓口の女性の答えも同じでした。2日間、合計10便の汽車に空きが一席もないというのです。余裕を見ても明日中には首都に戻っていたいので、善後策を考えます。幸運にも今は自転車ではないので、飛行機という手もあります。国内線は安いですから。
 駅舎を出ると白タク連中がまたしても寄ってきます。「何だ、ヤポンか、切符は買えたか?」(多分)と聞いてきます。「明日まで全ての便、満席だそうだ、困った」というと、英語が堪能なアーバップの子分が「待ってろ、アーバップがそろそろ帰ってくるから」といいます。どうやら、十数人いる白タク仲間の間ではタシケントまでタクシーで行くというのがもう既成事実になっているかのような会話でした。「飛行機は安いだろう」と聞くと、「そうでもない」という返事でした。300kmタクシーで走るなんて・・・いったいいくらするんだろう?
 アーバップがなかなか帰ってこないので痺れを切らしている私を見ると、英語の堪能な彼が「それだったら、俺の車に乗っていくかい?」というので「いくらだい?」と恐る恐る聞くと、「70ドルだ」、というので、反射的に「60でどうだ」というと「OK !」と相成った。
 おっと、そこで思い出した。私は、17米ドルしか持ち合わせがないのでした。ソムすらほとんど持っていません。午前中にアーバップに30ドルを¥5000として払ったので、60ドルはまあ¥10000というところです。(ひょっとして、これは安いかもしれない)と私は思いました。300kmタクシーで移動して¥10000は。
 「レッツ ゴー!」と私がいい、私は思いもよらぬ300kmのタクシー旅に出ることになったのでした。しかし物事はそう簡単に進みません。
 アーバップが帰ってきたのです、よりによって最悪のタイミングで。
 「おいおい、俺の客を乗せてどこへ行くんだい!」と、叫んでいます。(多分)
 「いやいや、違うんだよアーバップ、君の帰りを待っていたんだが、なかなか来ないので、しょうがなく、俺が乗せることにしたんだよ」と、いう会話が(多分)されていたようです。客の奪い合いでケンカにでもならなきゃいいけどなあ・・・と、ちょっと心配になります。
 渋滞が激しい中、二人は車から降りて道の真ん中で何やら話しています。いや~、こりゃ、ヤバい状況かもなぁ~ そこをどけよ!と周囲にクラクションが鳴り響きます。
 英語の堪能な彼がよりによって私に向かって叫びます。
 「おい、どっちの車に乗る?」
 そりゃないよ~、俺はどっちだっていいんだよ~ といいたいのですが、俺にはわからない?といったようなポーズをとりました。
 「OK、アーバップは俺のいい兄貴分だから、ここはアーバップに譲るよ」と英語の堪能な彼が譲歩してくれました。(多分)
 という訳で、最悪の事態は回避され、サマルカンドにはいつもの平和な日常が訪れたのでした。どちらかというとアーバップの車より英語の堪能な彼の車の方が新しくてよかったのですが・・
 新たに大仕事を手に入れたアーバップは、
「よし、ガソリンを満タンにして、タシケントへ、GOだ! ガハハッ!!」
 と、上機嫌です。
 下の写真は、オアシスの街を潤す、天山山脈からの流れ。
 シルクロードのオアシスには必ずこういった水路があります。
 これはカザフのアルマトイの水路です。
Kazakhstan 036.JPG
 アーバップの運転で300kmを昼食休憩込み4時間でウズベキの首都、タシケントに到着。長距離バスターミナルまで行き、カザフのシムケント行きのチケットの手配までしてくれた。タシケントで一泊して街を見てみたい気もしたが、言葉も文字もわからないんじゃ、バスや汽車にも乗れやしない。おまけに歩いてみて回るにはデカすぎる。というわけで、そのまま、カザフに向かう事にする。
 カザフのシムケント行きのバスは2階建ての大型バスである。が、客は私を含めて5人しかいない。2階席の最前列に陣取る。最高の眺望だ。こちらも約300kmの旅、料金は103000ソム!ゲゲゲ!!!=¥1200。安いなあ~
 ウズベキ ⇒ カザフの国境警備が厳しい。
  後部座席のシートまで外させ、懐中電灯で隅々までチェックしている。車を所定の位置で止まらせ、その下に掘られた深さ180cmほどの穴に係官が入り、車の腹を見上げ、隠された何物かを探そうと必死である。警察犬も大活躍。そんな訳だから、大渋滞している。が我々の長距離バスはほぼノーチェック。同乗していた、ウズべク人の老人がお前は何歳だ?と聞いてきたので(多分)パスポートを見せ、1962年を示す。すると老人も自分のパスポートを示し、1954年のところを指差す。が、サインを書くべきところに何も記されていないので、サインがないぞ!という趣旨のボディーランゲージをすると「そんなもん、いるかい!」といいながら(多分)、親指に唾をつけてパスポートに拇印を押すふりをする。これでいいのだ!ガハハ!!!バカボンのパパみたいだ。その様子を見ていたやはり同乗者の少女が言葉も交わさずに爆笑する我々二人を見て、怪訝な表情を隠そうともしない。
 突然、「シムケント!」と階下から声がした。単純なバス停のようなところで降ろされた。シムケント行きのバスに乗ったつもりだったがどうやらバスはもっと遠くまで行くらしい。
 バスは交通渋滞を避け、次の目的地へ向かうであろうから、そこのバス停はシムケントの街の入り口と思われる。私が自転車を預け、数日したら戻ってくると伝えてあるホテルへまず戻る。
 タクシーを探す、が、私より先に運転手が私を見つけている。
 町外れから中心地までは多分30分ほどと考え、1500テンゲが相場と予想する。
 ホテルの名刺を差し出し「ここまでいくらだい?」と聞くと若い運転手は「1500」と私の差し出したノートに書き込んだ。「OK !」というわけで、即座に合意。出発進行!
 旅も最終晩となりやっとタクシーの使い方も慣れてきた。気分がいいので2000テンゲ渡し、「釣りは取っといて!」といってタクシーを降りた。
 が、考えてみたところ、テンゲの現金が少なくなった・・・今日は日曜日なので銀行や両替商は営業していまい。食事は予め、クレジットカードが使えるかどうか確認してから入ればよい。
 2日振りに「アスカール・ホテル」に戻る。一泊 12000テンゲ(¥3600)だが手持ち現金が10000テンゲしかないので、「明日、銀行に行って円をテンゲにするから2000は明日払いにしてくれ」とジャスチャ―で伝えると「パスポートを預かっておく」との事。
 夕食に出かけようとすると、路地から着飾った女性が2人歩いてきました。その様子からホテルの向かいにある「MUSIC HALL」というライブ会場で歌う2人に違いないと思われた。カザフの音楽でも聴ければ最高に良い思い出になるに違いない。というわけで、そこへ向かう。
 「入場料はいくらですか?」と聞くと、入り口でハンバーグを頬張っていた2人の警備員が「ノー、ノー、ノー!!!ドレスコード!」と連発。私の短パン、Tシャツ姿では入場させることはできないという事らしい。いやぁ、マイリマシタ。あなたのその姿はあまりに貧相で店内の客や出演者に申し訳が立ちませんのでお引き取りください。となかば、強制退去。いやぁ、自分自身の身なりの酷さ故に入店拒否される経験は初めてで、結構ショック!
 という訳で、トルコ料理店で腹ごしらえをして、もう一軒でビールを飲み、落ち着いたところでまたしても、「MUSIC HALL」へ出撃!腹の虫がおさまらないゾ。
 ライブもそろそろ佳境に入ったか、終わりが近い頃らしく、入り口にいた警備員の姿はなく容易に入れそうです。店に入ろうとしていた客に声をかけ「この姿でも入れますかねえ?」と聞くと
全く問題ないよ!といったジャスチャ―。という訳で、彼の後ろから友人のような態度で入っていきました。彼はすんなり入りましたが、私の段になると女性店員でしょうか、経営者でしょうか、いきなり私に前に立ちふさがり、「ノノノー! ドレスコード!」といって私を通せんぼするではありませんか。「この一番後ろの壁に立って聴いているから、入れてくれ!」と頼みましたが、彼女は頑なに拒むのでした。というわけで、返り討ちに遭ってしまいました・・・敗北感・・・
 今日(9/8)の新聞によると、今月15、16日にプーチン大統領と周近平党書記長がウズベキスタンのサマルカンドで会談することが決まったらしい。我が友、白タク運転手アーバップにはこの機会にガッチリ稼いでほしい。
  さて、カザフに戻り、私の定宿、アスタール・ホテルでのんびりする。カザフの通貨テンゲの持ち合わせがなく少々心細いが、クレジットカードで何とか切り抜けている。
 前日は、サマルカンドの駅で6時間ほど寝ただけだったのでやはり寝不足には違いない。 その夜、やっと安心して眠れたためだろうか、心地良い夢を見た。食べ物にはそれほど困ることのない中央アジアの国々とはいってもやはり、頭の中では日本食が恋しかったのかもしれない。
 餅つきの夢を見た。杵と臼でつく、しっかりした餅つきの夢だ。現実と夢が混然一体となっている感覚があった。臼を振り上げる人と餅をひっくり返す人の間隔が徐々に短くなり、緊迫するが2人の息がぴったり合って、ペッタン、ペッタンと軽快なリズムで餅がつかれる。夢うつつの中、どうやらそれが夢ではないことに気づいた。隣ではないどこか近くの部屋で女性の遠慮のない艶めかしい声が響き渡っていたのである。時計を見ると11:30pm。私の見た夢がなぜ餅つきだったのかを説明するのは野暮であろう。私自身が「なるほど!」と膝を打ったほどである。そして時々、男の勇ましい声も混じる。参ったなあ~。そのフロアーに泊まっている人、全員がその瞬間、私と同様に参っているはずである。そういえば、子供の宿泊客も多くいたはずだ。隣の部屋には振動すらも届いているであろう。
 とはいうものの。外国ではよく遭遇する事案である。(私だけが特にということはないはずだ)全人類に共通する行為だけに、その真っ最中に高吟放歌する一部の方々を破廉恥と非難するのはかえってエチケット違反。翌朝、普通に「Good Morning !」とあいさつするのが、万国共通の正しい対応なのだろう。
 その激しい餅つきと絶叫に近い艶めかしい女性の声は30分ほど続いてやっと終わりを告げた。羨ましいほどタフな旦那様のようだ。
 その後やっと、本物の深い眠りがやってきた、ようだった。
  ホテルの宿泊料金を全額払っていないので、フロントの人に「銀行へ行ってくる」と告げ、街へ出ます。昨日のうちに目星をつけておいたカザフ全土で見かける大きい銀行です。
  窓口で「日本のYENをテンゲに」というと、YENは取り扱っていないという衝撃の答え。円が世界を席巻したのは今や遠い昔の話のようです。しょうがないので手持ちの米ドル全17ドルでテンゲを買います。が、ホテル代にはまだ少し足りません。困り果てました。クレジットカードでのキャッシングもやってみましたが、私が初めからそういう設定にしていなかったのでしょうか、取扱いできない旨の画面が表示され、万事休しました。
 こうなれば、昨日ウズベキでやった手口を使うしかありません。宿泊料金を円で払ってテンゲで釣りをもらうのです。ホテルに戻って早速、交渉です。が、英語を話せる従業員はひとりもいません・・・
 私は財布を出し、中身を全部見せ、「YENはこの通り持っているのだが、銀行は両替してくれない。この10000YENで払うからテンゲで釣りをくれ」といいましたが、分かってくれたのかどうかすら分かりません。「ボスに聞いてみなけりゃだめだ」といったことをいっているようです。「うちのボスは、マネー、マネー、マネーとうるさい人だ」といっているようです。先行きは暗澹としています。とはいってもこちらにはもう、テンゲもドルもありませんから、開き直っています。
 そこに現れたボスは、何と子供でした。いや、失礼しました。まだ30歳にもならない小太りの坊ちゃん然とした若者でした。
シムケントでホテルを経営しているというのにその坊ちゃんも、英語が話せません・・・トルクメニスタン人だという彼らは同国人を相手に商売をしているらしく、言葉にはそれほど困っていないのでしょう。
 坊ちゃん、「我々はテンゲしか受け取らない!あるいは、米ドルだ!」の一点張りです。「しかし私には、もうYENしかないのです。銀行にも断られました」と繰り返しますが、らちが明きません。「あなたはどこから来たんだ?どこへ行く?」などと聞きます。
 これらの会話は、全て坊ちゃんのスマホで行われています。彼がロシア語?トゥルクメン語?でスマホに話しかけ、それを英語変換し、私が見、英語でスマホに答え、変換した文を坊ちゃんが見るという果てしないやり取りです。
 「アルマトイから800km、4日間でここまで来た」といっても坊ちゃんは半信半疑です。坊ちゃん、多分親に買ってもらったドイツの高級車にでも乗っているのでしょう、気温40℃の中、自転車で旅をするなんて想像すらできないはずです。私は道中使っていた紙地図を取り出して、通って来たルートを見せ、最後は体の日焼けまでをも披露しました。私が60歳だと知って妙に感心しています。多分彼の父親よりも年上だったのでしょう。「私が預けた、自転車がそこのボイラー室にあるはずだ、それで旅をしたんだ」等々、いろいろ説明します。フロントにいるおばあちゃんも「そうそう」と、何か私を応援している様子です。そのおばちゃん、私が自転車を預けた際、私から3000テンゲ貰っていますから、まあ、応援してもらわないと天罰が下ります。
 終始穏やかな話し合いですが、ホテルをチェックアウトする人達が心配そうに見ていきます。
 会話が途絶えた後に、坊ちゃんが何やらスマホに打ち込み、私に示しました。そこには「It's time to say gooodbye !」とありました。一瞬、どういう意味か分かりませんでしたが、どうやら残りの2000テンゲは払わなくてよい、という意味のようです。嬉しさのあまり、坊ちゃんに抱きつき、掃除婦のお姉さんに抱きつき、最後におばあちゃんに抱きつきました、が、おばあちゃんは直立不動のまま、微動だにしませんでした。おまけに表情が固まっていました。「Thank you mama !」と、おばあちゃんにいったら、のけぞって大笑いしました。
 坊ちゃんが「水はいるか?」と聞いてきたので「Yeah !」というと、食堂まで行き、ミネラルウォーターを汲んできてくれました。どうやら、まだ私が自転車旅行を続けるのだと思っているらしいのです。まあ、メンドクサイので説明は省きました。いよいよ、ホテルを出る段になり、リュックサックに手をかけると、中に2 ℓ 入りのミネラルウォーターが一本入っていました。掃除婦のお姉さんが私を見てニコリッとしました。隙を見て入れてくれていたのです。
 帰国後、早速、5000テンゲほどホテルに送ろうと郵便局に尋ねたところ、カザフスタンへの郵便物は今、一切受け付けていないとの事、お礼ができるのはもう少し先の事になりそうです。
  下の写真は、カザフ第三の都市、シムケント駅の2Fからの風景。ここで自転車のを少々分解して、自転車袋に入れ、寝台列車に乗り込み、16時間。自転車箱を預けているアルマトイのホテルまで戻ります。このように、私の旅の行程は結構複雑です。
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 寝台列車に乗り込み、自分のベッドを確保して、自転車を置く場所を探していると、女性の車掌がやってきて、「あっちに持って行け!怒!」と不愉快な態度丸出しでいい放ちます。
 スタンの国々では結構あるあるの態度です。特に女性に多いように思います。列車の連結部に近いトイレのそばの手すりに自転車を立てかけ、紐で厳重に縛ります。まあ、紐が切られれば終わりですけどね。そこへ、またしてもさっきの女性車掌がやってきます。「ここへ置いたら、ゴミ箱の扉が開かないだろう!怒怒怒!!!」と、さっきよりもさらに不愉快になって怒ってます。なるほど、ここにゴミ箱があるんですね、と思いながら、その扉を開けるとゴミ箱は既に満タン、溢れ出していて、扉を開けたところで、何も入る余地はありません。そこ、シムケントが始発の列車ですがゴミ箱が満タンっていったいどういう事でしょう。でもまあ、あの車掌がいったので、扉の開くスペースを確保して紐で自転車を縛りました。さもなければあの車掌に何をいわれるか分かったものではありません。
 自転車問題は解決しましたが、私の「現金無い問題」は解決していません。数日前に買ったパンとも菓子ともわからぬ食べ物が8枚、バナナが2本あるだけです。列車を待つ間、その菓子4枚とバナナ1本を食べてしまったので。残りは菓子4枚とバナナ1本だけです。それで、アルマトイ到着までの14時間持たせなくてはなりません。駅周辺の商店はどこも個人商店らしく、クレジットカードを扱ってそうもありません。大型のスーパーマーケットでもあればよかったのですが・・・その一日+翌日の昼までは結局、食料はそれだけです。
 私の向かいのベッドに来たオッチャンは、せっせとベッドメイキングをしながら、「おい、日本人、食堂車に行こうか?」と誘いますが、カネがないので・・・という訳にもいかず、「いや、寝ます」というと、「まだ外はこんなに明るいのにもう寝るのか?」と、(多分)いっています。なるほど、外には綺麗な夕焼けが広がっていて、オレンジが綺麗です。そのオッチャン、列車に乗り込む前に弁当を買い込んでいたのでしたが、食堂車に行くことを決めた途端その弁当、不要になってしまったようです。「日本人、この弁当喰うか?」と聞いてきましたが、私はその時、何故か「ノー、ノー」と答えてしまいました。素直に貰っておけばよかったと、その後、相当後悔しました。でもまあ、寝てしまえば空腹は忘れられます。そして寝てしまえば、金の心配はしなくて済みます。
 少し高級なランクの寝台車を買いましたので、楽ちんでした。
 料金は8031テンゲ=¥2400ほどです。安いなあ~、これはクレジットカードで買えました。早く寝たので早く目が覚めました。
 向かいのオッチャンは70歳ぐらいでしょうか、幼少の頃、札幌にいたことがあるといっていました。ソ連兵だった父親に連れられて行ったという事らしいです。オッチャン、目が覚めると、「日本人、これ好きか?」とスマホを私に差し出します。するとアダモ作曲の「白い雪」を歌う、テレサ・テンの映像でした。
 テレサ・テンはいいよ!と親指を立てて答えるとオッチャン大喜びで、今度は「空港」を大音量でかけます。これもあるあるですが、スマホのスピーカーを大音量でかける人が相当数いるのがスタンです。さすがに若い人はイヤホーンを使ってますが。
 そろそろアルマトイに到着という段になり皆が忙しく、荷作りを始めました。向かいのオッチャンは結局食べなかった弁当を手に持ち、これはどうしたもんかな~、と困り顔です。蓋を開けて臭いを嗅ぎ、「まだ、喰えるなあ」とでもいっているようでした。私の顔を見て、「そうだ、家のニワトリのエサにしよう!」といいながら、コケコッコー!と叫びます。え~、じゃあ俺にくれよ!と大声で叫びたい気持ちでした!しかしそのオッチャン、足元のバケツの蓋を開け、巨大なブドウを2房、私にくれたのでした。ひと房に100粒ほどもたわわに生ったぶどうです。それをホテルで一気に食べたら下痢しましたが・・・
というわけで、この自転車旅の出発地だったアルマトイに9日振りに戻ってきました。駅からホテルまでは15kmほどもあり、苦労しましたが途中、両替商店を偶然に見つけ、入ると、キルギスのソムも、ウズべキのスムも、勿論、円も両替できて、一気に全ての悩みが解決しました。
 この日の夕方、アルマトイ市内を10kmほどジョギングして、いよいよ、トライアスロンレースへ向け、スイッチを入れます。
 明朝、飛行機移動開始です。
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   旧首都、アルマトイから飛行機で新首都、ヌルスルタン(旧名、アスタナ)へ向かう段になったら何故か寂しくなってきました。カザフ南東部から南西部への酷暑の中の約800kmサイクリング旅で廻った街々や人々が急に思い出されました。日記を読み返すとその時の状況が鮮やかに蘇ってきて目頭が熱くなります。(年をとったなあ)
 さて、新首都、ヌルスルタンは1997年に首都になったばかりです。それまでそこは、アスタナと呼ばれていました。いまでも中年から上の方々はアスタナと呼びます。アスタナとはそもそも首都という意味です。2019年までは首都という名を持つ、文字通りの首都アスタナだったわけですが、退任したカザフスタン初代大統領の功績をたたえ、彼の名前、「ヌルスルタン」がそのまま首都名となってしまいました!(あり得ない!)
  なるほど、それまでの首都だったアルマトイの街並みを新しい首都に造り替えるよりは、まったく新しい首都を造った方が手っ取り早いかもなぁという考えは私がアルマトイの街を見て思った印象でしたから、ソ連からの呪縛を逃れ新国家の旅立ちとして、今までのカザフではなく、超近代的で世界があっと驚くような首都建設を新しい土地で進めようとしたのは、こんな私でも何となく理解ができます。
 というわけで、新首都建設はその構想を世界にコンペとして発表しました。皆さん!どんなデザインが新首都としていいでしょうか?
 優勝したのが黒川記章さんです。そのアイディアに沿って今現在でも建設が進められています。私の駄文と安物のデジカメでは新首都のエグさは伝えきれませんから、皆さん、ご自分でネットを確認してみてください。
 やっと辿り着いた、IRONMANの地、ヌルスルタン。
 空港からホテルまでの白タク問題ががまた待っています。
 空港を出る前にダウンタウンまでのタクシー相場を聞いておきました。でもまあ、大きな自転車箱があるので少し上乗せされてもしょうがありません。
 「9000テンゲだ!」というので「空港の女性は3000が相場だといってたぜ」と伝えると、「じゃあ、6000だ」というので「5000なら」、「OK !」 と、あっという間に決着しました。
 後ろのトランクを開けて、後部座席のシートを倒して・・・と相当苦労しましたがなんとかホテルに到着。その部屋に6連泊です。
 何てこった、俺の店より広い部屋だ!
 朝食込みで一泊¥5000弱。安いなあ~
 トイレで立小便をしようとすると、目の前の大小排水ボタンのところが鏡面仕上げになっていて、私の粗末なおちんちんがいちいち見える仕掛け?になっています。6日間悩まされました。
 これも黒川記章さんのデザイン?
 ヌルスルタンで先ずやっておかなければならない最優先事項は、日本帰国時に求められるPCR検査陰性証明書の入手です。これがないと日本に入国できません。この制度はこの9月に廃止されましたが、私が出国した際には必須でした。
 ホテルのフロントで確認します。すると、歩いて行けるところにあるとの事。スマホを持たない私はその場所を地図に書き込んでもらい出かけました。
 歩いて10分ほどのところになるほどありました!「INVIVO」という建物。日本風にいうならば診療所でしょうか。
 「PCR検査を受けたいのですが?」というと「???」何てこった!英語が通じない!こういう公の機関?で英語がダメなのかよ~ 
 すると彼女、自分のスマホに向かって話しかけます。それを私に見せ、これに向かって話せ!という素振り。
 出ました!なぜか態度がデカい女性!あるある、再びです。メンドクサイのよね!!!という雰囲気丸出し。私の他に客がいるでもないのに妙にとげとげしい態度、まったくもう。
 「火曜日に帰国するので、月曜日に検査したい」旨、スマホに話しかけると、それを見た彼女、またしてもメンドクサそうに、ふー!と大きなため息。陰性証明書は72時間が有効時間です。帰りの飛行機も待ち時間を合わせて多分40時間は乗るので、帰る直前に受けたいのです。
 「今日、今だったら、受けられる」と彼女がいいますが、上記の理由で、その日(木曜日)に受けるわけにはいきません。「何で、今日、受けられないんだ」と大層、ご立腹です。予約表を確認しながら、スマホに話しかけ、私に見せ、変換。の繰り返しです。それでも何とか土曜日20:00に予約を入れて帰りました。それでは日本が定める72時間ルールには違反しますが、彼女とのやり取りにうんざりして、もういいや!どうにでもなれ!という諦めと投げやりの心境になってしまった故の予約です。
 長くなりました、今日はここまで。
 PCR検査の予約が済んで、残る優先事項はプールの確保です。何しろ、10日ほど泳いでいません。ワタクシそんなに優れたスイマーではありませんが、それなりに練習してきたので、その感覚を思い出させないといけません。
 ホテルのフロントに行って聞くと、近所にあるというのです。いつも旅先でこうしてプールを探すのですが、いままで、近くになかったりして実現したことはありませでした。紙地図に場所を書き込んでもらい、翌朝早く、場所確認に行ってみるつもりです。
 翌早朝、行ってみるとその場所にプールらしき建物はありませんでした・・・まあ、よくある話です。(結果的には私の地図の見間違えでした)しょうがなく、三日後の本番までSWIM練習はナシです。
 まだ車が少ない、早朝のアルマトイは寒いぐらいです。ホテルの6階の自室に戻ろうとすると、20人ぐらいのインド人選手達が大挙してエレベーターを降りてきました。それも、皆一応にウェットスーツを着ています。
 「泳ぎに行くのかい?」と尋ねると、
 「ああ、本番のイシム川のコースは、歩いてすぐそこだよ、1kmほどだ」というではありませんか。早朝泳ぎに行くというのは、本番を想定してのことです。私は、急いで自室に戻り、ウェットスーツを持ち、インド人を追いかけました。
 なるほど、本番のコースで泳げます。いやぁ、プールを探せなくて正解だったなあ、と妙に納得。
 ところが、その川の水が相当、汚いです。相当!
 しかしインド人達はワイワイガヤガヤ、楽しそうに川に入ります。川に入る前に、お祈りをしている人もいます。故郷、ガンジスの流れを思い出しているのでしょう。ガンジスの流れよりも相当、綺麗なはずです。
 多分、インドからヌルスルタンまで直行便が飛んでいるのでしょう、開催国、カザフスタンの次に出場選手が多いのがインド人でした。
 意を決して私も川に入りましたが、足元から泥がふわふわ浮いてきます。そして、強烈な泥臭!  マイッタナア・・・
 首都のど真ん中を流れるイシム川。大平原国家ですので川の流れは緩やかで、川上に向かって泳いでも、それほど逆流感は感じません。が、やはり臭いが強烈です。勿論、透明度は望むべくもありません。伸ばした腕の指先すら見えません。首都圏は完全に上下水道完備で、イシム川に汚水が流れてくるようなことはないとは思いますが、上流域での生活が首都のそれと同じだとは思えませんから、まあ、それなりに汚れた水も流れてくるのでしょう。水温が思いの外、高いのがびっくりでした。恐れていた低体温症の心配は完全になくなりました。
 インド人達は無邪気に泳いでいます。
 でもまあ、汚い川でも一度入ってしまえば、5分泳ごうが1時間泳ごうが汚れは一緒。本番会場で泳げる幸せを噛みしめます。噛みしめているうちは良かったのですが、一瞬、誤って「ゴックン」と飲んでしまいました。口の中に残っている分は吐き出しますが、入ってしまった分はもう戻りません。  マイッタナア~
 それが、悲劇の始まりでした・・・
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1年で3度も経験した腰のヘルニアを何とか克服して、その後6か月かけて作った体と体力を試すその日が3日後に迫りました。南カザフスタン自転車旅行中はなかなか規則正しい生活と食事ができませんでしたから、残り3日でIRONMAN RACEに耐えうる体を急造しなければなりません。幸い、旅の疲れは残っていません。

 今まで12食程度しか食べていませんでしたから、3度に増やし、カーボローディングを始めます。3度食べるのは良いのですが、それがどうも順調に消化されていません。腸の付近で何やら渋滞気味です。こうなると、無理をして食べても良いことはありません。腸の状態が良くなるまで様子を見ます。すなわち、食べないことです。ところが今度は下痢が始まりました。それほど深刻な下痢ではありませんが、まあ食べたものが消化吸収されないまま出ますから、体力がつきません。食べなければ、体力がつきませんし、食べれば下痢。困った事態です。

 IRONMAN RACEは体調不良のまま出場して完走できるほど簡単なレースではありません。

 知らない方のために説明しますと、SWIM3.8km BIKE180km RUN42.2kmの競技です。

 結局、レース前日に食べたものはホテルの朝食のみです。そして、レース当日の朝、ラザニアをほんの一切れ。相当、きついレースが予想されます。しかし、カザフ自転車旅行中も、あまりろくなものも喰わずに毎日200kmほど自転車で走ってましたから、そこそこは行けるはずです。

 おっと、その前に、PCR検査を受けなければなりません。帰国できなくなります。レース前日の午後8:00に予約していました。

 その日も、あのいまいましい女性が座っていました。つけまつ毛の反り具合がハンパないです。彼女は透明のアクリル板の向こうに座って業務をし、私は向かいに立ったまま話をしますから、その反り返ったつけまつ毛を上から見下ろす感じになります。

 2日前にあれだけ、すったもんだと英語とロシア語でやり取りしたのに、「はい、今日は何の御用ですか?」と初めて会ったかのような対応です。こんチクショウ!

 「8:00pmに予約しています」というと「あ~、そうでした」といった態度。何やら、コンピューターに打ち込み、紙切れをアクリル板の隙間から私に差し出しました。「?」で、どうすりゃいいの? 次はどこに行けばいいの?おい、なんか言えよ!

 すると彼女、いつまでそこに突っ立っている訳?といった態度で私を見ます。そして、腕を伸ばし、後方にあるらしい部屋を無言で指差し、あっちだよ!的な態度です。このいわれのない不愉快な対応は何でしょう。下痢になりそうです。

 PCR検査をやってくれたおばさんは極めて親切で、迅速な仕事ぶりでした。「結果は月曜日に出ますから~」(多分)といってくれました。そのまま、ホテルに帰って即、寝ました。多分、4時間ぐらいは寝られたと思います。レース前日はいつもそんなもんです。

 下痢は続いています。レース中に腹筋に力を入れたりすると想像を絶する大惨事になりますから、相当、気を使いそうです。レース中、おしっこを垂れ流しすることはありますが、ウンチはそうはいきません。自分だけでなく他人に不快な思いをさせます。ホテルでなるべく出せるものは出してきましたが、まだ心配です。水泳の競技中はトイレはありませから、我慢します。BIKERUNになると、ところどころにトイレが設けてありますから、何とかそれで対応したいと思っています。どうせ体調不良ですから、レース中に摂取する補給食は持って行っても無駄だろうと思っていましたので、バナナ2本と日本から秘密裏に持ち込んだ羊羹少々だけを携帯することにしましたが、結局これすらも完食しませんでした。

 そんな訳ですから、いつも本番直前で感じる緊張感も感じることなく、タダ体調の心配が募るばかりでした。

 いよいよ3年振りの、IRONMAN RACEが始まります。昨日は10回ほどウンチをしましたが。その後はそれほど酷い下痢はなくなりました。完走を目指す戦いになるでしょう。

長い一日が始まります。

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 習近平さん、昨日はヌルスルタンでラグマンでも食べたのかな?そして今日はプーチンさんとサマルカンドで、昼食にサモサかな?
 という訳で、いよいよカザフスタンに来た本当の目的を果たす時がやってきました。が、謎の下痢は続いています。
 
  号砲一発!スタートします。が、一斉スタートではないので皆のんびりです。濁って、悪臭を放つイシム川に恐る恐る飛び込み、泳ぎだします。やってやるぜ~という感じにはなりません。誤って、水を飲むことがないように慎重に泳ぎます。腹筋に力を入れることのないように、力まず、楽に泳ぎます。
 一周回が終えると、一度水から出て少し走り、またスタートラインに戻り、飛び込みます。違和感はあるものの、腹の調子は最悪ではありません。頑張っていないので息が上がることもなく、あっさり3.8km完泳。後で調べたら1時間30分ほど。史上最遅。まあ、いい。
 ウェットスーツを脱ぎながら走り、BIKEラックへ。仮設のトイレが並んでいましたが、大丈夫そうなので、そのまま180kmの自転車旅へ出発!徐々に気温も上がり始めました。ヌルスルタンのヘンチクリン(失礼!)な建物が林立するダウンタウンエリアをのんびり走ります。その後、全車線封鎖された高速道路に出ます。そこからは皆、飛ばし始めます。私も腹具合の様子を見ながら踏みます。国土の地形そのままでBIKEコースもほとんど曲がりません。風が向かい始めると1時間は向かい風、追い始めると1時間追い風といった感じです。
 1時間に一度は補給食を取り、後半へのスタミナを蓄えたいのですが、それが即、下痢となってしまう可能性が高いために怖くて補給できません。水だけは取りました。が、それすら即、下痢になってしまうのではないかと思って不安でした。水は何とか体内に届いているようです。
 718kmのサイクリング旅行が効いています。疲労を感じることもなく100kmを通過。その辺りで初めてバナナを恐る恐る半分だけ食べます。何ともありません。とはいっても、いきなりもりもり食べるわけにもいかず様子見します。そうこうしているうちに、ハンガーノックになってしまうかもしれません。
 しばらく水とコーラでしのぎます。日本から秘密裏に持ち込んだ羊羹は昨日のうちに小さく5等分にされ食べやすくなっていますが、それは2個食べただけです。
 150km過ぎた辺りでいよいよキツクなってきました。水分はとれているので大丈夫そうですが。やはりそこまで食料がほぼ無補給ですので体力的に限界です。スピードも一気に20km/hまで急降下!予想されていたことですが、ハンガーノック状態です。
 脱水とハンガーノックは一気に来ます。ハイ、経験がありますから・・・そして、そうなってから「がんばれ~」といわれても頑張れません。
 経験からいうと、私は脱水の場合、あらためて水分を摂って2時間ほど経ってからやっとまた動き出せます。無補給は初めてなので分かりませんが、立派に補給したらたちどころにトイレに駆け込まなければならない事態になってしまうかもしれないので怖いです。BIKEコース上には仮設トイレは50km毎にある感じですから、事態が急展開になったらまず辿り着きません。大平原ですから野グソをしたら選手のみんなから丸見えです。多分、大会役員に野グソが見つかったら、即刻、失格です。(そんな、条項があったわけではないのですが・・・)
 確実に仮設トイレがある、BIKEの終着点、即ち、RUNのスタート地点まで何とかして辿り着くことが一番良いように思われました。しかしその時、一気に込みあげてくるものがありました。
 自分自身の頑張りに対する歓喜ではありません。片側4車線もある高速道路を独り占めして走る感動でもありません。沿道で応援してくれている市民やボランティアに対する感謝でもありません。
  それは、込みあげるゲロです!
 一気に込みあげてきました。幸い、前後に選手がいなかったため私のゲロを浴びる被害者はいませんでした。それは救いでした。あまりの勢いに、そのゲロは噴水と見紛うほどでした。それも、1kmほどの間に4回です。私はBIKEから降りることなく、乗ったままそのゲロを出し尽くしました。私の走った後には、累々と続くゲロの痕跡が残ったのでした。(これを読んで気分を害された方、スミマセン、お詫びに、もんじゃ焼きをご馳走します)
 それでも何とか180kmを走り切り、RUNのスタート地点へと辿り着きました。残るは、42.195kmのマラソンです。やはり、虎の穴自主トレの成果です、足はまだ生きています。走れます。が、体が無理です。内臓が無理です。
 そこで、なぜか、どこかのレースでかけられた声援を思い出しました。
「いまから全行程歩いても、制限時間に間に合うぞ!」という言葉です。時計を確認しました。制限時間までまだ8時間ほどありました。42kmを8時間かけて歩くというところに活路を見出したのです。今のところ、急を要する下痢の心配はないように思いました。ゆっくりと歩きだしました。スタート直後から歩き出す選手はあまりいないので、ボランティアの若者や、大会関係者は不思議な顔で私を見ています。
 歩き出すと体の上下動が効きます。そうです、急にもようしてきました。RUNコースには2.5km毎に水や補給食を確保できるエイドステーションと呼ばれる場所とともに仮設トイレがあります。そこまでガンバリマス。
 やっと辿り着いて、座ろうとしたら紙がありません。これは人生の一大事です。日本だったら予備が必ずあるはずなのですが・・・どこを探してもありません・・・しょうがなく、諦めて2.5km先のエイドを目指します。う~む・・・・もつのか・・・
 何とか頑張って辿りついたそこの仮設トイレをノックして、返事がないのを確認してやっとドアを引くと・・・ドアが引けません!!!!!とっさに隣のトイレのドアに飛びつき、引きます。が、ガガガ―ン!!!開きません!2つとも開きません。恥も外聞もなく、「このトイレはどうなってるんだ!」と絶叫に近い嘆願。「使えません・・・」と申し訳なさそうな若いボランティア女性の声。私の状況を分かるのでしょう、次の言葉も出ません。
 使えないという事はいっぱいだという事なのでしょう。山盛りだということなのでしょう。俺が山盛りの部分を押し込んでやるから、頼む、開けてくれ!と、お願いしたかったほどです。
 「2.5km先にエイドがあるわ!」と彼女はいってくれましたが、私には何の励ましにもなりませんでした。
 そこに通りかかった選手が「大丈夫かい?そんなに酷いのか?」と聞いてきました。
 「It's a serious situation !」(深刻な状況だ!)と私が答えると、ひどく戸惑った表情のまま、かける声もないのでしょう、泣きそうになって走り去っていきました。おいおい、泣きたいのは俺だよ!
 それから私は夢想したかのように歩きながら、茂みばかり探していました。こうなれば旅の恥はかき捨てるしかあるまい。野グソ敢行だ!しかし肝心な紙がまだありません。ところどころにいる若いボランティアに、「紙はないか?紙はないか?」と聞きながら歩きます。
 急にひらめきました。選手が使っている水分を含んだスポンジ、それでケツを拭けばいい!!!私は首を冷やすために後ろ側の首にスポンジを挟んでいました。地獄で仏に遭うとはこのことです。この世が突然、極楽浄土にさえ思えてきました。どこだってできます。拭くものが確保できたのですから!
 私の100mほど前を走っていた選手がいきなり茂みに消えました。間違いありません。彼だって大変だったのです。またしても急に軽やかな気分になりました。
 長くなりました・・・続く。
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 一昨日(9/17)日付けの新聞で、カザフスタンの首都名がアスタナの戻されることが発表されました。2019年にアスタナからヌルスルタンに変更になり、3年経ってまた、アスタナに戻すというのです。一体どうなっているのでしょう、カザフスタン?
 という訳で、RUNです。
 スポンジでケツを拭くことができますからもう安心です。どこだって野グソをしてやる!と思うものの、見せられる側からすると気分が良かろうはずはなく、やはり、なるべく見えないような場所を探します。
 ところが、今度は強烈な吐き気が襲います。膝に手を置き、豪快に吐きます。胃にはほとんど入っていないので、途中のエイドで飲んだ水とペプシが出ます。それを見ていた警備の警察官らしき若い男がが歩み寄ってきて「大丈夫かい?」と英語で話しかけてくれ、背中をさすってくれました。「多分、大丈夫だ」と引き攣った笑顔で答え、歩き出します。
 ゲロまみれ、そしてクソまみれになりそうなすんでのところで目指すエイドが見えました。スタート&ゴール地点です。仮設トイレが2個。空いています!紙もあります!が、筆舌に尽くし難いその汚さといったら・・・体を冷やすため、汗を拭くためのスポンジや、補給食のサプリの袋、あらゆるものが投げ込まれていてクソと混然一体となっています。小便も壁といわず、床や便座、ありとあらゆるところされています。しかし、贅沢はいってられません。目をつぶって、便座を降ろし座ります。豪快な放屁一発とともに何とか任務を完了。とはいっても、この二日間ほとんど食べていないので出るものがありません。下痢だが、出るモノがない。それはそれで、気分を楽にしてくれました。
 そこから少し走ってみることにしました。意外や意外、3kmほども走れました。1kmを6分ほどです。しかし、何も食べていないのですからそうそう続く訳もなく、また歩き出します。と、またしても強烈な吐き気、とともに黄色い液体を吐瀉!
 行き過ぎるランナー達は皆、私の姿を見て気の毒そうな表情を浮かべていますが、いつ自分にもその時が来るやもしれず、寡黙に走り過ぎます。
 何とか1周回、10kmを歩き終えました。2時間少々かかりました。単純に4倍して、やはり8時間超で42.195kmを歩き切れる計算です。制限時間ギリギリです。
 摂取する水やペプシまでも吐き出していますから、私の体はもう何も取り込むことができない状況です。そこからの30kmは果てしない距離に思えますが、努めて考えることなく、ただ歩を進めるだけです。
 途中、同じホテルに滞在するオーストリア人が、「大丈夫かい、My friend?」と声をかけてくれますが、あまり気の利いた返事もできません。
 17kmほど歩いた時点でまたしても豪快に吐瀉!が、何も出ません。いよいよ、限界点が近い気がしてきました。これ以上体を追い込んで大丈夫だろうか?と、冷静に考えながら歩きます。答えは否。危険かもしれないという気がしました。
 何とか22km地点まで歩き、ゴールで歓喜する人達を横目で見ながら、近くにいる係員にリタイヤする旨、伝え、私のIRONMAN RACEは終了しました。3年前のマレーシア戦に続き、2戦連続のリタイヤです。虎の穴トレーニングの成果を発揮することなく終わってしましました。謎の下痢が全てでした。
 翌朝ホテルの朝食会場には、完走Tシャツを着た人たちが大勢います。ただのTシャツですが、それは金を出しても手に入らない代物です。制限時間内にゴールできた人達全員に与えられます。私は持っていません。エレベーターで会っても皆、「いやぁ、昨日は大変だったよな」といったたぐいの話をします。そして、それぞれのレースを称え合います。皆、晴れやかです。何があったとしても完走という事実を手に入れた選手は皆、勝者というのがこのレースなのです。
 同じ過酷な競技を戦った者同士で交わされる、あの何気ない微笑みが、リタイヤした者にはとてつもない苦痛となります。そんなに爽やかな笑顔で俺を見ないでくれ。俺はリタイヤしたんだ!と、言って回りたいほどです。あの爽やかな笑顔に私が微笑みを返すたびに何か自分が偽り者となり、自ら自分を貶めていくように感じるのでした。早く、そのその街から逃げ出したい気さえします。
 翌日、夕方、ホテルのレストランで例のオーストリア人とビールを飲んでいると、彼が「俺は今朝から下痢なんだよ」というではないですか。彼の次の言葉に私のここ数日間の謎と、私のリタイヤの答えが秘められていました。
 「SWIMで結構、川の水を飲んだからなぁ、あの水では下痢をしたって無理はないよなぁ」
  木曜日の早朝、インド人達と川で泳いだ際、誤ってゴクリ!とひとくち飲んでしまったあの時のことが思い出されました。
  ああ~、あれが俺の下痢の原因だったのか・・・
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 大会翌朝、元気に行動開始です。何ていったて、完走していないどころか、RUNパートでは22kmほとんど歩きましたから、疲れていません。
  PCR検査の結果をもらいに行ってこなければなりません。私の下痢の原因が判明したのがその晩の事ですから、その朝、結果をもらいに行く時点では、実のところその下痢がコロナに起因しているのではないだろうかという疑いを少し持っていました。ですから、結果をもらいに行くのが少し怖いほどでした。陽性となれば、入国(帰国)できません。
  診療所へ行くとまたしても例のつけまつ毛の反り具合がハンパない、いまいましい女性が座っていました。私の持っているボールペンがそのつけまつ毛にぴったり乗ってしまいそうです。そう思うと試してみたくなってしまいます。ですが、我々の間には透明のアクリル板があって試すことは適いません。
  彼女が英語を話せないのは知っていましたが、私がカザフ語あるいはロシア語を話せるわけでもないので、英語で話しかけます。「土曜日に受けたPCR検査の結果をもらいに来ました」。相変わらず、無愛想極まりない女です。アクリル板の下にある僅かな隙間から小さな紙切れを差し出しました。多分、それが結果が書かれたものなのでしょう。が、キリル文字で書かれていますから何が何だかわかりません。これでは、日本に帰って、入国審査に提出しても意味がありません。そこで私は予め用意してあった、日本政府の発行したロシア語版の証明書を取り出し、「これに書き込んでくれないか」と頼みました。それは世界の各言語に対応した共通の証明書です。何語であろうが完全に同じフォーマットでできている優れものです。(その原本を下に貼り付けておきます)
 すると反り返ったつけまつ毛の女はいきなり怒り出して「この証明書で何が不足なんだ!」(多分)と恐ろしい剣幕です。「私に国では滞在先の国でこれに書き込んでもらってくるという仕組みなんですが・・・」と、我ながらその女の剣幕に少々ビビりました。そのうち彼女は自分の机を手の平で叩きながら、「それを持ってとっとと日本へ帰れ!」とはいってはいないと思いますが、まあ、怖いぐらいでした。しょうがなく、彼女がくれた紙切れを確認しました。すると、カザフ語、ロシア語、英語の順で同じことが書かれているようだという事が分かりました。最低限必要とされている、どういった検査方法か、いつ検査したのか、結果判明日、などは記載されているようでした。その時点ではまだ検査効力が残っている72時間の制限時間以内です。そして一番大事な、検査結果の欄にはしっかり「Nagative」の文字が見えます。結果的には、彼女のエライ剣幕の前にすごすごと退散する結果となりました。日本入国の際に揉めるかもしれませんが、まあその時はその時です。何しろ私が日本に帰国するときには、検査から優に100時間は経過しているはずですから、どのみち、効力は失われています。
  自分が陰性であることに取りあえずホッとしました。それにしてもつけまつ毛反り返り女の剣幕といったら・・・自分たちの診療所で発行した証明書に文句でもあるのか!といった感覚の怒りだったのでしょう。まあ、分からないでもないなぁ。プライドを持ってやっている自分の仕事に対してイチャモンでもつけられたように感じたのかもしれません。日本国の決まりごとを外国に持って行ってこれに従ってくれといわれれば、まあ、あまりいい気はしないでしょね。という訳で、私も少々反省しました。スンマセン!
 証明書の発行は検査料金と合わせて3900テンゲ=¥1200でした。あれれ、安いなあ~
 その日は自転車を分解、梱包して帰りの準備です。そこからまた飛行機4便乗り継ぎます。遠い~。
 その頃になって下痢が完全によくなってきました。まあ、しようがありません。
 夜、ホテルのレストランで例のオーストリア人とビールを飲みながら語らいました。IRONMAN 初挑戦で完走した彼は現在、下痢の真っ最中だといってましたが、そんなことよりも完走したことが相当嬉しいらしく興奮気味でした。
 カザフスタン滞在も残りあと1日だけです。
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一昨日の報道によると、私が8/2に一日だけ滞在したキルギスでタジキスタン軍との武力衝突があり双方合わせて100名ほどが死んだそうです。どうやら南部の国境付近での出来事らしいです。8/2の首都、ビシュケクは穏やかにのんびりしていた様子だったのですがねえ。
  最終回です。
 3週間の旅も終わります。とはいっても、これから飛行機4便乗り継ぎます。まずはカザフからトルコのイスタンブールまで5時間超の旅です。少々面倒なのですが、飛行機会社が変わるのでここで一度自転車を受け取らなければなりません。というわけで、一度トルコに入国します。ワクチンとかPCRとかの質問は一切ありません。深夜に到着したので、街に行きホテルを取るのも面倒なので空港で寝ます。3時頃だったでしょうか、床に寝ていたら「ここで寝るな!」と警備員に起こされました。しょうがないので、そのままトルコを出国して出発ロビーで寝なおします。
 次の便はイスタンブールからなぜか、ヨルダンのアンマンに行きます。  
 航空会社のカウンターで「ずいぶん長い飛行機旅ですねえ~」といわれます。
  貯まったマイルを使ってのほぼタダの旅ですから、「多少の不便な旅でも文句は言うな」という飛行機会社の無言の圧力があります。
  ヨルダンまで2時間ちょっとです。アンマン空港は砂漠のど真ん中にあります。空港の中の店でこの旅で初めて絵葉書を見つけました。次の便まで6時間以上あるのでそこで絵葉書を書こうかと思い、「絵葉書を買おうかと思うのですが、切手はここで買えますか?」と聞くと「切手は売ってないし、ここには郵便ポストも郵便局もないよ」という親切な返事。という訳で、この旅で絵葉書を出すことはできませんでした、皆さん、スンマセン!
  レストラン街のテーブルに座って、久しぶりに大好物のドーナッツを頬張りながら、日記を書きます。その間、忙しなく掃除婦のおばちゃんが機械やモップを使って床を綺麗にしています。
 突然、後方から声がしてビックリ仰天!振り向きました。
 その掃除婦のおばちゃん、いきなり「見どがん、ちゃんと!」いったのです。間違いなく日本語で、しかも私の住む、岩手沿岸部の言葉です。ですが、そんなはずはなく、空耳に違いありませんが、あまりに完全な「しっかり見なさい!」という言葉に、起立して「はい!スミマセン」と思わずいってしまいそうなぐらい完璧なアクセントでした。という訳で、日記にメモッたわけです。
 「いやぁ、ビックリしたなあ、こんなところで、郷里の言葉に出会うなんて」と日記に書いていると、またしても耳を疑う声が聞こえてきました。
 今度はそのおばちゃん「だまされですまった!」と大声でいったのです。勿論、「騙されてしまった」という意ですが、きちんと、「すまった」と訛っています。そのおばちゃん二度までも私の郷里の言葉を話しました。周囲は荒涼とした一望千里の砂漠です。こんなところでかぁ、思わず、ニヤリと笑ってしまいました。
  ヨルダンからカタールのドーハを経由して、やっと、成田に到着です。
  入国に際して例のカザフの診療所で苦労して手に入れた、PCR検査陰性証明書を提出する必要があります。大概の人はスマホに結果を保存していますが、それを持たない私は紙証明書を提出します。
 「どちらからお帰りですか?」という問いに答え、「証明書はお持ちですか?」というので、「ハイ、ロシア語ですが持ってます~」と答えると、「ロシア語ですか・・・」と自信なさそうです。私は、もう既に有効期限が切れてしまっている証明書を持っていますので、そこを突かれては困ります。何とかごまかさなければなりません。証明書をリュックサックから出すのが大変そうな態度で「ええと、ちょっと待ってくださいね~、この辺にあったはずなんですが~」
 「ハイハイ、ありました。いろいろごちゃごちゃロシア語で書いてますが、ここに英語で確りこの通り、Negativeとあります!」というと、係官は「ああ、本当ですね、では、お通りください」といってあっさり通してくれました。検査日やその他の情報のことなど一切、確認しません。水際だ!全数把握だ!と大仰に叫んでいますが、実はこの国、万事がこの程度なのではないでしょうか・・・まあ今回はそれで助かりましたが・・・
 そして、やっぱり市役所での入手に苦労した、「英語版ワクチン三回接種証明書」は結局、20回ほど繰り返した4か国の出入国の際にはたったの一度も提出を求められることもなく終わりました。まあ、未曽有の感染症でしたから、全世界、対応がまちまちだったのかもしれませんが、日本のコロナ対応だけが妙に仰々しかった印象です。
  そして、いよいよ3週間ぶりに日本入国、という際に、
「ワクチン三回接種証明書はお持ちですか?」と聞かれ、ええっ、ここで?とびっくりしました。市役所で手に入れた<英語版>証明書を日本への入国の際に出す羽目になったのでした。
  長いお話にお付き合い有難うございました。
  下痢とゲロとクソの話ばかりでスンマセン。  
  これにて終了です。
  ただ今、来年の候補地選定中です。
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