IRONMAN PHILIPPINE & ルソン島北部を巡る、車旅

    Philippineは30年振りの訪問、3度目です。

Triathlon Raceが目的ですが、それだけではもったいないので、

いつも通り、大会前に小旅行を計画しています。

   羽田で、タイヤがパンクした時に一瞬でairを入れられる

ガスカートリッジの持ち込みでひと揉め(よくあるが)。

内容量の表記が消えてしまっているために

持ち込み許可を出しにくいらしい。が、

サイズが一般的なものであることからまあ大丈夫であろう

という事でJALさんやっとOK をだしてくれました。

それをそのままリュックサックに入れて機内手荷物

として持ち込もうとしたら、またそこで全く同じことで

揉めました。 今度は、私には関係なくJALさんと航空安全係官?

みたいな人とのせめぎあいです。

結局、JALは認めても航空安全係官? みたいな部署は認めず、

親指大の2本のガスカートリッジがプチプチで厳重に包まれた挙句、

小型の段ボールに箱詰めされて飛行機の格納庫へとうやうやしく

運ばれたのでした。  JALのチェックインカウンターの女性、

私に平謝り、  

 「スミマセン、我々の基準とあちらの基準が違っているようでして・・・」  

 去年も同じものを同じ量(2本)持って、別の飛行機会社ですが、

8回乗りましたが全く問題なしでした。まあ、JALさんの安全基準が

厳しいという事なのでしょう。でも、JALさん、

Philippineからの復路便では全くノーチェック!これ如何に・・・     

 

 

 4時間半ほどの飛行でPhilippine到着! 朝5時です。  

30年振りのPhilippineはいったいどうなっているのでしょう?

とはいっても到着ロビーであまりいい思い出がないので、

とっととバスに乗ってマニラを離れるつもりです。

何しろ都会はトラブルのタネが多いですから。  

Immigrationが合計12ブースありますが、

朝の5時に全て開いています!何たるこった!!!

30年前、2度とも、ここでやきもきした思い出があります。

30年経ってこの国も変わったようです。 早朝の5時に皆、

爽やかな笑顔で仕事に当たっています。  列はサクサク進みます。  

 私の番です。  私のパスポートを眺めながら、それをコンピューターに

打ち込んでいます。すると女性入国係官、

 「ミスター・ヒロシ・イトウ、あなたにミドルネームはありますか?」

と妙な事を聞くではありませんか。

 「No. I don't have any」と答えると、又何やら、

コンピューターに打ち込んでいます。  

 「以前、Philippineに来たことはありますか?」

 「ハイ、30年ほど前に2度来ています」と正直に答えます。  

 すると係官、今度は紙に何か手書きし始めました。その様子が、

ガラス越しに見えます。

  <第二入管審査依頼>とでも訳せそうな表記が見える紙です。

何か妙な雲行きになってきました・・・・  係官、自分のブースを出て、

「ミスター・イトウ、こちらへ来てください」といって、  

私は別室へ連れて行かれたのでした。  

そこには絶叫に近い詰問口調で女性を訊問し、それに怯えながら対峙している

20歳ほどの女性がいたのでした。

 「あなたは、2018年の○月から○月までの間、この国で一体、

何をしていたのですか!!!答えなさい!!!」  

ひえ~、とんでもないことになってきたぞ~     

 私は、35年ほど前に出来心でアメリカからエッチな本を一冊、

日本に持ち込もうとして、入管にバレ、 別室に連れて行かれ、

薬物持ち込みを疑われたのでしょう、裸にされ、あろう事か、

ケツの穴まで調べられたという友人を知っているので、その時私は、

まさにケツの穴が縮む思いを感じ始めたのでした。  

その友人、後に「俺のケツの穴のバージンはあの時に失った」と

冗談とも本気ともとれる発言をしていました。

  さて、別室に移された私、イライラするほど待たされます。

これは以前のPhilippineと同じです。  やっと呼び出されました。

 「Mr.HIROSHI ITO あなたにミドルネームはありますか?」

 「だから・・・普通の日本人はミドルネームをもっていませんったら・・・」

 何度も同じことを聞く、これはどこの国でもやる手口ですねえ。

 「そうですか~それではもう少し座ってお待ちください」

 20分ほどしてまた呼ばれます。

 「Mr.HIROSHI ITO、あなたは以前この国に来たことがありますか?」

 「だから・・・さっきもあっちで言ったように30年ほど前に二度来ています

一度はバギオを観光し、二度目はパラワン島に3日ほど滞在しました」

 「ほー、パラワンですか?ダイビングを楽しみましたか」  などと、

悠長な口ぶりです。

 「ひとつだけ言わせてください」と私は冷静に彼女に話しました。

 普通、当局は質問こそすれど、相手には何も言わせないものですが、

彼女は聴いてくれました。

 「私は今回、今月の11日 SUBICで行われるトライアスロンのレースに

出る為にやってきただけなんです!」

 すると彼女、妙に冷静に「それは特にこれとは関係ないことね」と、

言い放ちました。  要するにPhilippineにおける私の過去の何事かが問題で、

今回、私がこの国でこれから何をするかなどどうでもよいということらしい。

 なるほど・・・・「You right !」と私は納得したのでした。

 それから一度、生年月日を確認するためだけに呼び出され、

またソファーで20分も待たされます。  その間、私は30年前の出来事を

思い出さない訳にはいきませんでした。

 当時ほとんど電気が通っていなかった孤島、パラワン島に3日滞在し、

ちょうど地球に最接近していた流星群を夜眺め、昼は日本から持ち込んだ本を

読むという 無為徒食な時間を過ごしていた時の事です。

 パラワン島からマニラへ帰り、いよいよ今日帰国だという時に、

かねてから気になっていた「ハロハロ」というPhilippineのかき氷に

挑戦したくなりました。 滞在も一週間になり、私の体もこの国の水にも

慣れたころだと判断したわけです。 南国のフルーツがテンコ盛りになった

かき氷です。何と美味かったこと!  しかしその後が最悪でした。

所詮は清潔とは言い難い水道水を凍らせた氷から作ったかき氷ですから、

たかだか一週間ほどであの当時のPhilippineの水道水に太刀打ちできるほどの

体は出来ていなかった訳です。

 というわけで、飛行場の近くのホテルに宿をとって荷物をまとめている間に

生涯最強の下痢に襲われたのでした(まただ!)。

蛇口が開放状態とでもいっておきましょう。

 するとそこに、「コンコン」とドアをノックする音がするではありませんか。

この時代のPhilippineのホテルでは多分ホテル付きの売春婦がいたと思われます。

まるで日本で引っ越した先に即、新聞の勧誘がくるような感じです。

「売春婦はご入り用ですか?」といった非常に軽快なノリのセールスです。

断ればあっさり帰っていきます。ところがその時の女性といったら私には

高嶺の花レベルで思わず、 「ああ、どうぞ」といってしまった訳です。

あまりの美しさにほんの一瞬ですが、 自分のケツの穴の状態を忘れて

しまっていたのです。その状態ではとても 務めを果たすことなど出来るはずも

なく、しばし、困った挙句、「まあ、とりあえず、シャワーでも浴びてきて」 と

いったのでした。彼女、シャワーから帰ってくるなり、

 「どうしてシャワーなんか浴びなきゃならないの、私、臭うの?」と、

悲しい表情です。 あぁ、ごめんごめん、そんな意味じゃないんだよ・・・

といって事をしようとしたら、 ベッドがクソだらけになることは

目に見えています。私は意を決して、カネを払って引き取り願ったのでした。

その時の彼女の悲しい目といったらありませんでした。食せずに金だけ払う

という行為は、多分職業女性にとっては最大の侮蔑行為なのかもしれません。

あぁ、良かった、 何もせずに金だけもらっちゃった!ラッキー!とは

ならないのでしょう。

 

      ・・・・昔話が長くてスンマセン。  

という30年前の私の過去が何らかの筋を通して当局に漏れ、

パスポートに汚点として残っていると考えたものの、

それはあまりに馬鹿げています。 当時のPhilippineで売春稼業は、

れっきとした経済活動の一端を担っていることに 疑いの余地は

ありませんでした。家族を養い、ホテルに客を呼び、ホテルの

ドアマンにチップをもたらします。今回の旅でも多くのそういった

その稼業の女性を目にしましたが、皆、美しく着飾り、

背筋をピンと張り、堂々としたものです。「何か文句でも!」

といいたげです。 誇りすら感じているんじゃなかろうかと

思える態度の女性すらいます。

    私はそこに一時間ほど留め置かれ、さんざん質問攻めにあいましたが、

何とか疑いが晴れたらしく、入国を許されたのでした。 入国のスタンプを

押された後、別室で私を訊問した女性に、 

   「結局、何で私の入国がそんなに問題だったのですか?」と尋ねました。

 「 ○○ というミドルネームを持ち、誕生日があなたと全く同じ、

日本人のHIROSHI ITOという男性が、 我が国の入国審査上のブラックリストに

載っています」という返事でした。 これはただ単に稀にある偶然の結果だったので

しょうか?それとも何らかの悪意ある力による情報操作による必然の

結果だったのでしょうか?今でも謎です。

 多分今度、Philippineに行くときはまた同じことになるわけです・・・・  

 スンマセン、長くなりました。

 

  この後、何かと怖~いマニラをバスで離れ、アメリカ国外にある中では

世界最大規模を誇った 空軍基地の街、クラークに辿り着きました。

ここでレンタカーを借りて、 ルソン島北部の山岳地帯に向かいます。

 しかし、またしても私に試練が・・・・  以前アメリカ空軍があった街、

ここクラークでレンタカーを借りる手はずになっています。

予約は既に日本で済ませてあります。

  「あなたのご予約を受け付けました。車種は○○、期間は~、

値段は4日間で¥16000です」という画面の後、

普通は支払画面に切り替わるはずなのですが、それが出てきませんでした。

まあ、現地で現金払いでもいいかということで、旅に出たわけです。

 クラークはその後、私が出場するトライアスロンの大会が行われるため

滞在した街、スービック とともにベトナム戦争、湾岸戦争などで重要な基地

となった場所で、 疲労した兵隊を色々な意味で癒した街です。特にそこクラークは

その意味合いが濃く、 世界一の歓楽街といわれていたこともあるほどです。

アメリカ軍が基地を引き払った今でも、 その名残りがあり、

朝から営業するゴーゴーバーがたくさんあります。  そんな色気ムンムンの

街ですから、何かとメンドクサイ事が起きがちです。 トライシクル(原付三輪車)、

ジプニーやタクシーの運転手たちが自転車の入った大きい箱を転がしている私を見て

盛んに「乗れ乗れ!」と声をかけますが、目指すレンタカー屋は、

降りたバス停からさほど遠くないことは日本でGoogle Mapを確認済み(紙に印刷済み)

でしたので 無視して自分で歩いて探します。ところが探せど探せど、見つかりません。

レンタカー屋があったと思われる住所の場所に 辿り着きましたが、そこはただの廃墟です。

周囲のホテルに聞いて回っても誰も知りません。 トライシクルの運転手が

「そういえば、一度そのレンタカー屋に客を乗せて行ったことがある」 という

情報をやっと入手。「でも今はない!」という結末でした!

 そうです、私が日本で予約したレンタカー会社は存在していませんでした!

 まあ、金を払っていないので最悪の事態にはなっていませんが、

廃業したレンタカー屋の ホームページがしっかり残っていて予約まで

受け付けていたのですから困ったものです。トライアスロンのレースの前に、

4日間レンタカーを借りてのんびりルゾン島北部を 観光しようと思っていましたから、

いまさら4日間フリーが出来ても時間の消化に困ります。 ここは思い切って他の

レンタカー屋を探します。

 ああ、ここで断っておきますが、(もっと早く断っておくべきでした、スンマセン)

私の旅には、 携帯電話がありません。あるのは30年前の「地球の歩き方」だけです。

 さっき話したばかりの、トライシクルの運転手に「この辺でレンタカー屋を知らないか?」

と 聞くと意外や意外、徒歩3分の所に世界にネットワークを持つ最大手「AVIS」が

あるではないですか! 客がドアをノックしない限り、鍵をかけておくという方針の店らしく

私の様子を探るように見ながら 若い女性店員が開錠してくれました。

 「今日から車が必要なんだがありますか?」と聞くと、大手とはいえ、

予約が入った時点で用意するシステムらしく、余剰の車は用意していないという。

では、明日はどうか?と聞くと、用意できないという。どこか他のレンタカー屋を

知らないか?というと、 一件知っているといって電話をかけてくれました。

そのレンタカー屋が私を迎えに来て、早速、 その店舗へ向かいました。

道中、そのレンタカー屋の従業員らしき男は車内で盛んに、

 「女はいらないか?いい子を紹介するぞ!」と相当しつこいです。

バックマージンを貰うのでしょう、一生懸命です。

 「さあ着いた、ここです」といって、着いたレンタカー屋の店舗は店舗と

呼ぶには あまりにも貧弱で頼りない店構えでした。

 またしても、いやぁ~な予感がしてきました~  この怪しいレンタカー会社、

前出の名刺の通りですが、JUNEと名乗るボスがいます。

4日間借りると10000ペソ(25000円)だといいます。まあ、平均値でしょう。

 「ミスター・イトウどこまで行くんだ?」というので、

 「世界8大不思議のひとつのバナウェーの棚田を見に行くんだ」というと、

 JUNE、急に態度が硬化します。  「ゲゲゲッ、800kmぐらいあるぞ!!!

そんなに遠くまで行くんじゃ、 1日500ペソ(1250円)上乗せしなきゃいかん」

 と云いだしました。 (実は彼もそこには行ったことながないのです)

 まぁ、それもPhilippineでは一般的な上乗せです。 総額12000ペソ(30000円)です。

日本のレンタカーとそんなに変わりません。

  この、日本とそんなに変わらないなぁという物価の印象は今回の旅で何度も感じました。

30年前の旅では何を買っても ”円が減らない” という気分を味わいました。

当時がバブル期だったことを割り引いても、今、両国の国力の差は縮まっていると

思わざるを得ません。 これ、去年のカザフスタンでも感じました。

 少し話は脱線しますが、Philippine、道を歩いていても30年前のあの酷い汚れた街並み、

今はありません。 今はあれほど酷くはありません。蛇口をひねればとりあえず水は出ます。

トイレだってウンチの後にはきっちり適量の水が出ます。驚くべきことに、

シャワーの水がどこに行ってもとりあえず出ます。30年もすりゃそりゃ、

その程度はかの国だって進歩するさ。 という声も聞こえてきそうですが、

翻って日本は・・・1980年頃「マクドナルドのアルバイトの時給が1000円を超えた!」

という話を聞いてさすが東京は凄いなぁと思ったものでした。

43年経った今、その時給はほとんど変わりません!

     閑話休題  JUNE、今度は「デポジットを5000ペソ(12500円」

もらわなきゃいけない」といい始めました。 まあ、それは車にダメージを時の

保険としての保管金ですので、収めます。 勿論、何もなければ返金されます。(はずです)

 この辺で賢い読者の方々はそろそろ気づいているかと思います。

そうです!保険です!!!保険問題です!  しかしどう考えても、その店構えとボス、

JUNEのよれよれの T-シャツとしわだらけの半ズボンと ペラペラのサンダルでは

そんなものは期待できません。保険の話を持ち出すだけ無駄です。

ここの国民はそういった転ばぬ先の杖のようなものに支出するよりも 転んだら何度でも

起き上がる体力と精神力に注力する人達です。  契約書にサインする段になり電話番号の

欄に書かれている妙な番号を見たJUNE、

 「この番号は何だ?」というので、「私の家の番号だ」というと、

 「何かトラブルが発生した時の為に、携帯の番号を書いてくれ」といいます。

 「携帯?そんなもの、あっしは持ち合わせていませんぜぇ」というと、驚愕の表情で

 「携帯を持ってないだって!!!いったいそれでどうやって800kmもの旅をやるってんだ!

 GOOGLE MAP なしでどうやって道を探すんだ!」  と、結構な勢いでまくし立てます。

ないものはないのですからどうしようもありません。

 「毎年、こんな調子で外国を旅しているから大丈夫さ」といいますが、取り合ってくれません。

 挙句の果てには「俺の携帯を貸してやる」とまで言い出しました。(案外、いい奴かも)

 「あなたの携帯を借りたって使い方を知らないからしょうがないよ」というと

 「いやいや、こうやってこうやって」と教えてくれます。非常時の連絡手段ナシ。

 でも久しぶりの(多分)上客だから手放したくはない、 というところで彼には

相当な葛藤があったことでしょう。 それでも、4日間で30000円の収入の方が勝ちます。

 JUNE、「何かトラブルがあったら、ここに電話するんだぞ!」 としつこくいいながら

名刺をくれました。OK ! OK ! と返事はしましたが、  その電話するための道具<電話機>を

私が持ってないという事が直感的に 理解できていないようでした。

まぁ、この世界の実情では、 皆持っている、<ありき> で話が進みますから、

やむを得ないですね。   さて、実は、ここにもうひとつの大きな懸念材料があります。

  私は左ハンドル、右通行で車を運転したことがありません!

(正確には35年のブランクがある、です。ほとんど初体験のといえるレベルでしょう)

  そんなことを馬鹿正直にJUNEに話したら多分、車を貸してはくれないでしょう。

というわけで、涼しい顔をしてTOYOTA VIOS という車に乗り込み、

「じゃあ、4日後、正午に戻ってくるよ!」といって、車を出しました。

ウィンカーを右に出したつもりが、ワイパーが勢いよく動き出しました!

 JUNE が妙な顔で私を見ています。でも、もう遅すぎます。

 800kmのドライブ旅行に出発だー 写真は夜食用に7-11で買った妙な飲み物。

多分、Philippine 製ですね。時々こんな日本字表記の物を見かけます。

  さあ、800kmのドライブ旅行に出発だ!

  でもその前に地図を買わないといけません。地図ぐらいは持っていないと

やはり不安です。   レンタカー屋のJUNEが言っていたクラーク最大の

ショッピングモール「SM Clark」に行くと 「National Book Store」なるものが

あると聞いていたので早速行ってみます。が、 あまりに巨大なモールで駐車場を

確保するのに1時間もかかりました。 おまけに自分が停めた場所をしっかり

覚えておかないといけません。 そして自分の車も良く覚えておかないといけません。

何しろついさっき借りたばかりの車ですから。  巨大なモールの中にやっと見つけた

「National Book Store」。大仰な名前の割にはしょぼい店でした・・・・

 「Philippineの地図はありますか?」と聞くと、何やら自信なさげです。

 「これしかありません」といって持ってきてくれたのは 小学校の壁に貼るような

一枚っきりの壁地図でした。という訳で地図購入を断念。 いよいよ30年前の

「地球の歩き方」しか頼るものがない事態に陥りました。 まあ、しょうがないです・・・

 え~い、北へ向けて出発進行! 何とかなるさ !!!   とりあえず目指す先は、

夏場、首都が移転される「Baguio」という高地にある冷涼な都会です。

30年前に一度バスで訪れています。標高1500mにあり、マニラに比べたら別天地です。

夏だけ首都が移転するというのもうなずけます。  ワタクシ、60歳になりましたから、

まあ、自分自身の若かりし頃の恥ずかしい過ちやミスを 公にしてもいいお年頃

ではないかと思いますので、まあ、赤裸々にお話しする次第です。

 30年ほど前、当時静岡で働いていた折、せっせとフィリピパブ通いに明け暮れて

おりました。 散々、散財したものです。ひいきにしていたカレンちゃんがフィリピンへ

帰ることになったというので、 気軽に「じゃあ、来週遊びに行くから」といって、

本当に行ったのでした。正に円高のなせる業でした。 パスポートを尻のポケットに入れてコンビニのビニール袋をひとつぶら下げたままの姿です。 所持金は多分10万円だったでしょうか。  カレンちゃんに電話をして食事の約束をしました。

めでたく私が滞在するホテルに訪ねてきてくれたカレンちゃん。 (このホテルも

チェックインすると間髪を置かず「売春婦のご用命はありませんか?」と

美女が訪ねてくるホテルでした)ところが、そこに現れたのはカレンちゃんの家族は

言うに及ばず 一族郎党・・・といった有様です。12人ほどだったと思います。

当時、フィリピン人は皆、右手で食事をしていましたから私も倣って手で食べました。

するとそれを見たカレンちゃんのお母さん「日本人も手で食事をするのか?」と

聞いたので「箸を使う」と答えたら、「あなたは手で食べるのが上手だな」と、高評価!

 いやいや、高評価されてしまったら、生涯この家族を養っていかなくてはなりません。

ワタクシ、毛頭そんな気はありません。     そもそも、ワタクシ、カレンちゃんと

契も結んでおりませんでしたし、チューすらしておりません。

本当に友人を訪ねる旅のつもりだったのです。まあ、はるばるフィリピンまで

訪ねてくるというところに 並々ならぬ何かを感じてしまったのかもしれませんが・・・

 当たり前ですが、その12人分の食事の支払いで、私の残りのフィリピン滞在は

急激に惨めなものになってしまったのでした。カレンちゃんに

 「マニラは暑いからどこか涼しいところに行ってくるよ」というと、

カレンちゃんが 「バギオというところは涼しいよ」と言ってくれたので

出かけたのが、今回これから行くそのバギオなのです。

ですからバギオ再訪という訳です。 まあ、毎日12人分の食事の払いを

していたら私がすっからかんになるというのがマニラを離れる

本当の理由でしたが・・・本当はここでカレンちゃんの写真でも

出せればよいのですが、手紙と一緒に遠い昔に捨てました。

 バギオから帰って、やっとカレンちゃんと二人で食事をする機会があって、

 「ITOさん、お母さんの足の治療代にお金がかかるの」と、

金の無心をされた時にはなんか、 こりゃ無理だ、と妙に晴々した気持ちに

なったことを覚えています。  あの時はマニラからバスで行ったので道程の

ことあまり覚えていませんが ピナツボ火山が見えたのだけははっきり

覚えています。1991年のこの火山の噴煙は成層圏まで達しそれから

二年間北半球が冷夏になったという 物凄い噴火だったのです。

その為アメリカの基地も撤退を余儀なくされたのでした。

冷夏の影響で日本人がタイ米を食べたのもこの時です。

 

  あれっ、旅が進まないぞ~  

 写真はバギオのホテル。  昔の名残りですね、

 フィリピン、何があってもいいように、 常にバケツに水を

ためておく習慣があります。え~、この宿は¥5000でした。

フィリピン、昔ほど安くないです。

   

  北を目指してドライブします。  途中から高速道路に入りました。

何から何まで日本の高速の雰囲気に似ています。それもそのはず、

「日本の協力によってできた高速道路」の標識がありました。

ガソリンも入れてみました。あれっ、高いぞ! 150円/リットル

ほどですから日本と同じです。フィリピンの方々この価格のガソリンを

入れて尚、車を所持できているんです。やはり30年前とは雲泥の差です。

この国の人達は辛抱強く逞しく生きているようです。

 夕方、目指す Baguio(バギオ)に着きました。Clark(クラーク)

から3時間ほどでした。高速を走ったのであっという間でした。

高速料金は1200円ぐらい。これも安くないな。

  夕刻の物凄い渋滞です。「HOTEL」の看板を見つけ飛び込んだのが

写真のホテルです。2000ペソですから5000円!これも安くないです。

 水のシャワーを浴びて通りに繰り出します。

 向かいにあったレストランで旅一日目の安着祝い。

ビール3本と二品の料理で455ペソ=1200円ほど。

RED HORSEというビールがいける。隣の席では若者がアルコールなしで

盛り上がっている。結構健全な感じがする。

  翌朝、7:00amには部屋に朝食が届く。が、写真の通りのお粗末な感じ・・・

昨日、チェックインの際には「朝食も付きますが何が良いですか?」と大威張りで

聞いた割りにはなぁ・・・  チェックアウト後、いよいよ、今日も北へ向けて出発。

のつもりでしたが目の前を走る車を目で止めて向こう車線に出るのは私には

不可能な事がはっきりしていました。この世のものとは思えない早朝の大渋滞です。

ホテルに戻り、若い男に「この車の流れを一瞬、止めてくれ」と頼んで、車に待機。

緊張します。人間が出て行き、止めると、皆結構、素直に止まってくれるようでした。

といわけで、何とか脱出成功!  しかし都会、バギオからの脱出はそう簡単では

ありませんでした。山の頂上付近にある街ですから、道は上りか下りで、

くねくねの連続。せっかく、陽が昇ってくる方向、東を目印に走り出しましたが

一向に街から脱出できません。事故を起こさなかったのが不思議なほどの

大渋滞の中を彷徨いました。信号機はありますが、警察が出て手信号で指示を

出します。どうやらそのほうが流れるようです。

 フィリピンの一般道にはその先にある街を示す標識がほとんどありません。

日本によくある「○○まで○○km」というあれです。ですからに、方角を信じて

走り続けるしかありません。が、陽が真上にある時には困ります。

そうです、方位磁石があれば、相当強い味方になることがこの旅で分かりました。

Google Map よりも方位磁石ですね。バギオから脱出できた辺りからやっと渋滞も緩和。

街へ向かう渋滞は相変わらずですが、田舎へと向かう私の車はのんびり運転できます。

私が思っていたのんびりとしたドライブがやっと始まりました。

 そのうち、前にも後ろにも車の影がなくなりました。いよいよルゾン島北部山岳地帯に

入ってきました。スピードは出しても40km/hがよいところ。くねくね道が続きます。

昼ごろ腹が減ってきましたが、街はおろか民家もなくなってきました。

まあ一食ぐらい抜いても死にはしません。我慢して旅を続けます。

 と、そこへ、何やら食堂風な建物が出現。テーブルでおばちゃん2人が昼食の

真っ最中でした。一度は通り過ぎましたが、山の中で何とかUターンしてそこへ戻り、

「何か食事をください!」というとそのおばちゃん達、妙な顔で私を見ます。

そして、自分達が食べている鍋を指差して「好きなだけ食べて行きな!」といって

笑っています。「あれっ、ここは食堂じゃないんですか?」と聞くと、

またしても大笑い。骨付きの豚肉を塩と何かの葉で茹でたものと、

ごはんを皿に盛ってくれました。私も右手で掴み、豪快に頂きます。そのうち、

近所のおばちゃん達も集まって、「この日本人、ここが食堂だと思ったんだってさ!

がははっ!!!」  といのが、下の写真です。

その名の示す通りの山岳地帯に位置する ”マウンテン州” の州都である”ボントック”と

いう街の両替所でやっと、ペソを手に入れてひと安心。

 もうそこはインディオの居留地です。通りを行き交う人達は、皆、

Tシャツに短パン、サンダルという西洋の装いですが、その顔をよくよく見ると皆、

立派なインディオです。  その街に博物館があるというので行ってみました。

 その一帯のインディオには首狩りの習慣がありましたが、その記述はや写真は

どこにも残っていませんでした。なんでかなぁ~  しかし私の目指す棚田を2000年も

前から今に至るまで耕し続けている姿は、初めて西洋人がその一帯に入った

1906年から写真としてしっかり残っていました。インディオの誰もが体中に

入れ墨をしています。  その博物館で絵葉書を発見!5枚購入してホテルで書きました。

    しかしその後、フィリピンで絵葉書を見ることはありませんでした。

この世界から紙地図と絵葉書が消えかかっていることを知る人はあまりいません。

 その午後、山道をもうひと走りして、世界の八大不思議に数えられる

”バナウェーの棚田”がある、バナウェーに向かいました。途中、前日の大雨で崖崩れが

あって30kmほどの遠回りをさせられましたが、フィリピンでは珍しいこと

ではありません。崖崩れの現場直前まで行って、「この先は通れない」と

いわれましたが、「どこかに迂回路はないか」と聞き返すと、

何やら答えてくれましたが、その道を言葉で把握するのがとても難しく、

すったもんだしていると、交通誘導員が「じゃあ、俺がバイクで先導するから

ついてこい」といってくれ、10分ほど走り無事、迂回路に入れました。

 夕刻、バナウェーの街につき、真っ先に見えた ”HOTEL" の看板に従い

行ってみると超豪華HOTEL。ちょっと気が引けましたが、

値段を聞くと3000ペソ(7500円)というので、「もっと安い部屋はないか」

というと、「ないが、その部屋を安くする」というので2500ペソ(6250円)

で合意。聞けば1969年建造だといいます。なるほど、それ以降、

改築した形跡がありませんから、建造当時の豪奢な感じがしっかり残っています。

 強烈な坂道を歩いて下って街に入り、食堂を見つけて入ります。

フィリピによくある、好きなおかずを指差して、ライスとともに皿に

よそってもらう定食屋です。フィリピン、どこへ行ってもこれがあり、

重宝しました。ビールを頼むともじもじしていましたが、隣の店に行って

買ってきたらしく、常温のサンミゲールがやってきました。それを2本飲んで

旅二日目が無事終了。しかし直後に強烈な雨が降ってきてホテルに帰れません。

食堂のおばちゃんから傘を借りて何とか帰りました。「明日必ず返してくれよ!」

とおばちゃん、真顔でいってました。

  翌朝、6:00amに起きて、ホテルのレストランで朝食をします。

ウェイトレスが席に案内してくれて、テーブルに着くと、

彼女がやや大袈裟に窓のカーテンを開けます。

そこに見た光景は私の語彙力を以っては全く表現のしようがないものでした。

そのホテルは崖にへばりつくように建っているのでした。ちょうど浅間山荘

のような地形です。(ちょっと古いが、これが言い得ています) 谷底に向かって

耕された棚田が180度見渡せます。向かい側の山肌には空に向かって伸びる棚田が

朝霧に霞んで見えます。ウェイトレスに「ひえ~、凄いなあ」というと、

そうでしょう!としたり顔で微笑んでいます。この眺めを見て、

息をのまない人はいません。ホテルに巣をつくっているのでしょう、

ツバメの大乱舞まで見られます。  しかしその眺めがこの旅のハイライト

ではありません。その日は、”天国への階段” と例えられる、BATAD (バタッド)

の村にある棚田を目指すハイキングが待ち受けています。このハイキング、

一筋縄ではいかない道のりだと聞いています。

     

 

     旅、三日目。7:00amには出発します。

 昨日、定食屋のおばちゃんに借りた傘を玄関の隙間に押し込んで、

「BATAD」(バダット)へ向かいます。  だんだん道が怪しくなってきます。

このまま進んで大丈夫なのだろうか?と思わせます。  やっと標識が現れました。

「BATAD」急傾斜です!マジですか?とひとり躊躇していると、そこへ車が一台止まり、

女性が降りました。彼女に向かい「バダットはこの道でいいんですか?」と聞くと、

「ああそうだ」(何か問題でも?)という顔をしています。「あなたはバダットへ

行くのか?」と聞くと、「そうだ」と答えるので、「じゃあ、乗っていくか?」

と聞くと、大喜び!シートベルトをしないと警報が鳴りっぱなしでうるさいので、

「これをやってくれと」指差すと、「ここではそれは必要ない!」

といってやってくれません。しょうがなく、彼女の背中を回してシーベルトを合体。

やっと警報が鳴り止みました。(ふぅ~)  彼女54歳、なんとバダット出身で、

おじさんの葬式にやってきたのだといいます。とても流暢な英語を話します。

私よりも立派な英語でした。ああ、言い遅れましたが、勿論イフガオ族の

インディオです。 道すがら、「この道はいつからあるんだ?」と尋ねると、

しばし考えて、「20年前に出来た」という答え。「えっ~、じゃあ、それより前は

ここを歩いて町へ通っていたんですか?」。「中学校へは片道2時間かかった」と

平然というのでした。

 途中、「そこで甥っ子が土産屋をやってるから寄ってくれ」というので、

そこでひとやすみ。すると彼女、「Tシャツでも買ってやってくれ」

というではありませんか。車に乗せてやったのに何で買い物までしなきゃないの

かね~と思いましたが・・・・

 「これのMサイズはあるかい?」と聞いている私がいました。

250ペソ(625円)の出費。まぁ、Tシャツとすりゃ安いんですけど、なんだかなぁ~

 今度は甥っ子、「棚田からその先を歩けば、隠れて見えない、巨大な滝がある。

そこまでの道中のガイドは必要ないか?」と聞いてきます。ワタクシこの手の、

押しの強烈なセールス、得意ではありません。もう少しで「ああ、じゃあ、頼む」

と言ってしまいそうでしたが、すんでのところで、その言葉を飲み込み、

「大丈夫だ」と断りました。我ながらよくやりました!  断わられれば、彼ら結構、

「ああ、そうか」で終わります。「滝までの案内標識はないのか?」と聞くと、

「ない!」だそうです。そういいながらスマホをいじっています。  そういえば、

この旅で私は大勢の人と話しましたが、片手にスマホを持っていない人は、

今その瞬間シートベルトをせずに私の隣に座っているそのインディオの

おばちゃんだけでした。  いよいよ道が行き止まりになり、車を停めて、

ハイキングに出発です。ワタクシさすがにサンダルではそのハイキングを完遂

できそうもないので、IRONMAN RACEで履く予定のジョギングシューズに

履き替えました。これ大正解でした。おばちゃんと一緒に下り始めます。

 このハイキングコース、一般人で往復4時間といわれています。

一般人といいますが、健脚あるいは、豪脚の類の人でなければそもそも、

下りません。棚田の眺望が見えた辺りに出現する急勾配の下り階段を見ただけで、

一般の人は「あぁ~、無理!」といって踵を返すこと間違いなしです。

まあ、途中のインディオの村に宿泊施設もあるといいますから、

一泊する覚悟なら大丈夫でしょうが・・・ あぁっ、滝まで足を延ばすとなると

もう1時間超かかるらしいですから、合計5、6時間のハイキング!です。

 アメリカ、グランドキャニオンのハイキングは下りー登りで8時間ほどだったと

記憶していますが、ハイ、こっちの棚田の方がキツカッタです。我が郷里には、

北山崎という断崖をやはり下って登るハイキングコースがありますが、

これの10倍大変です。  インディオによって2000年もの間、踏み固め続けられた道

を下っていきます。初めはジャングルの中を歩いている感じですが、

途中で一気に視界が開け、眼下に棚田が見えます。そこに彼女の亡くなったおじさんの

商店がありました。彼女とはそこで別れました。が、彼女、「この先、大変だから、

食料と水を買っていって」と、またしてもオネダリ・・・水を買いました。

でもこれがあったおかげで猛暑の中のハイキングをやり遂げられました。

 途中、授業中の小学校の校内を通ります。窓が開け放してありますからフィリピンの

授業風景をしばし眺め、休憩。斜度が急ですから、あっという間に標高差を稼ぎます。

石の階段、転べば大変ですので慎重に下ります。

 「こりゃ、5日後のトライアスロンのRaceに響くかもしれないなあ」と思いながら歩を

進めます。周囲の景観を眺めながら下るという事は出来ません。足場が不規則ですから、

立ち止まって、息を整えている間に視線をあげる程度です。歩いている間は常に

視線は足元です。  ハイキングといいますが、実のところ我々が歩く道は、

彼らが農作業をするためのあぜ道です。時々、農作業の道具を持ったイフガオの

人達とすれ違います。皆、年寄りで若者の姿はありません。いずこも同じ問題を

抱えているようです。  視界が開け、ついにバダットの村の棚田の全容が見えてきました。

  ひえ~、絶句!  なるほど、少しいびつではありますがすり鉢状の棚田です。

傾斜が急すぎますから耕作面積は横に細い形状になり、その上や下の棚まで2mほどの

落差が生じます。これでは作業効率がいいはずはないのですが、

それでもすり鉢状という事で一日中、一年中どこかの棚に必ず陽が注いでいるという、

好条件の土地という事にもなります。棚田のこっちでは田植えをして、

あっちでは稲刈りをするという事が可能な土地という事になるのでしょう。

なるほどなぁ~と妙に感心。  おまけに究極の盆地ですから、棚田の最下部には熱が

こもって、水蒸気が発生し、棚田の最上部の辺りで雨を降らすなんてことがあるのでは

ないかと想像しました。もしかして、そのすり鉢状の棚田の標高差の中で水の循環が

完了してしまっているのではないでしょうか。そうだとしたら、そこは小さな地球を

再現した土地に他なりません。こりゃすごい田んぼだといわざるを得ません。

だから、不便な急傾斜の田でも2000年も守り続けてきたのではないでしょうか。

農作業は大変だが、安定した実りを保障してくれる棚田というのが、

バダットの正体なのかもしれません。恐るべし、2000年前のイフガオのインディオ達。

 でも。首狩りの習慣があったなんてなぁ~ 怖い、怖い。  すり鉢状になった棚田の

最下部まで下りて周囲を見上げると、まあ、よくもこれだけ造ったもんだ!と

ただただビックリ。  下っただけですが、結構、足にキテいます。

太腿の辺りでブレーキをかけているからでしょう。そこからもう一丁、

気合を入れて、幻の滝、「タッピア」を目指します。まあ、幻といっても、

見えていないだけでいつでも流れているといいいます。イフガオのおばちゃんに確り

場所を教えてもらったので大丈夫でしょう。それにしてもおばちゃんの甥っ子が

いっていたように、全く標識の類がないのには驚いた。まあ、世界遺産だというし、

世界の8大不思議のひとつなのだというから、少しは秘密めいていたほうが

いいのかもしれない。  また一度登らされて、強烈な下りをしばらく下ると川が

見えてきました。滝があるのはその上流でしょう。途中、小さな土産物屋があり、

少女がひとり店番をしていました。毎日、村から歩いてくるのでしょう。

「GOOD MORNING !」と声をかけると、元気な声が返ってきました。

 気温がどんどん上がってくるのが分かります。盆地の最下部のあたりだから尚更、

蒸し暑い感じがします。途中で買わされた?水をがぶ飲みます。買わされてよかった!

 いよいよ、川の流れの横を歩きはじめ、大きく左に曲がったところに爆音を

響かせながら流れる「タッピアの滝」を目撃。それほど巨大で、水量豊かな瀑布

ではないですがなかなかたどり着けないってところがこの滝のミソなのでしょう。

東屋で写真を撮り、10分ほど休憩して、引き返しはじめました。

 そこからがその日のメインディシュって訳です。61歳、そこそこ鍛えてますが、

かなり効きましたねえ~ 発汗も凄いですが、心の臓の鼓動の大きさといったら

なかなか経験できないレベルです。私の薄い胸板を突き破らんばかりの勢いです。

鼓動が耳元でも大きな音をさせています。  途中の土産物屋で5分休憩。

目の前に見える黄熟したフルーツの木の名を少女に聞くと、パパイヤだという。

大汗をかいて心臓バクバクの俺のからだで熟したパパイヤを食べたらどんなに

美味いだろう・・・・  棚田地帯に戻って、来た道とは違うコースで

帰りたいなあと思い、ルートを探しますが、その通り、標識や看板といった物が

一切ありません。この棚田地帯で道を間違えて、遠回りや迷子になったら一大事です。

素直に来た道を帰ることにしました。  途中、あのイフガオのおばちゃんと別れた

商店へ寄って、「滝まで行ってきたよ」と伝えると、文字通り、

目を丸くして驚いてました。「もう行ってきたのかい?」。

 「ああ、写真も撮ってきたよ」といって見せようとしましたが、

見せ方が分からないので諦めました。  そこから10分ほどで無事、

ハイキングスタート地点の駐車場まで戻り、旅の目標完遂!5~6時間かかると

いわれているルートを2時間20分で走破。  全身汗だらけなので、

Tシャツを着替えていると、男が現れ、「ほう、もう戻ってきたのか、速かったなあ」

といいながら近づいてきました。ところがろれつが変です。酒か薬でぶっ飛んでいる

ようです。こりゃ、危険です。着替えも早々にして、車に乗り込んで即刻退却しました。

バックミラーでその男を確認すると、銃で私を撃つ格好をしているではないですか。

いやぁ、危ないですねえ。 その日の道中、道路に出ていた看板の一言が思い出されました。

   <我々に HEROIN(ヘロイン) は必要ない、必要なのは HERO だ>

 フィリピンの前大統領、デゥテルテさん、相当数の麻薬犯罪者を殺したはず

なんですけどねえ、こうして田舎にはまだまだ残っているんですねえ。

  さて、あとはクラークの町に戻るだけです。400kmほどです。大都会、

バギオはもう通りたくないので、来た道とは違うルートで帰ります。

とはいっても地図がないので30年前の「地球の歩き方」のバサッとした地図で

方向だけを信じて、Let's Go !   田舎道を走りますから、気楽なドライブです。

  

  夕刻、サンホゼというちょっとした町に着いて、「HOTEL」 の看板を見つけて

チェックインしました。建物は改装中らしく散らかっていましたが、値段を聞いたら

1200ペソ(3000円)だというのでまあよしとしましょう。その町の中華料理屋で

豪勢な食事をした後、ホテルへ戻り、フロントロビーでたむろしていた労働者の人達に、

 「ここからクラークまで行くにはどうやっていったらいい?」と聞いていると

何処からともなく、一人の男が現れ、「日本人ですか?」と日本語で聞くでは

ありませんか、ビックリしました。聞けばそのホテルのオーナーだというのです。

車の日産で働くため、4回ほど日本に滞在したといいます。奥さんも少し

日本語を話せます。というわけで、彼(名は失念した)にクラークまでの地図を

書いてもらいました。

  翌朝、6:00amには出発します。朝の渋滞には引っかかりたくないので・・・

 彼が書いてくれた地図でだいたいのルートは間違いなく走りましたが、

どこか一か所でミスったらしく迷ってしまいましたが、給油ついでに道を尋ね、

何とか、フィリピンを南北に縦断する高速道路に合流成功。そうなると、

クラークまではスグです。レンタカーの返却予定は明日の正午ですが、どうやら、

今日の正午にでも戻れそうです。まあ、もう一日どこかをぶらぶらドライブする

手もあったのですが、如何せん地図がないものですから、あまり時間的余裕のない

旅は危ないので、じっと我慢して、帰ることにしました。  高速道路を120km/hで

ぶっ飛ばします!でも警察には気を付けます。異国で捕まったら面倒くさい事

になりますから。  やっぱり、クラークに昼前には着いてしまいました。

おとなしくレンタカー屋に戻ります。すると、ボスのJUNEが「おいッ、

いったいどうしたんだ、帰ってくるのは明日の正午の約束だろう!」と

ビックリしています。

 「地図ナシの旅では、バナウェーの棚田に辿り着けなかったのだろう?」

といいますが、「いやいや、行ってきたよ、ほらここに写真が・・・」といって、

写真を見せたかったのですが、やり方が分からないので、見せられません。

どうも、本当は私は辿り着けなかったのだと思っている風です。

 「JUNE、約束だと明日の正午まで借りているんだから、このまま俺を

トライアスロンの行われる町、SUBIC(スービック)まで連れて行ってくれないか?」

というと、何やら思案中の様子。  「いやあ、そうすると、スービックまでの運転手の

人件費と高速代と・・・」結構な額を請求します。というわけで、その件は私も

あきらめました。まだ一日契約が残っていますが、車を返すことを提案しました。

 「車は今ここで、返すから、デポジットを返してくれ、一日契約が残っているけど、

残金を返してくれとは言わないから」ときっちり言い添えましたが、

大男のJUNE何故かモジモジ、煮え切りません。  「ボスが来なけりゃ、5000ペソ

は用意できない」というではありませんか。 「JUNE、あなたがここのボスじゃなかった

のかい?」  「何しろデポジットの5000ペソは明日でなければ払えない。

何しろ約束が明日なのだから」まあ、そう言われりゃあ、そうかもしれません。

 今度はJUNE、車の周囲を回り始めて、車の点検中です。

  「う~む、このバンパーにある傷は貸す時にはなかったと思うんだがなぁ、

あれ~、この後輪のホイールとタイヤの間にあるゴムの突起物はなんだ~、

いったい何キロ走ってきたんだ?」  JUNE、何やら難癖をつけ始めました。

これ、小さなレンタカー屋ではアルアルなのでしょう。そうやって、

デポジットとして収めた5000ぺソ(12500円)を払わず、ポケットしようと

している訳です。フィリピンの山岳地帯をドライブしていれば道路わきの雑草を

かき分けて走ることは避けられません。まあ少々の傷の類は残るでしょう。

JUNE、どうやら、どうしてもデポジットを戻したくない様子です。これは難題です。

 JUNEに聞いて、その店からすぐそこに見えるホテルに宿をとって、一日ゆっくり

過ごすことにしました。善後策を考えないといけません。が、とりあえず、

床屋に出かけます。  フィリピンで流行の髪型にカットしてもらいます。

 150ペソ(375円)なり!安い!男前?になりました!  そのホテル、

次から次と売春婦がやってくるホテルでした。その一帯、そういった店が連なっている

地域でしたからまあ、当たり前ではありますが・・・ホテルの入り口でドアボーイが

うやうやしく売春婦を部屋まで案内してはチップをもらい、商売を終えた売春婦は

威風堂々、張り裂けそうな胸を尚、張って帰っていきます。  30年前は彼女ら、

とりあえずドアをノックして「こんにちは、売春婦のご用命はございませんで

しょうか?」といいながら商売に精を出していましたが、やはり今はスマホを使って、

呼び出しているのでしょう、隔世の感があります。今回の旅で一番いい部屋で、

のんびり過ごせました。  翌朝、7:00amには起きだして、朝食に出かけます。

  が、が、が、が~ン!!!! 何てこった!!!!

  俺の車の右後輪がパンクしてるじゃないか!!!!!!

  私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、デポジットを払いたくなさそうな

態度丸出しの、JUNEの顔だった・・・・・

   まだ返していないレンタカーがパンクしているとなると、やはりこれは、

修理や交換などで、十分にデポジット返金拒否や減額の立派な理由になることは

容易に想像できました。  う~む、レンタカー屋のJUNEの野郎、

自分でタイヤをパンクさせておいて、「あれっ~、パンクさせちゃったの、

ミスター・イトウ」などといいながら、ひと芝居うつ、彼の姿が目に浮かびます。

 とはいっても、これは私の想像にすぎませんから口に出して言えること

ではありません。  ホテルにやってくる売春婦からいつもチップをもらって

嬉しそうにしているドアマンの老人に尋ねます。何しろ、

私の車はホテルの入り口にいちばん近いく、ドアマンがいつもいる目の前に

停めてあったのです。 「昨日ここに停めた時にはパンクなんかしてなかったのに、

見てくれよ、いったい、いつ何が起こったんだい!」  「昨日の勤務の野郎が夜の

11時に帰ろうとしたときには、既にパンクしてたらしいよ」というのです。

闇夜に乗じてJUNEの野郎、アイスピックのようなもので一刺しして、

トンずらしたに違いない!想像が確信に近づいてきます。

 ホテル、フロントの女性にいうと、やはりホテルの駐車場内で起きたパンクなので

少し責任を感じたのでしょう。「駐車場内の防犯カメラ映像を確認してみましょう」

といってくれました。  そうです、やはり、彼女も犯罪を疑っているのでした。

実はよくある案件なんかも知れません。社長じゃないと防犯カメラ映像を

戻してみることはできないという事で何処からか社長が呼び出され、

私は社長と二人で事務所に座り込み、私が車を駐車した昨日の正午前からの

映像をチェックし始めました。私が車を駐車し、ホテルに入っていく様子がしっかり

映っています。しかし、私の車の横に停まっている大型のバンおかげで、

肝心の右後輪部は陰になっていてその映像からは何も得られないことが

はっきりしました。低く屈みながらバンの横を進みアイスピックで一刺しして、

そのままの姿勢で戻れば、完全犯罪、完了です。  その映像を見た社長も、

やはり少し私の事を気の毒がってくれている様子でした。何しろ、彼の駐車場内での

出来事ですから。  あのJUNEの何とも胡散臭い態度や、実は社長でもないのに

社長の素振りで商売をしたりする姿を見ていた私は、ホテルの社長に正直に聞きました。

「レンタカー屋のJUNEは信用に足る男か?」すると社長、「う~む、私のホテルでも

時々、客の送迎を彼のところに頼んだりして6年ほど付き合いがあるんだがなぁ~」

といいますが、あいつはいい奴だ!正直で真面目だ!と即答、言い切りはしないところに

全てが語られていたように私は受け取りました。社長自身、何か臭うと思っていたの

かもしれません。(・・・私の想像が膨らみ過ぎて、全て私の都合のいいように解釈

していたかもしれませんが)  すると社長、「私が一緒に彼のところに行ってあげるから、

事情を話そう」といってくれました。百人力です。  社長が、「やぁ、JUNE 元気かい?

商売はどうだい?」とひと通り挨拶を済ませますが、JUNE、私と社長が一緒にいるのを見て

不思議がっています。(の、ように見えるのも私の思い過ごしかもしれません)

 ココから先は二人ともタガログ語で会話していますから、何をいっているかは

想像しか出来ません、が、JUNEが、妙に明るく、「パンクぐらいどうってことはないですよ、

社長!」といっているのだろうという事は容易に想像がつきました。その証拠に、じゃあ、

今から行って、タイヤ交換をしようという事になったのです。  とはいうものの、

太っちょのJUNE、隣のバンとの間が狭いため作業が難航します。腹が出過ぎで、

屈みながらジャッキをかける位置を探す、見つけることができません。

結局私が全部やる羽目になりました。  「パンク何て、たいした問題じゃないよ!

ミスター・イトウ!」などといっていますが、作業しているのは全部、私です。

 「この国じゃパンク修理なんて、200ペソ(500円)さ!安いもんさ、ハハハッ!」

 でも、タイヤ交換しているのは、私です。  「よし、これで完了だ!、ミスター・イトウ、

約束通り、正午に来てくれ!」完了させたのも、私なんですけど・・・・

  とりあえず、ホテルの社長のおかげで一難去った感じになりましたが、今度、

正午に行ったときに、JUNEが、ええっと、タイヤ一本分の値段が・・・

タイヤ交換代が(やったのは俺ですけど・・・)バンパーの傷が・・・などといいだし

かねません。その時の対処を考えながらベッドに横になります。

 実際タイヤはパンクしていますから、確実にパンク修理代は発生します。

今となっては、パンクの原因は問題ではありません。誰も知らないし、

知りようもないですから(JUNE以外には・・)  デポジットの5000ペソ(12500円)、

全額払えない、といいだしたら少し戦うか。それとも、争わず分かったといって

引き下がるか。思案のしどころでした。12500円が高いか安いかはあまり問題では

ありません。汗水流せば何とでもなる金額ですから。JUNEの術中に完全にはまると

いうのが気にくわないのです。  結局、私は12500円が最悪、返金されなくても甘んじて

受け入れようと決めました。入国時に揉めた一件も少し引っかかっています。

この国でのトラブルは避けようという結論です。晴々とした気持ちには

なれませんでしたが、まあしょうがありません。  正午、気が重いですが出かけます。

 そこにはいつものように、従業員なのか、近所の知人なのかよくわからない人が

数人いて、スマホを手に忙しそうにしていました。フィリピンでは日中、

男がぶらぶらしているというのは当たり前の風景です。女性がよく働きます。

 「JUNEはいるかい?」と聞くと、誰からともなく「今すぐ帰って来るよ!」

という返事でした。ソファーに横になっている男が問わず語りに話しかけてきました。

 「おい、日本人。あの車はいったい、一日何ペソで借りたんだい?」

 「一日2500ペソだったが、走る距離がハンパないというので500ペソ上乗せされて、

合計3000ペソさ」というと、その男、「チクシヨー、JUNEの野郎、

そんなに儲けやがってるのか」と、釈然としない様子です。

そこへJUNEが帰ってきました。  決戦の時です。多少は粘る気でいましたが、

トラブルになる直前では完全に引き下がります。

 「ハロー、ミスター・イトウ、これが預かった日本の免許証だ。それと、

デポジットの5000ペソ!」  あれれっ、返してくれるの?そんなにあっさり。

パンク修理代もとらないの?どうしたわけでしょう、見たこともない妙に明るい

笑顔です。これ幸いと私は大急ぎで、「JUNE、じゃあね、有難う!」といって、

ホテルへ戻ろうとしました。すると、私めがけて後方からJUNEの大声がしました。

 「ミスター・イトウ!車の鍵!」  なるほど、車の鍵が私のポケットに入った

ままでした。  私はホテルの部屋に戻り、1000ペソ札のいちまいいちまい広げて

透かしや印字の確認をしました。一見すると偽札には見えません。

昨日のいかにも見え見えのデポジットを返したくない態度とは真逆の、

今日のあの爽やかなJUNEの笑顔と態度はいったい何だったのでしょう?それとも、

全てが私の思い過ごし、勘違いだったのでしょうか?あるいは、ホテルの社長と

一緒に尋ねた結果がJUNEの心境に何か変化を生じさせたのでしょうか?

 結果的にはパンクさせてしまったにもかかわらず、金を失う事も、

言い争いをすることもなく5000ペソが戻ってくるというハッピーエンディング

になりました。これでやっとトライアスロン決戦の地、

SUBICへ向かう事が出来ます。やれやれ。  と、終わりそうなところですが・・・・

 この話には落ちが付きます。  ハッピーエンディグと書きましたが、

一人だけハッピーではない人がいたのです。  レンタカー屋の事務所にいて、

ソファーに寝そべって、私にあの車は一日いくらで借りたんだ、と聞いてきた男です。

JUNEが出先から帰ってきた気配を感じた途端、無言になった彼は、

JUNEがいなくなった一瞬の隙に、私にこう話したのでした。

 「ヘイ、日本人、お前が借りた車は俺の車だ!」  JUNEは友人から車を借りて、

それをまた貸ししてその差額で商売をしているのでした。その友人、

私がJUNEに払った額を聞いた途端、JUNEの儲けた額を知り、相当憤慨したのでした。

 私は何か、生き馬の目を抜くかのような、この国の抜け目なさや、

ずる賢さを垣間見たようで身震いしたのでした。この国で隙を見せれば誰かにさされ、

抜かれます。  次は、やっとトライアスロン レースの模様をお伝えします。

 

 

  決戦の地、SUBICまではCLARKからバスで1時間半ほど、214ペソ(535円)なり。バスターミナルからはトライシクル(原付三輪車)で10分ほど、375円。   スービックという町は撤退したアメリカ海軍の基地だった跡地で、今現在は特区として、明るくて清潔で広々したいわゆるアップタウン的な街となっています。一方、橋一本隔て、私が泊まったホテルのある場所は、真逆で、暗くて人が多く、ごみごみしているダウンタウンですが人々の生活感が間近に感じられます。この境界はガッチリしたゲートで警察によってきっちり管理されていて、乗り入れる車の制限などもあります。   さてこの旅で、一番心配していたのが、その日から6泊する予定のホテルでした。何せ、一泊¥2000もしない安宿ですから。  ところがどっこい、あれれ、古い建物ですが全く問題なし。クーラーもしっかり効いています。(使いませんが)同じレースに出るブルネイから来たという男も、「この宿は大当たりだな、ドアをノックする売春婦は来ないし、近所にいい飯屋もあるし」  やはり皆、チェックインとともにドアをノックするシステムがあるこの国の売春婦には、苦笑いのようです。  ただし目の前の川の悪臭はいただけません。ちょうど川底の泥をあげたばかりらしく、泥の山が川岸に出来上がっています。そんな事お構いなしに、人々は夕涼みに集まってくるのでした。泥揚げしたためでしょうか、川面では50cmはあろうかという無数の魚が、酸素不足なのでしょうか、口をパクパクさせながら、悶え苦しんでいます。  夕刻、橋を渡り、アップタウンにあるモールに出かけてみました。最上階に映画館があるというので入ってみました。入場料は300ペソ(750円)です。見たこともないほど巨大なスクリーンで客席は優に200はあります。始まった映画は車やトラックが変身して人間になり、悪い奴らと戦うという話。(後で聞いたら、「トランスフォーマー」という映画らしい)さすがに英語も公用語のフィリピン、私が笑えないところでも大笑いが起きます。  翌日、レース会場を下見に出かけます。できれば、SWIM会場で泳ぎたいところです。が、生憎、波が激しいです。でも、やはり何人かが泳ぎに来ているようです。フロリダからきたというTOMという名の70歳の男性は、「君は何歳だ?」と聞くので「60歳だ」と答えると、「まだまだ若造だな、がははっ!」とひとり大笑いしてました。  私が海へ入ろうとしていると、後ろから、「スミマセン、上げてくれますか?」という日本語の声が聞こえます。背の低い女性がウェットスーツの背中を私に向けて、ジッパーをあげてくれという仕草をしています。なるほど、そういう訳ね。日本語のアクセントが妙なので、帰国子女の方のようです。女性の背中のジッパーを下げることなく、上げるだけというのは何か空しいものです・・・この女性、結局、女子総合2位になってました、すげぇ~  その夜、いつもの定食屋で晩飯です。その店は通りに面していて、ドアもなく誰でも入れる構造になっています。10種類ほど作り置きされ、大皿に盛られたおかずを指差して、これひとつとこれひとつ、ライスもひと盛り、と頼んでいると、横にいた子供2人がさかんにソーセージを指差して、私に何事かいっています。勿論タガログ語なのでなにをいっているのか私には皆目見当がつきませんでしたが、どうやら、私に施しを求めているという事を後で気づきました。次から次に店に入ってくる客に同じことをやっているからです。そのうち今度は私が食べている横に来て、私の皿を指差して、「これをくれ!」という仕草をします。いやぁ、これをやられると、食べている気分など吹っ飛んでしまいます。それを見ている店の女将も困った顔をしています。しばらく私のところで粘ったものの、この日本人はけち臭いと思ったらしく、他の人のところへ移動していきました。  いやぁ、かなり考えさせられましたよ、こんな俺でも・・・  あの子供たちは、俺を試しているんではなかろうか?  「施しを受けるものも、するものも、明日になりゃ、逆転するかもしれないんだぞ」  「ソーセージ2本、買えない訳じゃあるまいし、このケチ野郎!」  カトリックの国で、神に出会ったような気分でいました。物乞いをする子供たち、実は俺を試している神の化身なのではないだろうかと。こんな俺でも、こうしていつもと違う日常に遭遇すると考えさせられます。こうなると、のんびり食事などしていられません。味などしません。  子供たち今度は店の女将ににじり寄っていきます。ビニールの袋にライスを放り込んで、煮物の煮汁をかけ、二人の少年に渡しているところでした。食事が終わって、支払いを済ませようとして、おかずが並んでいるところに行き、「ソーセージを2本、あの少年たちにやってくれ」と、いおうとして、少年達を指差そうとしましたが、もうそこに二人はいませんでした。  ホテルに帰る道すがら、人々が立ち寄るカトリックの教会に入ってみました。数人がマリア像に向かってひざまずき、何事かささやいています。すぐ外の繁華街の喧騒が嘘のように静かな教会の中で、こんな俺でも少し考えました。   「イエス様、マリヤ様、明後日のレース当日は、出来れば雨がいいんですけど・・・炎天下だけは勘弁してください!お願いします!」    さてさて、いよいよIRONMAN PHILLIPINE 大会当日です。   昨日、教会に行ってイエス様とマリヤ様、ついでに日本の神様と先祖の仏様にもお祈りしたためでしょう、願い通り、朝から雨模様です。  ですが、がががっ、昨日は一睡もできませんでした。これで4大会連続です。前日まではきっちり8時には寝て3時に起きるという生活を続けて、完璧なバイオリズムだったはずなのですが、こんな俺でも大会前日は精神的にナーバスになるのでしょうか?6時間もベッドの上をごろごろした挙句、2時には諦めて、起床しました。まあ4日間寝貯めしたから大丈夫!だろう、と自分に言い聞かせます。  今まで参加したIRONMAN RACEの中では一番規模の小さい大会です。参加者は300人程度。半分の距離で争うIRONMAN RACEもほぼ同時スタートです。こちらはそこそこ参加者がいるようです。    PHILLIPINEは気温が高く、過酷なレースになることが容易に予想されるため、敬遠するアスリートが多いのです。治安の悪さも一因かもしれません。そういった理由から、他のどのレースよりもレベルが低い大会になっています。それ故に毎年一度ハワイ島、コナで行われる世界選手権の狭き門の出場権を狙いに来るアスリートも多い大会です。私もその僅かの可能性を求めての参加です。欧米で行われる大会でその出場権を取るなんて論の外です。無理~!   早々とスタート準備を済ませ、知り合いになった日本人の方々とあいさつを交わしながら、のんびり過ごします。スタート前に緊張することはもうなくなりました。何せ、長いトライアスロンは15回目の出場ですので。   海は結構荒れ模様です。台風が接近中らしいです。雨もいい感じで降ってます。雨宿りにテントに入り、時間をやり過ごしていると、「あらっ、また会いましたね」と女性の声。私、極度の近視です。眼鏡を外すと0.03! 慌てて、ゴーグルをはめると(度入りです)先日、背中のジッパーを上げてくれと私に頼んだAさんでした。  スタート時間が近くなってきました。選手は皆、ゴール後の着替えなどを入れた袋をゴール地点に届けてくれるトラックに預ける必要があります。私は既に預けて準備万端でしたが。Aさんはのんびりしています。おまけに「波の様子を見てくるから、荷物を見ていてくれ」と頼んで、一足先にスタートする半分IRONMAN RACEを見に行ってしまいました。そしてなかなか帰ってきません。大会関係者が、「そのテーブルにある、ゴール後必要な袋をさっさとトラックに預けに行け!さもないとトラックが行っちまうぞ!」と脅します。そうこうしているうちに、アナウンスに従い、選手は皆、スタート地点へ移動し始めました。周囲には誰もいず、私一人取り残された格好です。こんな荷物、見捨てて私もスタート地点へ移動したいところでしたがそうもいかず、困りましたよ全く!またしても大会関係者が、「まだその荷物を預けてないのか!早くしろ!」と結構な剣幕です。私が勝手にトラックに放り込んで後、Aさんがあれが足りないとかこれが必要だったといいだしたら大変ですから、いやぁ、マイリマシタ。  するとやっとAさん、のんびり登場。「波、結構高いですねぇ~」と上機嫌。「トラックが行っちゃいますから、速くその荷物を預けてきてね」といい、やっと解放されました。ふ~。  2018年のIRONMAN NORWAY を完走した後、19年のMALAYSIA と去年のKAZAKUSTAN を途中リタイヤしていますので三度連続リタイヤでは自信喪失してしまいそうですから、この大会は記録もですが、絶対に完走しなくてはなりません。途中リタイヤの過去二大会は当日既に体調不良は明らかだったので止むを得ないリタイヤと考えますが、今回は睡眠ゼロですが、体調に不安はありません。あまり突っ込まず、上手に完走を狙います。  号砲一発、スタート!も、波が高くてしばらく泳げず、走ります。やっと泳ぎだしますが、波のおかげで、目指す赤い浮きが見えません。前を泳ぐ人についていきます。それにしても、水はきれいではありません。せっかくフィリピンの海に来たのにこんな海で泳ぐのかよ・・・まあ、10年前までアメリカの軍艦や潜水艦、空母などが停泊していた港ですからねぇ・・・しょうがないですかね・・・・  1.9kmを二周回、3.8km泳いでしてSWIM終了。(1時間27分強かかってました。遅いです)  BIKEに乗り換えるトランジッション1というところまで、のんびりとですが走ります。というか走れます。睡眠ゼロの割には体調はいいようです。  BIKEに乗り、10kmほど街中を走り、坂を登らされ、高速道路に入ります。その日のレースの為に高速道路は片側、完全封鎖です。高速道路を走りますから景色もへったくれもありません。が、路面の凹凸などによる落車などの心配もありません。片道約20kmのコースを4往復160km走ります。視界が不良になるほどの雨が降り出すと、妙にテンションが上がります。松山のY氏、仙台のG嬢に次々に抜かれますが自分のペースで走ります。参加者が少ないためでしょう。他人のペースに惑わされることがなく淡々と走れます。雨が気持ち良いです。炎天下だったら、高速道路走行は地獄だったはずです。日陰は皆無なのですから、危ないレースとなりえます。4周回した後は、高速道路を降り、下りが続きます。これは気持ちよかったです。走行中きっちり補給食を摂ったので、やはり体調もいいようです。結果的にはBIKEは6時間20分強。(まずまずでしょう)  いよいよ最後のRUN。足もしっかり残ってます!  が、しかし走り出して、10kmほどであららっ、便意が・・・  まただ!  フィリピンでもウンチ問題発生!  ところが、そこに仮設トイレ出現!  ひえ~、今年は違うぞ!ウンがある!  入ってみて、座る前に確認!  あれれっ、紙がない!  またしても、神が・・・・じゃなくて紙が・・・が~ん!  RUN 10km地点辺りで、もよおした便意、数キロは我慢しましたがいよいよいけない。一日中降り続いた雨の為、ランコース脇の小川の水が今にも溢れそうになっています。人目を気にせず、川岸の茂みに駆け込みます。足元には川の水が迫っていますが、ギリギリのところまで川に近づき、座ります。私の排泄物はそのまま流され川下へ。雨が続いて、川の水が溢れ氾濫しないことを祈ります。そして、手を思いっきり伸ばして、川から水を手ですくい上げ、お尻の穴をゴシゴシ!綺麗に拭きます。この時、尻の穴はしっかり塞ぎます。さもなくば、黴菌が入って取り返しのつかない事になりますから・・・  この、川の水を手ですくいあげる時、あまり手を伸ばし過ぎると、バランスを崩し、座った姿勢のままで川に転落しかねない態勢でしたので、相当気を使いました。ケツを出したままのトライアスリートが、おーい、助けてくれ~、といいながら、川を流されて行く様はあまりいいものではないですから。というわけで、フィリピンでの野グソは成功裏に終えたのでした。  この間のロスタイムは2分ぐらいだったでしょうか。川を眺めながら作業の順番を完全にイメージして取り掛かったが故の早業でした。  その昔、びわ湖毎日マラソンで、アメリカのフランク・ショーターがやはり、野グソをして優勝したした時のことが思い出されます。あの時は、沿道の人達が振る小旗を数枚引きちぎってそれを使ってケツを拭いたのです。彼もやはり、走りながら、考えたのでしょう、ケツを拭く紙はどうしよう?そうだ!あの小旗だ!    小旗を引きちぎられた近所のおばあちゃんはさぞビックリしたことでしょう。  彼は、2時間12分03秒の大会新記録で優勝したのでした。  さてワタクシ、降り続く雨の中、走り続けます。10kmを4周回するコース設定ですから。選手同士が何度も行き違います。ある意味では良い気象状況でしたから、それほど歩く選手の姿もなく、皆、集中しているように見受けられます。エイドステーションも適度にあり、街路樹沿いを走るように設定されたコースで、炎天下であったとしても多少は逃げ場があります。  10km毎に自分で用意した補給食を食べながら、頑張ります。20kmほど過ぎた辺りで、今回は大丈夫完走できるかもしれない、という気がしてきましたが、いつ何時、体調が激変するかも知れず、思い切って前を追うという気になりませんでした。という訳ですから、安全運転でレースを進めることになりました。  が、が、またしても、便意です。  20kmを過ぎた辺りだったでしょうか。一度は通り過ぎた仮設トイレに舞い戻り、中に入ると、案の定、紙はありません。そこで、すぐ横のエイドステーションにいる女の子に「トイレの紙はないのか!」と大声で聞くと、申し訳なさそうに、「ないのよ~」という返事。絶望する私に向かって彼女はこういったのでした。  「紙はないけど、水ならあるわ!」  それがいったいどういう意味なのか理解するのに数秒かかりましたが、水がいっぱい入った小さなバケツを彼女が私に手渡すのを見て、なるへそ~ と理解したのでした。  という訳で、ウンチした後は、右手でバケツの水をすくって、ケツの穴をゴシゴシ、ウンチだらけになったその手をもういちどバケツに戻し、水をすくってまたゴシゴシ。これを三回繰り返して完遂!こりゃあいい!世界一清潔なケツの穴だ。  トイレを出て、そのバケツを彼女に返し、「サンキュー」とひとこと。彼女の笑顔がまぶしいぜ!地獄で仏とはこのことだ。  とそこへ、ランナーが走ってきました。「バケツの水を頭からかけてくれ~」と叫んでいます。私は悪い予感がしました。あろう事か、彼女、私から手渡されたバケツの水をそのままそのランナーの頭にかけたのでした!  そのランナー「ひいー、サイコウ!」とかなんとか叫んで猛然と走り出しました。  ひえ~、それ、その水、俺のウンチも入ってるんですけど~ と言う訳にもいかず、私は無言のまま、申し訳ない気持ちいっぱいで彼の後ろをしばらく走ることとなりました。  時々、土砂降りになったりもしましたが、後半もペースダウンすることなく、走り切ることが出来ました。  ゴール後は、「あれれっ、もう少し頑張れたかな?」という感じが残っているほど余裕でした。安全運転でいった成果ですかね。というわけで、二大会続いたリタイヤ癖も払拭できました。ひと安心しています。  RUNの結果は、4時間40分ちょうど。  総合タイム 12時間41分41秒 総合89位/340人                 60-64歳 5位/10人  SWIM 1時間27分22秒  BIKE 6時間20分08秒  RUN 4時間40分      長い間お付き合い、有難うございました。      スンマセン、レースの写真は一枚もありません。