IRONMAN ITALIA &自転車旅の記録

IRONMAN ITALIA (Cervia) 奮闘記 

 

 

ITALIA 遠征 報告 その①
 「IRONMAN ITALIA編」
 現地についてビックリ!私の滞在するホテルがレースのゴールの目の前でした。
そこそこゴール地点に近いと思われるホテルを8か月前に予約してありましたが、
まさかここまで近いとは驚きです。ゴール地点から自分の部屋まで100mほどです。
這っても帰れる距離です。そうそう、スタート地点、SWIMスタートもそこから砂浜
(この砂浜が広い、波打ち際まで500mはある)を横切るだけです。
ですからスタート前の緊張感から突然やって来る便意が襲ってきても、
歩いて自分の部屋まで戻ればればいいのです。
(これじゃあスタートに間に合わないのじゃないだろうか)と思いながら
仮設トイレで長いウンチの順番待ちをする必要がありません。これは気分的に相当、
楽です。実際私は実行しました。
 そしてそこCerviaという街周辺一帯のリゾート感に驚かされました。
Cerviaという街を中心に幅500m以上のキメ細かな白砂のビーチが20kmいや
それ以上かもしれません、何しろ南北に見えなくなるまで果てなく続いているのです。
夏の終わりとはいえ、その名残りの残るビーチには寝そべるための長いベットが
パラソルとセットでこれまた南北に果てしなく連なっています。
ヨーロッパ中から夏のバカンス客がやってくるといいますが、100万人来てもきっと平気でしょう。
それほどホテルも揃っています。そのビーチに沿ってホテルが隙間なくこれまた何十キロも
続いています。私の知る限りこれほど整備された広大な観光ビーチはフロリダのマイアミビーチぐらいです。
 夏が終わって閑散期に入る時を狙って、スポーツイベントが毎週末、立て続けに開催されるようです。
その最大のイベントのひとつが私が出る「IRONMAN CERVIA(ITALIA)」というわけです。
土日でフル(3000人)、ハーフ(3000人)、スタンダード(500人)という三種類の異なる距離に
挑む選手は合計6500人!だそうです。私のように一人で参加する選手はほとんどいず、
皆誰か家族、友人、と来ていますので、宿泊者の数たるや凄まじい事になります。
そして大会の準備にかかわる人達の数も物凄い数です。
実際、スタートゴールにいちばん恵まれた私のホテルに泊まっている人のほとんどは大会関係者でした。
選手を歓待するのは勿論でしょうが、数日かけて準備をするスタッフにいい環境を整えているというところに感心しました。
 Cerviaに着いてすぐ、選手登録に出かけます。歩いて5分です!
全て徒歩5分圏内で済ませられます。
 いざ私の番になり、パスポートを提出すると、
 「ミスター、ヒロシ、メディカル・サティフィケイトの書類が提出されていないようですので、
あちらの女性の方と話をしてください」といわれました。メディカル~?・・・・
 そういわれれば、何度もメールでそのような物を提出しろとの催促を受けた記憶がある。
今回でIRONMAN RACE 出場13回目の私ですが、今までにそんな物を催促されたことがないので無視していました。
まあ現場へ行けば何事もなかったようにスタート地点に立てるものと思っていました・・・・が、
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どうやら状況は相当厄介なものでした。まあ、電話さえあれば何も問題はないのですが、
何しろ私持っていないものですから・・・・
その ②
その「Medical Certificate Competitive sport acivity」という書類、
要するに、IRONMAN RACEに参加するに足る健康状態を有しているかどうか、
医師の判断を仰げという代物のようです。 担当の女性に「私はほぼ毎年一回、
このレースに参加し、今まで13回挑戦している」と告げましたが、
「それを医者に証明してもらわないといけないのです」との返事。
「それの証明書が提出できなかったらレースに参加できないのか」と尋ねると、
「そういう事になる」との事。そういいながら上司らしき女性に何やら相談しています。
「医者の診断書を提出しろといわれた大会は初めてだ」と告げると、
「これはITALIAだけのシステムだ」との事、なるほど。  
 その後、急転直下、上司と相談した結果なのでしょう、
「あるいは、35ユーロ払って出場許可をもらう事ができる」と、いいだしました。
(なんだ、やっぱり金払えばいいんじゃないか!)と声に出してはいいませんでしたが、
それじゃあ35ユーロ(¥6000))払うよ」といいながら、クレジットカードを差し出すと、
カードでは払えないとの事。「あなたがこの大会に申し込んだ、
そのサイトからでなければ払えない」のだそうです。
「そりゃ無理ですよ、私は携帯電話も持ってないんですから。
私のコンピューターは日本にあるんですから」というと、その女性、
「一緒に来ている家族や友達の携帯電話からできるんじゃないの?」
「いやいや、私は独りで来ているんですよ。私にはここの街やこの国に
知り合いは一人もいないんです」というと彼女、口をあんぐりあけて
しばし固まってしまいました。
 
 そんな様子を後ろから見ている夫婦と思われる日本人がいました。
あとで聞いたところによると、この大会には8人の日本人が参加していました。
そのうちのひとりだったわけです。その方とは、明日の英語での競技説明会と
その後の自国の国旗を持って街中をパレードするイベントで会いましょうと
いってお別れしました。私はそれどころではなかったのですが・・・
 そんな訳で、私としては選手登録締め切りまでその日を含めてあと2日あるので、
その健康診断書のようなものをそこCerviaの街の医者に発行してもらうか、
あるいは、誰かの携帯かコンピューターから自分の申し込んだサイトに
入ってそこでクレジットカードで35ユーロ払うという二段構えの対応を
することになりました。
 まずホテルに戻って、受付の女性にその健康診断書を大会のHPから
ダウンロードしてもらいます。そして、その診断書の内容の検査をしてくれる
病院を探してもらいました。街には2つの病院があるといい、
その病院に電話をしてもらいました。すると一つの病院は、
すぐに来てすぐできるものではないとの回答。もう一つの病院は出来ないとの事が判明。
二人いた女性の受付嬢のひとりは、「今、お母さんに聞いてみるわ」といって電話を
してくれていましたが、良い返事はなかったようです。ホテルの男性オーナーは、
「診断書がないならその代りに、35ユーロ払えば出られるなんて信じられない!
君たちのやるレースはそこの砂浜を3kmジョギングするレベルの競技じゃないんだぞ、
いったいどうなっているんだ!怒怒怒!!!」と大声で怒鳴っています。
まあ自分のホテルですから大丈夫でしょう。
そもそも、あなたがそんなに怒っても解決しないですし・・・
 という訳で、市内の医者から診断書を書いてもらうという方法は万事休しました。
 約6か月間にわたるトレーニングの為に費やした多くの時間と犠牲、
飛行機やホテルなど諸々の出費を考えると自分が出場せずに他人のレースを
応援しただけで帰るのではあまりにも自分が惨めです。
私は部屋へ戻りベッドに横になりながら何か良いアイディアはないだろかと
考えることにしました。
 が、横になるとすぐ寝てしまったようでした・・・
 時差だ、時差が・・・
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 その③
   翌日午後、英語による競技説明会に参加。その直後から行われる、
各国の国旗の下に集い、街中を歩きながら市庁舎までパレードするイベントに
参加。とはいっても私はレース参加がまだ確約されている身分ではありません。
 説明会が終わり、表通りに出て、日本の国旗を探しますが見つかりません。
そこで、昨日、選手登録会場で少し言葉を交わした方と会いました。
奥様、「何度探しても日本の旗はない!」と、断言していました。
選手である旦那さんと一緒になり3人で探しましたがやはりありません。
仕方がなくパレードの最後尾からのろのろとついていきます。
日本の旗はないのに国家として承認されていない、ウィスキーで有名な
スコットランドの「マン島」の旗があったりします。
いったいどういった基準の国旗選びなのでしょう。
外国にいて自国の旗が無いというのは、不安なものです。
もしかするとほんのちょっとだけ祖国を持たない難民の気持ちに
近かったのかもしれません。
 そのパレードが始まるまえに私はそのKさんに選手登録出来ていない
事情をはなし、出来ればスマホを明日使わせてもらえないだろうかと
伝えたところ、気持ちよく、了解していただきました。Kさんが明日、
BIKEをチェックインする時に会い、そこから一緒に選手登録まで
行っていただく約束をして別れました。そんな訳で大会参加への
一縷の望みがつながりました。
 そのパレードが終わりを迎えた頃、私はそのパレードを主催していると
思われる人を呼び止め、確りと、「日本の国旗がない!」と伝えました。
最初はキョトンとしていましたが最後には「I'm sorry」といっていました。
 さて、翌日、Kさんと待ち合わせ、奥様と三人で選手登録へ出かけました。
また前回の女性が対応にあたってくれました。Kさんの奥様のスマホを使い、
問題の35ユーロの支払いの段になり、そこでは私のクレジットカードを
使いました。が、それが間違いでした。私のクレジットカード会社が、
日本にある私のパソコンに「35ユーロの支払いを許可しますか」
という確認メールを出しているらしいのです。
そのメールに対し私は勿論「OKです!」という返事は打てません。
従って、そこで行き詰まりました。が、奥様のカードを使わせて
もらうことで何とか支払完了。私は50ユーロを払って、お礼としました。
我々三人と何かと面倒な行程に最後まで辛抱強く付き合ってくれた担当の
女性と皆で喜び合いました。彼女は最後まで一生懸命やってくれました。
そして美人でした!(写真はありません)イタリア人女性はレベル
高いなあ~、と妙に感心。
 というわけで、晴れて選手として参加することが決まりました。
ふっ~、長い道のりでした。
  
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  その④
  はい、それではIRONMAN RACEのお話です。
 土曜日に私の参加するフルディスタンスのレースが開催され、
翌日曜日には半分の距離ののハーフの部と、
そのまた半分のオリンピックで開催される距離の部を一度に
開催します。従って二日間で三種の距離のトライアスロンが全て
開催されるという、凄い二日間です。合計で6500人が参加する
世界最大のトライアスロンレース大会です。皆それぞれ軽く
100万円オーバーの自転車に跨りますから、その総額たるや!!!
 文字通りトライアスロン一色の週末です。
その大会に私もやっと参加できることとなりました。
二日間に及ぶ、健康診断書の件がやっと解決しましたから。
 ホテルはその日ばかりは朝5:00から朝食を出してくれます。
用便を済ませ、swim会場へ向かいます。とはいっても、
歩いて5分です。そこで健康診断書の件で助けていただいたKさんに会い、
3.8kmを1時間20分以上かかる選手用の列に並びます。そこが最後尾です。
7:30にスタートの号砲が鳴り響きますが、7秒間に5人づつ、
整然とスタートしていきますので、全3000人がスタートするまでには
相当時間がかかります。「残るところあと50人程度となりました」
というアナウンスが聞こえてきたの頃は、スタートの号砲を
聞いてから既に一時間近く経っていました。いくら遅くスタートしても
足首につけたタイミングチップが全ての経過タイムを記録してくれています。
ゴールした順番がそのまま順位ではありませんので焦る必要はありません。
ただし、日没前にしたいなどとと思う人などはやはり早めにスタート
するしかありません。
 Kさんよりさらに遅れてスタートします。私より遅れてスタートした選手は
3000人中、20人程度だったでしょうか。本当の最後尾からのスタートです。
長い一日が始まりました。今回のswimコースはアドリア海を泳ぐ一周回のコース。
従って、一度も陸に上がることはありませんが、のんびり泳ぎます。
地元で海水浴のトレも確り入れていましたので、極めて普通に泳げました。
去年のオーストリアのアルカリ、硬水質の湖での苦労が嘘のようです。
去年は苦労しました。少し遠回りですが、人との接触や衝突を避ける意味で
人気のない沖合を努めて泳ぎ、ストレスを回避します。
あまりのんびり泳ぎすぎたでしょうか、まったく疲労がないままswim終了。
計測していないのでタイムは不明。日本に帰ってきて確認したら
1゜26' 30" 。ちょっと遅いですが、問題なし。
 T1  BIKE乗り場までのんびり歩いていきます。相当の区間、
高速道路を走りますが、一か所だけある2kmほどの登り区間は9%の
斜度があります。このコースを2周回します。今思い出そうとしても
そのコースや風景が思い出せません。結構集中できていたという事でしょうか。
最後の20kmほどは少し疲労が出てペースが落ちましたが、runに足を残せて終了。
やはり日本に戻ってきてタイムを確認したところ、6゜09' 49" 。上出来です!
 T2 BIKEを降りてから、ジョギングシューズに履き替えるまで1kmほどの
距離がありますが、そこものんびりBIKEを押しながら完歩。
走り出すまえに時計をセット。RUN だけはきっちり1kmごとのラップを
計りペースを管理します。21kmのハーフ地点で2゜09'。単純計算で
4゜18'でゴールできます。が、そううまくいく筈はありません。
1周回10kmのコースを4周回するコースです。
 ですから、健康診断書の件でお世話になったKさんとはここで
必ず会うはずです。ところがなぜか会いません。
一度奥様が「伊藤さん~」と応援してくれましたが、
立ち止まって話すこともなく「ありがとうございます~、頑張ります!」
と答えました。周回コースで一度も遭わないという事は途中で
止めたという事に他なりません。帰国後、結果を見たところ、
やはりSWIM終了後に止めたようでした。残念!RUNコースでお互いに
励ましながら走りたかったです。そしてゴール後は、
互いの健闘をたたえ合いたかったです。
 30km過ぎからペースが落ちだしましたが、歩く事だけはせずに
走り続けました。最後の2、3kmはラップは9分台まで大失速!
それでも走り続けたので大崩れはナシ。無事ゴール!
 ゴール地点にはズバリ!イタリア美女だけを揃えました!
これを見よ!!!というほどの女性が横並びで出迎えています。
彼女らが一人ひとりの首に、完走メダルをかけてくれるという趣向です。
やるなイタリア人!
 と、私のゴールの瞬間、そこに現れた美女はなんと、
私の健康診断書問題を担当してくれた彼女ではないですか!
思わず熱い抱擁か!と思われましたが、汗だらけの私に抱きつく訳もなく
「おめでとう!」で終了、あ~、ガッカリ・・・それでも確り、
「あなたの助けのおかげでこうして参加でき完走できました
有難うございました」と、はっきり伝えました。
 これまた帰国後、確認したところRUN は 
4゜39’ 16" 失速を最小限に抑えられました。上出来!
 総合記録  12゜39' 17"  (1525位/2444人)
(60-64歳)
SWIM 1゜26' 30" 48位/82人
BIKE 6゜09' 49" 45位/82人
RUN 4゜39' 16" 35位/82人
 上出来でした。ダメージがほとんどないのは驚きです。
 明後日から、イタリアアルプスを登ります!
 健康診断書の件でいろいろ助けてくれたホテルのオーナーは
 「なに!一日休んだだけでもうサイクリングに出るだと!
  それもアルプスに登るだと!いったい何を考えているん   
  だ!63歳のやる事じゃないぞ」と呆れ顔です。
 それでは、次回からはイタリアアルプスを巡る、
 サイクリング編をお送りいたします。 
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  「それじゃぁ、来週の日曜日に帰ってきますから、それまでさようなら~」
といって、6連泊した宿を後にします。
 実は予めとってあったその日曜日の予約は、BOOKING.comによって
強制キャンセルされていたのですが、あらためて現地で取り直した予約でした。
 日本であるフィッシングサイトに引っかかり、クレジットカード情報を
盗まれた可能性があるために、クレジットカードを新調したのですが、
数か月前に予約したその宿の清算予定日には既に私のカードは新しくなっており、
BOOKING.comは私の旧カードでは清算できなくなっており、
強制キャンセルされていたのでした。それでも、
その可能性があることを知っていたので、ホテルに着いてすぐに
「私の9/28の予約はまだ生きているか?」と聞いてみたところ、返事はやはり
「BOOKING.comによってあなたの予約はキャンセルされている」
との事でした。やれやれ・・・
 コンピューターもクレジットカードも便利ではありますが、必ず、
不具合や詐欺などのイライラ要素がついて回りますねぇ、
これ私には結構なストレスなんですよね。
 ホテルのオーナーや従業員は「またねぇ~」といって旅立つ私に
何やら不安げな対応です。(あいつ、おとといIROONMANを
走ったばかりなのに大丈夫なのかよ、63歳だっていうじゃないか)
という雰囲気丸出しです。おいおい、もうちょっと景気よく送り
出してくれよといいたくなるようでした。
 これからの私の旅のルートはGOOGLE MAPを参照に追って
頂けると楽しいかと思われます。
 私のまずの目的地は、その名にし負う、「ドロミテ国立公園」です。
イタリアが世界に誇るユネスコ世界遺産(自然遺産)で
その範囲は広大で地図にはその範囲が記されているものの、
同様の地質的特徴を持つ山々は全てドロミテとされています。
そのドロミテ、IRONMAN RACEの為に私が滞在したCerviaの街からは
北へ300kmほどあります。そこを自転車で移動するとなると
2日はかかってしまいます。しかしそこはイタリア、
列車に自転車を積んで時間短縮します。自転車だからといって
邪魔扱いされる事など全くなく、自転車用のラックも完璧完備!
いう事なし。むしろ、自転車さんようこそ!といわれているかの
ような設備で感動すら覚えます。
 列車は標高ゼロのアドリア海沿岸から徐々に標高を上げて
イタリア北東部の小都市Belluno(ベルーノ)を目指します。
イタリア北部は普通に田舎ですので電車の本数が少なく、
全駅停車の鈍行列車。しかしそんな田舎街の駅で連絡の列車を
待っていると、いきなり時刻表にその列車の「Cancel」(運休)!
の表示が出たりします。ところが客は全く動じる様子がありません、
良くあることなのでしょう。私は急にできたその空き時間、
自転車に跨り、街に繰り出して散策します。
朝9時半にCerviaを出て、Bellunoに着いたのは夕刻でした。
 Bellunoの街はそこそこ観光客がうろついています。
ドロミテの観光基地です。アドリア海沿岸の街とは違い、寒いです。
標高は390m、人口は35000人ほど。
 駅から出てすぐにホテルを探しながら自転車を走らせます。
ところがなかなか「HOTEL」の文字が見当たりません。
駅前の繁華街だというのにです。そこで通りがかりの若い女性に
聞いてみます。教えてくれた場所にはやはり「HOTEL」の文字はなく
不安になりますがそのビルに入ってみました。
するとそこは立派なホテルでした。つい10分ほど前に老婆が
教えてくれたホテルがそこだったはずですが、やはり「HOTEL」の
文字がないので素通りしてしまっていたところでした。
 100ユーロの部屋を90ユーロに値切って、チェックイン完了。
17000円程度です。寝るだけですがいい値段です。まあ、
イタリアはこんなもんです。そこでフロントの紳士に質問。
 「イタリアに来たら、[HOTEL]の文字が見当たらないが、
イタリア語ではホテルを何と呼ぶんだい?」
 そうなんです。基本的なところを抑えていませんでした。
これは非英語圏では必ず直面する問題なのです。完全に
失念していました。これは予め把握しておかなければならない
案件なのでした。今では、[HOTEL]の看板は世界中どこでも
見られますが、やはりそうでもないところもまだまだ多いのが
現状です。
 「そうですねえ、HOTELというサインもないことはないですが、
我々は[ALBERGO]という呼び方をします」という答えをもらいました。
そして確りとそのスペルも教えてもらいました。
という訳で一件落着です。
 贅沢すぎる部屋で、手揉み洗濯をし、シャワーを浴びて街へ
繰り出します。食事の前に軽くビールを飲むべく、バーを探します。
 「何かイタリアのビールをください」とオーダーし、
その日の出来事を日記に綴ります。私の日記を覗いた25歳ぐらいの
ウェイトレスの女性がビールをテーブルに置きながら、驚きの発言。
 「あー、日本人ですか!」
 いやぁ、ビックリしましたよ。イタリアの田舎町に来て
日本語が分かる女性に出会うなんて。
 私の日記を覗いて、「そりゃ、いったい何語なんだい?」
と聞いてくる人は時々いますが、いきなり日本語で話しかけられる
ことはそうそうありません。
 ディナータイムまでにはまだ少し時間がある暇な時間帯の
ようでした。彼女、イタリアの大学で二年間日本語を勉強し、
一年日本に留学していたそうです。銀座のバーでカクテルウェイトレス
のバイトもしたそうです。美人な女性ですから相当人気が
あったはずです。途中から後ろの席に入ってきた地元の
常連客が彼女に聞いています。
 「おいおい、いったい今あそこの男性と何語を話してたんだい?」
 「日本語ですよ」と彼女が答えると、その常連客、
「ここには毎日来ているが、あなたが日本語を話すなんて
今まで知らなかったよ!」
 ビールだけで出ようかと思っていましたが、美人イタリア女性と
日本語で話ができるなんてそうそうありません、
ついでに食事をしようかと思いましたが、ディナー時間には
まだ間があるとの事、サンドイッチをつまみにビールをもう一本頼みました。
 美味いピザ屋を教えてくれといったら、彼女、アレッサンドロさん、
町一番のピザ屋を教えてくれました。
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その⑥
 アレッサンドロ嬢の働く「caffe DEON 1870」を出て、
彼女推薦の町一番のピザ屋に向かいます。
彼女が地図を書いてくれましたが、イタリアの街はどこへ行っても、
2000年前の姿のままですので道が直交しておらず、
目的地に容易に辿り着けるケースはほとんどありません。
私の目指す「La Fenice 」もトンネルとも道とも区別のつかない、
あるいは私有地なのではなかろうか?と思わせるところを通り、
一度引き返して確認して、諦めかけたりしながらやっと辿り着きました。
誰かの家の裏庭を横切って歩いているようで困惑します。
 壁は総ガラス張りの優に200人は入るであろう巨大なレストランです。
6:30pm、開店直後の店に入ります。キッチンもガラス張りで料理している
様子が丸見えです。とりあえずビールを頼み、大道のマルゲリータを
頼みます。ビールを飲みながら日記を書いている間にも次々と客が
入ってきます。さすが人気店です。30分ほどでほぼ満席になって
しまいました!隣の席では20人ほどで誕生日を盛大に祝っています。
アジア人がひとりポツネンとビールを飲んでいる姿は結構、
目を引いていたことでしょう。さて、やってきましたマルゲリータ!
二杯目のビールを飲みながら、食します。
 ???、う~む・・・こりゃどうしたもんだろう。
不味いわけではありませんが、それほど美味いものではありません。
特にこれといって感動はありません。参ったもんです。
アレッサンドロ嬢が自信を持って、町一番のピザ屋!といった店です
がちょっと期待はずれでした。隣のテーブルでは男2人が上手に
ナイフとフォークでピザを食べています。やはりピザ、
ナイフフォークで食べる物のようです。私は手で喰いましたが。
 納得がいかないまま、とぼとぼとホテルに戻り、
明日からのアルプスのサイクリングに備えます。
このホテルは「ALBERGO DELLE ALPI BELLUNO」一泊朝食付き
¥16800なり。
 翌朝、ホテルで朝食を済ませ、そこでランチに食べる
サンドイッチも作ってチェックアウトします。
2025年度のサイクリング旅行の始まりです。毎年の事ですが、
わくわくします。
 急遽、自分の立てていたルートとは違うコースをたどることに
なりました。アレッサンドロ嬢推薦のコースに変更したのです。
地元の人、行ったことがある人の意見には素直に従います。
 Bellunoから一路、北へ向かい、51号線を走ります。
が、交通量が激しく、すぐ左を猛スピードで走り去って行く車に
怯えながらのサイクリングは楽しいものではありません。
今年の冬のオリンピックが開催されるCortinaに向かう道は
その51号線しかなく、車が集中しているようです。
風景を眺める余裕すらないサイクリングはつらいです。
1時間ほど走りましたが、思い切って脇道にそれのんびり走ります。
川沿いの道を走り、工場に出勤途中の男性に聞いてみました。
 「あの51号線は交通量が激しすぎて、サイクリングに
ならないのだが、他に北へ向かう違う道はないでしょうか?」
 すると、やはりBIKE-14という名の旧道51号線が存在するとの事。
安心しました。私の持っている紙地図にはそのような道は記されて
いませんから、やはり住民に聞くのが一番で、
そこを面倒くさがったりしてはイケマセン。
 その道に入ると早速、2人の女性のサイクリストがやってきました。
その後も、数人のサイクリストが南進してくるのでした。
女性が多いです。しかも皆、E-BIKE、電動アシスト自転車と
いうやつで、結構なスピードでスイスイ走り去っていきます。
どうやら、その快適な自転車道路、旧道の存在を知らない
サイクリストは私ひとりのようでした。皆それなりのイタリア
自転車道路地図的なものを持ち歩いているのでしょう。
(というか、スマホに確りそのルートは紹介されているのでしょう)
 午前中にのんびり45kmほど走り、LOZZO DE CADOREという街の
湖畔の公園でサンドイッチを頬張ります。当然、ホテルで食べた
朝食とほとんど同じサンドイッチですがまあ、栄養という点では
問題はありません。二種類のチーズに二種類のハムが挟んであり、
バターがこれでもかと塗ってあり、おまけに蜂蜜まで流し込みます。
近所の幼稚園児が先生に引率されて湖畔を散歩しています。
 「ボンジョルノ~」と大合唱であいさつされます。
どんよりとした空模様ですが雨が降るよりはマシです。
短パン & T-シャツのサイクリングジャージでは、少々肌寒いです。
その辺りは標高が800mほど、これからまだまだ標高が上がりますから少々この先の服装が心配です・ITALIA 024.JPGITALIA 025.JPGITALIA 026.JPGITALIA 027.JPGITALIA 028.JPGITALIA 029.JPGITALIA 030.JPGITALIA 031.JPGITALIA 032.JPGITALIA 033.JPGITALIA 034.JPGITALIA 035.JPGITALIA 036.JPGITALIA 037.JPG
西進を始めて、一路Cortinaを目指します。アレッサンドロ嬢推薦の絶景ルートですが、曇天で何も見えません。が、斜度10%程度の登りが10kmほど、容赦なく続きます。
 辿り着いたのが「Passo Tre Croci」。passoは「峠」の意味です。
 標高1809m。そこ一帯は完全に雲の中で、絶景など望むべくもありません。トホホ。せっかく登ったのですが対価となる景観を拝むこともなく下りはじめます。寒いです。登っている時は汗をかきながら登りますが、下りはただただ寒さに耐えるだけの修行のようなものです。腕の震えがハンドルにまで伝わり、ハンドルが小さく震えだしますから、ビックりです。
 時速50kmで15分ほどで600mほど!下ったら、街が見えてきました。妙におしゃれ(死語か)な街です。Cortinaです。街は傾斜しています。何しろウィンタースポーツの聖地です。ゲレンデに街があるといっても過言ではありません。ありとあらゆる高級ブランドのメーカーが軒を並べています。今冬のオリンピックに向けて建設ラッシュの真っ最中感、丸出しです。
 (まいったなぁ~、こんな高級リゾートにゃ、俺の居場所はないけどなぁ・・・)というのが、私の偽らざる気持ちでした。
 旅行案内所に飛び込み、「安い宿を探しています」と、率直に伝えます。ここで妙な見栄を張ってはイケマセン。
 「ここからあなたの自転車で10分ほどのところにひとつ星のホテルがあります」といわれましたが、「もう走れません!、次に安いホテルを紹介してください」と正直に伝えます。
 「そこの教会の向かいに、二つ星のHOTEL MONTANAというのがあります」と教えてもらい、さっそく行ってみます。
 「予約はしていませんが、今晩一泊、一名、部屋はありますか?」と尋ねるとコンピュータを眺めながら、「はい、ございます」との事。
 「いくらですか?」と尋ねると、
 「250ユーロです」との事。素早く、×175(1ユーロ=175円)を暗算しましたが・・・!!! 計算ミスかと思いました。
 思わず、受付の彼女に計算機を借りました。しかし結果はやはり、驚愕の一泊¥45000でした!
 半ば放心状態で、「もう少し安い部屋はないですか?」と尋ねます。彼女、少し考えながら、「200ユーロではどうでしょう?」といわれました。200×175=¥35000! それでも¥35000です。そこのホテルがCortinaで二番目に安いホテルだというのですから開いた口が塞がりません!顎が外れたのかと思いました・・・
 しかし止むを得ません。そこの部屋に泊まることにします。結局は¥45000の部屋を¥35000に値引きしてくれた格好です。部屋はダブルベッドが二つある広大な部屋でした。そのベッドでは寝返りを5回うってもベッドから落ちる心配はありません。ほぼ正方形のベッドです。
 ホテルはCortinaのメイン通りに面していて、真正面には街で一番高い塔を持つ教会があり、意味不明な鐘を四六時中鳴らしています。
 通りを行き交う人達の中には薄手のダウンジャケットを着ている人達もいて、ほぼ皆、冬の装いです。一方、63歳の私はというと、短パン、T-シャツです。寒いです~
 半年後にはそこCortinaの街には世界中からアスリートたちが大挙して訪れ、日夜祝祭が繰り広げられることになるのです。その時は晴天のCortinaの街や山々をテレビを通じて拝みたいものです。
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 9/24(wed)です。
 この日からいよいよ本格的な山登り区間に入ります。昨日の「Tre Cron峠」(1809m)は、ほんの足慣らしです・・・
 Cortinaの一泊¥35000の宿「HOTEL MONTANA」を朝8:30に出発する時、気温は12℃でした。
 「西に向かって今日は峠を越える」と言ったら、ホテルの受付のおばちゃんは「グットラック!」と激励とも憐みともとれる微妙な笑顔で見送ってくれました。それは(あれを登るのかい・・・)と、私を気の毒がる引き攣った笑顔でした。 
 案の定、いきなり登りはじめます。容赦ありません。
 Cortinaの街の標高は1237mです。そこから2105mの「Falzarego峠」まで標高差868mを一気に登ります。
 それでも2時間ほどで峠に到着。気温5℃! 昨日同様、景色は全て霧の中・・・峠の土産屋&cafeに入り、一服。コーヒーで体を温めながら休みます。cafeでコーヒーを飲んでいる人達は登山やハイキングをする人達で皆、冬用の完全装備です。私はというと短パン&T-シャツ。というわけで私も、背中のリュックサックに入っている、アームフォーマー&レッグウォーマー等々全てをを取り出して完全装備とします。薄手ですがウィンドブレーカーも着込みました。背中が急に軽くなりました。そして、売店で見つけた手袋まで買い込みました。(こういうのは痛い出費です)
 晴れていればそこからはドロミテのハイライトのひとつでもある、「Le Tofane」という山塊が見えるのですが生憎のお天気です。生きているうちにもう一度行くことがかなうでしょうか?晴天のドロミテを見てみたいです。
 その日はもうひとつのメイン、「Pordoi峠」(2239m) があるのでさっさと下ります。手袋が温かい~。
 Falzarego峠を下りだすとフェラーリが数珠繋ぎで登ってきました。途切れません。さすがイタリアです。国産車ですから安いのでしょうか?(そんなはずはない!)
 何と呼ぶのでしょう、50~60年代のオープンカー仕様で運転手がゴーグルで運転し、スカーフがひらひらしている、あのスタイルのフェラーリがたくさん混じっています。現代のフェラーリが見劣りするほど人目を引きます。そして必ず全ての助手席には美女が乗っています!(昔の美女も!)ちくしょうー!なぜか敗北感・・・
 下っている途中でいよいよ雨が降り出しました。寒さなら何とか耐えられますが、全身濡れてしまっては厄介です。「Livinallongo del Col di Lana」という長い名前の村の道端に現れたレストラン「Excelsior」に逃げ込み、コーヒーとケーキでひとやすみします。濡れずに済みました。そこの村から南側の眺望は「Marmolada」と呼ばれる、ドロミテの最高峰を抱える峰々の絶景のはずなのですがそれも厚い雲に阻まれて見えません。
 この辺の道は峠を登っているか下っているかのどちらかでしかなく平坦路はありません。「Arabba」の街まで下り、そこからいよいよ「Pordoi峠」(2239m)を目指して登ります。
 一日にいくつもの峠を越えていると正直、記憶があいまいになってきます。おまけに今回の旅のように、どこもかしこも雨雲の中ですと特にそうなります。そういう時に日記の文字とデジカメによる画像はのちのちの記憶の呼び覚ましの際の助けになります。三年前からこのデジカメ使ってますが、自転車から落っこちて路面に叩きつけられても大丈夫です。結構、重宝しています。¥9800 NIKON製です。
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 ユネスコ世界自然遺産のドロミテ国立公園のハイライトは東イタリアアルプスの最高峰、Pordoi峠(2239m)です。
 南には3342mのMarmolada山塊、北には3152mのsalla山塊を望む峠です。が、この日も曇天の空模様。その山々もなかなか姿を現してはくれません。しかしその峠、サイクリストの間では超がつくほどの有名スポットです。そこそこトレーニングを積んだ者しか辿り着くことはできません、とされています。が、いざ登ってみますと、それほど厳しい坂ではありません。斜度を上手に緩めるようなヘアピンカーブの道作りがなされています。それよりも問題なのは寒さです。天気が悪くても登りでは完全な夏の格好で登りますが頂上に着いた瞬間から一足飛びに秋を通り越して冬の装備にしなければなりません。
 Pordoiの峠の頂上に辿り着いても、幸い雨ではありませんが、周囲の景観が全て雲と霧の中ですので長居は無用です。全ての衣類を着込んで下りはじめます。2時間前の峠で買った手袋が本当に暖か良くて助かります。そんな訳で、その日は2つの峠を越えなければならないこの旅で最もキツイ1日なのでしたが、その対価ともいえる絶景を拝むことは適いませんでした。ツキがないよな~俺。
 峠を下って、夕刻辿り着いた街が、「Vigo」という街。南北が開けて高原の街といった様子です。街は全て斜面上にあり、何処も斜めです。北には「Rosengarten」という山塊の絶景があるはずなのですが・・・それもまた拝めません、トホホ。
 通行人を止め、「どこかにホテルはないでしょうか?」と尋ねるとすぐそばの一軒のホテルを指差してくれました。こうなれば簡単です。早速行ってみます。すると「今夜、空はない」との衝撃的な答え!今回の旅で、たった一回あった満室のホテルでした。しかし「そうですか、それではさようなら」と帰ってしまってはもったいない。「この近くにある他のホテルを紹介して頂けないでしょうか?」と尋ねます。すると、コンピューターを叩きながら、「このホテルですと空いています」と即答です。
 「このホテルには誰もいませんが、今から渡すこの番号をドアのコンピューターに打ち込むと施錠が解除されます。中に入ったらすぐ左にあるコンピューターに同じ番号を打ち込んでください。するとあなたの行くべき部屋番号が発行され、チェックイン完了となります」と、意味不明な説明がなされます。そしてこのホテルでクレジットカード決済してすべて終了なのだといいます。ホテルの場所を聞きますが、案の定、「Google Mapにこのホテルの名前を入れれば道案内してくれます」と冷ややかに言い放たれました。「携帯電話を持っていないものですから、そのGoogle Mapを印刷して頂けますか?」というと、素直に印刷してくれました。が、尺度が小さすぎてまったく使い物になりません。結局は彼女が手書きで地図を書いてくれました。が、半ば呆れ顔でした。
 が、その場所が全く以て複雑怪奇な場所で、探し当てるのに苦労しました。何しろ坂の街ですから、うろうろするのも体力勝負です。最終的には3人の人に聞いて奇跡的に辿り着く事が出来ました。
 この「誰もいないホテル」正式には「My Sweet Home Hotel」といいます。Sweet Home と名乗る割には人けがありませんから、その名前も悪い冗談のような話です。斜度10%はある石畳みの坂を登った先の左、北向きに傾斜した丘の中腹にあります。建物は非常に新しい3階建てで見た目、豪華です。しかし辿り着いてみるとやっぱり誰もいません。ドアの左わきにあるセキュリティー用の端末?に渡された番号を打ち込むと、あら不思議?ドアの鍵が開きました!はっきり申しまして、誰かの留守宅に無断侵入している気分になります。左にある機械に同じ番号を打ち込むと部屋番号が書かれたカードが出てきました。それでやっと自室に入る事が出来ました。まあ、世の中世界中、人間の人件費が一番高いのでしょうから、そこを削った結果なのでしょう。内部は至って普通、まったく以て文句なしです。かえって昨日の¥35000の部屋よりもいい感じですらあります。シャワーを浴びて、食事をしに街へ降ります。
  従業員のいないホテル「My Sweet Home Hotel」を出て、坂を下り「Osteria de Carpano」という大層おしゃれなレストランに入りました。巨大なレストランです。その後徐々に客が入ってきましたが、客は初め、私ひとりでした。
 ビールを二杯飲んでチキンのサラダを食べ、ホイップクリーム大盛りのホットチョコレートまで飲みました。外はは完全に冬の装いで、小雨交じりですので、食事の締めは暖かい飲み物が欲しくなる季節です。当たり前ですが帰路は坂を登らなければなりません。へとへとで帰ります。
 翌朝、朝食を食べに階下へ降りたらなんと、結構な人数がいるではないですか。こんなに泊まってたのか、ビックリしました。しかも、朝食担当の従業員が2人もいます。腹いっぱい食べて、ランチ用のサンドイッチまでも作って、サイクリングに出発します。が、この日も朝から曇天。
 Pordoi 峠からの下りが続きます。朝の冷たい空気の中での下りは本当に寒いです。途中の「Karerpas 峠」(1745m)を登り終わり、下りはじめた辺りから、雲の中のサイクリングが始まりました。「Nova Lavante」という街で少し暖をとるため「Nackler」というcafeに逃げ込みました。その街は「Rosengarten山塊」へのケーブルカーの基地らしく、朝から多くの人で賑わっていました。朝9:45頃ですが、店に入ってくる客たちはベーカリーでもあるその店でパンを買いコーヒーを飲んで朝食とするのでしょう、大層賑わっています。震える手で日記を書きながら、コーヒーを飲んでいましたが、入ってくる客のほとんどが常連客らしく、にこやかですが、なぜか入ってくる挨拶が「グーテン・モルゲン」と聞こえます。妙だなあと思って、確り聞き取ろうとしますが、やはり「グーテン・モルゲン」です。イタリアにいてなぜにドイツ語でおはよう!とあいさつするのか不思議です。帰国後、私が使っていた紙地図をよく見るとその周辺一帯の地名には必ず、ドイツ語風の地名が小さく記されているのを発見しました。謎が残りました。
 街の郵便局で切手を買い、絵葉書を投函してまた走り出します。豪快な下りが始まりました。時速40~50kmでウェットな路面を30分ほど走り続けます。恐怖でしかありません。すぐ左横を車が通り過ぎますから恐怖は倍増します。あっという間「Borzano」という少し大きめの街に着いてしまいました。その街から、私は列車を使って時間短縮し、西へ80kmほど一気に移動して、この旅最大の峠を攻めるつもりでいました。
 「Spondinig」という街までのチケットを買い、列車に乗り、広大なリンゴ畑の中を走る列車に身を委ねます。楽ちんです。線路沿いには完璧な自転車道路が整備されていて、大勢のサイクリストが行き交っています。
 車掌が「次の駅が終点です」といいながら車両を歩いていきます。あと二つ先の駅までいく筈なのですが・・・そこまでのチケット代を払っていますし・・・
 「この列車はSpondingまで行かないのですか?」と尋ねましたが、「次のLasaが終着だ」といわれました。仕方なく、Lasa駅で降りて自転車に跨り、次なる目的地、この旅最大の試練になるであろう、「Stelvio 峠」に挑みます。標高2758mです。列車から降り、その山の方向を見ると雪が見えていました。まだ9月の第三週だというのに二日前から雪が降っていることはテレビを見て知っていましたが、その姿をこの目で見ると少しビビります。路面が凍っていたらどうしよう、積雪があったらどうしよう、氷点下だったら・・・などと不都合な状況での対応に知恵を絞ります。誰かに助けを求めるような事態は避けなければなりません。
 Lasa駅を出発しようと思って自転車に跨った時、駅ホームの辺りから誰かが叫んでいる声が聞こえました。勿論、何を叫んでいるかなど知る由もありません。その声のする方を見ると、さっき車内で「次の駅が終着駅です」とアナウンスしながら歩いていた車掌さんと若者が向かい合って言い争っていました。というか、若者が一方的に車掌さんに大声で叫びながら詰め寄っています。若者の声が徐々にエキサイトしてきました。その声を聞いて、駅周辺にいた人たちも集まってきました。その駅始発のバスの運転手も乗客を乗せたまま、運転席から降りてきて状況を不安そうに眺めています。若者と車掌さんの間に割って入って両者を分けようとする人まで現れましたが、二人の距離は鼻と鼻が当たりそうなほど近いのでした。若者は左手に持った小さなカードのようなものを振りかざしながら何事か大声で訴えているのでした。若者の声は大きくなる一方です。車掌さんはほとんど声を発しません。若者をよくよく見るとイスラム系のようです。もう30分も叫び続けていますから、尋常ではありません。周囲の制止にもかかわらず怒鳴りつづけます。
 私は7、8年前、オーストリアのリンツ駅で見た、白人の老人が通りがかりのイスラム系の若者に「お前はイスラムか」と詰問し「そうだ」と答えた若者にいきなり「ファック・イスラム!」と叫んだ光景を思い出しました。私が今、イタリアの田舎町で見ている光景も同じ問題を孕んでいるであろうことが想像されました。
 車掌さんに何か言われたことに対して、若者が在留証明書をかざしながら「これを見ろ!」と自分の権利を声高らかに叫んでいるのに対し、車掌さんは反論できずにいるという状況に見えました。二人を取り巻いている今や十人ほどもいる人たちも事態の収拾に手を焼いている様子がハッキリ見てとれます。今やヨーロッパに限らず世界中の何処においても非常にデリケートな問題を目の当たりにしているのだという思いがひしひしと迫ってきました。
 ペダルを漕ぎだして、今自分がそこを涼しい顔で立ち去ることが、何か部外者を装って、そんな問題から自分ひとり逃避しているようで苦しく思ったのでした。
    9月25日、いよいよこの旅、最大の試練になると思われる、Stelvio国立公園内の 「Stelvio 峠」(2758m)に挑みます。この峠はアルプス山系ではフランスのイズラン峠に次ぐ第二の標高です。とはいっても既に夕方ですので登坂は明日です。少しでも標高を稼ぐために日暮れまで、登れるところまで登ります。麓から山頂を見上げるとすっかり雪化粧をした山塊が見えています。意気消沈・・・ヤル気減退・・・
 本格的な登りが始まる前の最後の街、「Prato alto Stelvio」で偶然にも自転車屋を見つけ、店内を覗きながら峠の状況の情報を聞き出します。
 「明日、登るつもりだけど、天気はどうでしょう?」すると店主は、「明日も雪だな」と断言します。「私はこの格好で登るんですけど、どうでしょう?」と、私は半袖、短パンのサイクリング姿の自分を指差しました。店主さん、何を馬鹿な!という素振りで首を左右に振っています。地元の自転車の店主がそういうのですから無理なのでしょう。という訳で私は「上から下まで寒くない格好にしてくれ」と頼む羽目になりました。
 店主は降って湧いたように現れた中年のアジア人の客に内心狂喜乱舞しながらも、表面上は冷静を保ったまま、世界最高のイタリアのブランドのサイクリングウェアー「カステリ」の上下冬用ウェアーと、靴を覆い寒さから守るウォーマーをテーブルに出し、「これさえあれば峠も大丈夫だ」とニンマリ。私は値段など見ずに、「じゃあ、これをもらう」といい、クレジットカードで払いました。大出費なのは明らかですが命には代えられません。
 登りはじめの5kmほどは自転車道路が整備されていて、快適なサイクリングでしたが、ほどなくそれもなくなり、いよいよ登りはじめました。さっきの街から一時間ほど登り、「Gomago」という村でホテルを見つけ、チェックインしました。「Hotel - Pension Gomagoierhof」という宿です。これまたドイツ風な名前です。ちょうど100ユーロでした。
 そのホテルのバーでビールを飲みながら日記を書いていると、若い店主が「日本人か?」と聞くので、「そうだ」と答えると、「俺は友達と来年、日本に行くんだ」というではないですか。「日本は今、観光客が凄いらしいな。これからは観光税を徴収するって話じゃないか」とやけに詳しいのでした。観光税に反対するのかと思ったら、「そりゃ、取らないといけないよ」ときっぱり。ベネチアなどの世界的な観光地をたくさん抱え、オーバーツーリズムを身を持って体験しているイタリアだからこそいえるのかもしれません。「今は円が安いから、日本に来たら王様みたいな旅ができるよ」といったら、大喜びしていました。
 夕方五時半頃、その村の南はずれのあるレストランへ行ってみたら、「クローズだ」といわれました。その村に唯一あるレストランだったのですが・・・仕方なく、ホテルへ戻ってその話をすると、「そりゃ、行くのが早すぎるのさ」といわれました。「七時半開店だよ」だそうです。「何かサンドイッチでも作るか」というのでチーズとハムの入ったサンドイッチを二つ作ってもらって晩ごはんになりました。
 そこへオートバイに二人乗りでやってきた若いカップルが、濡れて入ってきました。雨が降っているようです。
 「コーヒーを二つくれ」といってぶるぶる震えています。これからまだ200kmほど走るのだそうです。「何しろ今夜のホテルを予約してあるから行かなきゃないんだよ」だそうです。クロアチアからだというので「去年、クロアチアは結構走ったよ」というとビックリしていました。「あの世界遺産の湖、なんだっけ?」というと「プリトビッツァ!」と答えてくれました。自転車でオーストリアからモンテネグロまで走ったというと、「あなたは一体何歳なんだ?」というので「63だ」と答えると、「63でIRONMAN RACEを完走した後、こうしてアルプスの山の中を自転車で走ってるなんて信じられない。俺のオヤジよりも年上なのに」と感心していました。おまけに会計の際に「あの日本人のコーヒーも俺が払うぜ」といって、出ていきました。若者にコーヒーをおごってもらうなんて、俺は年を取ったんだなぁ~と思った瞬間でした。
 9/25日に泊まった、Hotel - Pension Gomagoierhof の若い店主は妻と思われる女性と何やらしょっちゅう口喧嘩をしていました。私という、客がいるのもお構いなしです。妻がかわいそうになってきました。
 翌朝、朝食に起きるとその女性は気温6℃だというのにTシャツ姿で外でタバコをふかしていました。思い切ってここ数日間、気になっていたことを聞いてみました。
 「この辺ではどうも皆、ドイツ語を話しているようだけど、いったいどういう事なんです?」
 彼女の答えは、「大戦中、この辺までオーストリア軍が攻めてきてイタリア人達は南へ逃げていきました。という訳で、この辺一帯はその残ったオーストリア人兵士達の末裔が今も住み続けているのです」と答えてくれたのでした。たった数日間の謎でしたが、はっきりとした答えをもらってすっきりしました。
 以前もこんなことがありました。ノルウェーを出国するその日の空港でのことです。隣の席に座っている男性に思い切って聞いてみました。あと数時間でノルウェーを出国するのでその前にその謎を解決しておきたかったのです。
 「ノルウェー人ですか?私は日本人ですが、我々東洋人は同じ東洋人でも、日本人と韓国人と中国人の違いは姿かたちで何となく判断がつくのですが、ここスカンジナビアにおいて、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの人々の違いは顔かたちから判断はつきますか?」
 男性の答えは明快でした。
 「混血が進んで、今では我々自身、その顔からはもうその判断はできなくなっています。でもフィンライド人だけは少し違うのがなんとなく分かります」という事でした。
 勿論、今の時代、ネットで調べればその男性以上の答えを一瞬にしてもらえるかもしれませんが、その答えは読み物ですから皆、誰でも一応に一言一句、完全に同じ回答をもらいますが、私はそんな答えを常々、人の口から直に聞きたいと思っています。という訳で、さっきの話になったのでした。
 しかし私、帰国後、そのことをネットで(ネットもやはり役に立つ!)調べてみましたが、私には大きな勘違いがあったのです。その大戦とは第二次ではなく第一次世界大戦での事だったのです。戦争とはいえオーストリア兵はチロルの山を、ドロミテの山を徒歩で越え、イタリアまでやってきたというのですから驚きます。
 さて、いよいよ山登りです。
 去年、モンテネグロの「kotor」の登りでは「25」のヘアピカーブがありましたが、今年のこの「Stelvio 峠」で突然現れたヘアピンカーブの回数を示す看板は何と「48!」でした。予習なしでしたのでビックリしました。その辺りでは既に雪が舞い始めていました。平均斜度8%、最大斜度は15%、距離19km、気温は5、6℃ですが、汗をかきながら登ります。時々、麓からやってくるバスが追い越していきますからいざとなったらそのバスに乗って麓に引き返すこともできますから、少し安心ですが、その日、私の他にその峠を登っている人がいないので、そこは不安です。(やはり、こんな日に登るのは俺みたいな馬鹿者だけか・・・)
 寒い雪の中、車の窓を開けて「アレッ、アレッ、アレッ」と声をかけてくれる人もいます。(これはヨーロッパで自転車乗りを応援する時に掛ける声援の決まり文句です)時々振り返って自分の登ってきた九十九折のヘアピンの道を眼下に望みますが、雪で見えません。この旅のハイライトになるはずだったその峠「Stelvio」は、写真を撮りながらのんびり登ろうと思っていたのですが、写真を撮るような景色はなく、休むと体が一気に冷える為、ただただ黙々とそのヘアピンの数を表す看板をひとつひとつやっつけていくだけです。目指す頂上の方向、遙か遠くの彼方、雪の中に建造物がぼやけて見えてきました。その頃にはヘアピの数を表す看板の数字は「10」になっていました。そこに至るまでの風景はほとんど記憶にありません。まあ、見ても見えないので黙々と登っていた為でしょうが、まったくもったいない山登りになっていました。対価である絶景がないのですから。
 勿論、路面は濡れていますが、幸い積雪には至っていません。
 やっと辿り着いた頂上「Stelvio峠」は完全に吹雪の中でした。
それでも多くの観光客が土産物屋やレストランにたむろしています。でも自転車乗りは私ひとりでした・・・
 登りではスピードが出ませんから少々の雪でも走れますが、気温4℃、斜度8%の下りを、雪の中下るのは危険です。滑って転んでそのまま車に衝突してしまうことも考えられます。ハイ、ワタクシ、旅行傷害保険といったての物には一切入らないたちです。外国で、しかも3000m近い標高の山の中で事故でも起こしたら相当面倒くさい事態になりますから、それは避けなければなりません。バスで下る手もあるなぁ~と思っていました。
 レストランに入りコーヒーを飲みながら日記を書き、カウンター内にいる店の主人と思しき人に、「Bormio方面へ下るバスは何時があるんですか?」と聞くと、
 「一昨日の初雪で今年のバスは終了したよ!」と笑顔で告げるのでした。「という訳だから、君は自分の自転車で下るしか手はないよ」といいながら、これまた爽やかな笑顔です。勿論、昨日、麓の街でそのために買った「カステリ」の超高級防寒ウェアーがあることはありますが・・・(昨日の宿でそのカステリのウェアーに払った金額を確認して腰が抜けました。驚愕の¥80000弱!)生涯でそれほど高額の服を買ったことはありません。もったいなくて着る機会がなさそうです。
 が、早くも着る機会が来てしまいました。コーヒーを飲みながらそのウェアーを着込みます。中身はへなちょこライダーですがそれを着ると一流のサイクリストに見えますからクリビツ・テンギョウ!
 せっかく登った「Stelvio 峠」でしたが、コーヒーを一杯飲んだだけ、小一時間の休憩で撤退!です。雪がこれ以上酷くなるまえに標高を下げないといけません。一気に2000mは下るはずです。
 
4日間、北イタリアを自転車旅しましたが、結局、あまり天気には恵まれませんでした。まあ、仕方がありませんね、山を下ります。雪も激しくなってきましたから。
 「Stelvio峠(2758m)」から一気に2000mほど下ります。昨日¥80000で買った、超高級サイクリングウェアーを着込んでいますから、寒さは全く感じません。凄い性能です!ウェアーの威力といいますか、金の威力を改めて痛感。
 峠を下り始めてすぐ現れる右折に進むと、そこは既にスイスです。が私はそのままイタリア側に下ります。下りも多分、50回ほどの180度のヘアピンカーブの連続ですので、それほどスピードは出せません。路面が濡れていることもあり、特にカーブは攻められません。ヘアピンのきついところでは時速10kmほどになってしまいます。自分がつくる水飛沫を浴びながら走ります。しかし標高が下がれば下げるほど空気が徐々に温かくなってくるのが分かり、ホッとします。
 Bormioの街の 「Roc cafe」というところで昼食を食べた後、再び下りはじめます。そこからは超快適な自転車道路が完備されていました。途中2度ほど工事中の為、道を見失いかけましたが結局は翌日も含め「Lecco湖」の畔にある「Colico」の街まで110kmに及ぶ自転車道を走りました。残念ですが、日本では到底期待できない自転車道路です。そしてその間、ほとんど車に会う事がないのです!その行程は基本「Adda 川」沿いを走ります。北側を走ったり、時々橋を渡らせ、南側を走ったりします。雨降りというマイナス要素はあるものの、そのまま走り続けると下り基調でどこまでも楽ちんですが、せっかくのイタリア旅も川沿いの風景しか覚えていないという事になりかねないので、わざわざ自転車道を外れて、近隣の街を通ったりもします。
 夕刻、「Tirano(標高450m)」という街に着き、「Albergo Gusmerolis」というホテルに投宿。85ユーロ、¥15500なり。部屋のすぐ眼下にはその日一日中私の傍らを流れ、アルプスにその源を発するAdda川があり、北側の斜面には広大なリンゴ?畑がどこまでも続いています。シャワーを浴び、手洗い洗濯を済ませ、少しベッドに横になってから、街に繰り出します。
 適当に歩いているうちにいつの間にかTiranoの駅に着きました。さすがにその辺りは結構な賑わいでした。何しろそこ「Tirano」はスイスとの国境の街で、有名な高級山岳リゾート「St.Moritz(サンモリッツ)」までの列車の始発駅になっています。やはり一見して何やら金持ちそうな人々が大勢います。
 その駅までの道すがら、「パレスチナに自由を!」というデモをしている人達を大勢見ました。今回の旅を通してどこにでも見られた風景でした。
 駅に隣接した「Ristorante Vittoria」というレストランに入ります。自分にはちょっと高級すぎる雰囲気でしたが英語のメニューもあって助かりました。ビールを二杯飲んで、牛のフィレ肉のステーキを食べて、コーヒーで〆て¥6000ほど。
 標高2000m超の山岳地帯で4日間過ごした後、山を下ってくるとやはり終わった感は否めません。もう少し走っていたい気もしましたが、天気予報を見ると天候の回復も望めそうにありません。そんな訳ですから、明日もう一日だけ走って、その先は適当なところで列車に乗って、スタート地である、「Emilia - Romagna州のCervia」まで帰る事にしました。
 9/27 朝、Tiranoの街を出て西を目指します。昨日から走っている自転車道「Sentiero Valtellina」をひたすら「Adda川」に沿って走るだけです。非常に緩い下り基調な道ですから楽ちんです。しかし、雨が降り出しました。全く天気に恵まれない旅です。雨具を持っていない呑気なサイクリストは、仕方がないので¥80000の防寒具を着込みます。手袋はスグにぐじょぐじょになってしまいました。気温は10℃ぐらいでしょうか、休むと寒くなってしまいますから走り続けます。
 Tiranoから20kmほど走った「Carolo」という村の辺りで急に道が狭くなり、いきなりの石畳み、それも丸い石を埋め込んだ、全く自転車乗りには迷惑極まりない道が出現しました。ところが周囲の家々の姿といったらいったいどうしたことでしょう?時代が1000年ほど巻戻ったかのような佇まいです。道幅はせいぜい3m。本当に時間が止まったようで、人間の息使いも感じられません。それでも家々の窓には花が飾られています。そんな道ですから自転車を降りて、歩く羽目になりました。すると音すらしなくなりました。緩く曲がりくねったその道を時々風が通り過ぎるだけです。やはりそんな村がイタリアの田舎には残っていたのです。誇ることも、観光客を呼び込むこともせずただひたすら時をやり過ごして生きながらえてきたのでしょう。史跡にすらなっていません。眼下にはさっきまで共にあったAdda川が見えています。
 そんな事もありますから、快適な自転車道ばかり走っていてはいけない!もっと見なければ!と思い立ち、自転車道を離れることにしました。やみくもに南に下り、丘の上にある村を目指します。いきなり20%超の登りでしたが、交通量がゼロなので車道の幅全部を使いジグザグに登ります。そこもまた時間が止まったような村でした。時々車が通りますが、東洋人の私を見て皆一応におどおどしています。
 田舎道を走っていると、時々私の「ボンジョルノ」や「チャオ」の挨拶に反応しない人がいます。二日前にも見たイスラム系住民と、もともと住んでいる住民の間に広がっている移民排除運動と同じ反応なのでしょうか。挨拶を無視されるのは結構、痛いものです。「おいおい、その昔、日独伊同盟で共に戦った仲じゃないかよ~」とひとり、ぶつぶつ嘆いたりします。
 そぼ降る雨の中、行く手に大勢の人が見えます。多分「Caiolo」という村だったと思います。さっきから時間に関係なくどこかの教会の鐘がやかましく鳴りつづけていましたが、どうやらその目の前の教会で鳴っていた鐘の音だったようです。雨の中皆、笑顔です。盛装して何かを祝っているようでした。どうみても人口300人程度の村ですが、交通整理の人が出るほど周囲は混雑して、交通渋滞すら起きています。自転車を止めて、その中のひとりに尋ねてみました。
 「いったいなんのお祝いですか?」
 「この教会の○○○の百周年のお祝いですよ」と嬉しそうに答えてくれました。何の百周年なのかは聞き取れませんでした。雨の中、紙地図を広げてみると「Chiesa parrocchiale di S. Vittore」というカトリックの教会であることが分かりました。17世紀に建造されたのだとか。
 もう二度と来ることがないであろう旅は、やはりそうやって、キツイ登り道を登ってでもあえて寄り道をしないといけないなぁと痛たく感じた出来事でした。
その後、雨は酷くなりました。地図を確認しながら、何とか、その自転車道の終着地「Colico」までは走ることにします。そこは二日間一緒に走り続けた「Adda川」の水が「Lcco湖」にそそぐ地点です。ちょうど切りが良い場所と思われました。
 「Colico」に到着し、今回の自転車旅もそこで終了です。
 「Colico」からは列車に乗ります。その名にし負う「Mirano」までは南に100km程度です。この冬、「Cortina」と共に冬季オリンピックを開催します。ですが、ワタクシ、都会が苦手です。特に、その時間から移動するとなると、夜にホテル探しをする羽目になります。ですので、「Lecco湖」岸を南に列車移動し、その名と通りの「Lecco」という街でホテルを探すことにしました。そして「Lecco」に着いたら土砂降りの雨になっていました。という訳で、駅から見えた「HOTEL」の看板に駆け込みました。
 「もう少し安い部屋はないですか?」という交渉空しく、「Hotel Moderno MPM SN Lecco」は一泊朝食付き100ユーロ(税込¥19500)なり!
 ふ~、旅先での雨は凹みます・・・
 
    「Lecco」のホテル「Hotel Moderno MPM SN Lecco」にチェックインした後、シャワーを浴び、雨の中、食事に出かけますが、遠くまで行く気にはなれずホテルから歩いて30秒のところに見つけたケバブ屋に入ります。外国に行くと何処にでもあるこのケバブ屋、イスラム圏にある、肉がメインの料理屋です。カジュアルな食堂といった趣です。ヨーロッパで小麦の料理に飽きた時にはこのケバブ屋に行くと心も胃も救われます。ホテルにチェックインした後、自転車を外のガレージに移動する際、ホテルのフロント係とその店の前を通った時に、私が「あなたはどこの出身ですか?」と聞くと「エジプトだ」と答えてくれました。ちょうどその時、そのケバブ屋の前を通ったのでで、「このケバブ屋も君たちと同じエジプト人がやってるのかな?」と聞いたところ、「彼らはトルコ人さ」と妙に突き放した言い方をしたのが印象的でした。
 そのケバブ屋に入り、何を頼むか壁のメニューを見ていましたが、イタリア語ですし、イスラム料理が何たるかも知らないので何を頼んでいいのかわかりません。そんな時は、「俺にもあれをくれ」と既に何やら食べている人の料理を指差して言う事にしています。これ、間違いありません。果たして出てきた物は、到底自分ではオーダーできるような代物ではありません。野菜から肉までそろった、文句のつけようがない、いわば定食のようなワンディッシュ料理です。「あれと同じものをくれ」と私に指差しされた、若いカップルに向かって笑顔を向けると、彼らも笑顔で返してくれました。そこへ、北部イタリアでは見慣れない、3人の子連れの若い黒人夫婦が入ってきました。子供たちは、3歳~6歳といったところです。子供たちは私が食べている物をじろじろ見ながら「あれが食べたい」といっているようでした。すると若い母親と父親は「人様が食べているところを邪魔してはいけない」とか、「我々はピザを食べに来たんだよ」などといって辛抱強く子供たちをなだめている様子でした。そういっている間にも子供たちは他の人達の食べ物にちょっかいを出そうとします。格好を見ても決して裕福とは言い難い黒人の若い夫婦ですが決して叱ることなく、忍耐強く子育てしている様子がハッキリと見えて、感心させられました。その5人の家族は1枚のピザを6等分してもらいフレンチフライを分け合い、ワイワイいいながら賑やかに食事をしているのでしたが、その様子を見ていた店主は入店直後から見せていた招かざる客に対する不愉快な態度がますますあからさまになるのでした。騒々しいわりには少額しか使わない黒人を忌み嫌う態度です。エジプト人がトルコ人を蔑み、トルコ人が黒人の家族を蔑む。人の世の縮図をみました。
 翌日は列車に乗って一気に出発地点に戻る旅が始まりました。1日がかりです。その頃には自販機で切符を買う術を完璧にマスターしていました。まずは「Milano」まで行きます。
 さすがMilano駅、豪華な駅舎です。駅は人でごった返しています。私が次乗る「Bologna」行きの列車が出るまでにはまだ2時間ほどありますから、自転車に乗ってMilanoの街に繰り出します。日曜日の朝という事もあり、街は清々しくのんびりしています。おまけに快晴です!私の旅が終わった途端、これです。トホホ。
 Milanoの街、何処へ行っても路面電車が走っているため、線路の轍に気を付けながら走らなければなりません。轍にはまったら絶対に転びますから。
 一昨日までは山の上で雪の中サイクリングしていましたので冬だったのですが、標高の低いMilanoの地上では街路樹が黄色や赤に変わって季節は逆戻り、すっかり秋の気配で、風も秋らしく冷え冷えしています。
 Milanoから、次は「Bologna(ボローニャ)」行きの列車に乗ります。日曜日の為でしょうか、列車は超満員です。Bolognaでも待ち時間には自転車で街に繰り出します。ちょうど昼時という事もあり、晴天のもとでランチを楽しむ観光客が大勢いて、歴史を感じさせるアーケード街は大賑わいです。正に世界中から人が来ているという感じです。でも道路といわず、建物等々、工事が多くて少々残念でした。  
 後に「Roma」の街をを見ても感じましたが、イタリアという国は貴重な建物が残っている分、その建築物を壊して新しく造り直すということが多分、出来ないのではないかと想像されます。何しろ世界遺産を世界一所有している国ですから、規則に縛られている側面もあると思われます。日本のようにスクラップ&ビルドが出来ないのでしょう。ですので、未来永劫、修理修繕しながら使い続けるしかないのです。というわけで、工事中が多いのではないでしょうか。などと思いながら、街を散策して駅に戻りました。そこからはいよいよ、出発地点の「Cervia」に戻る列車に乗るだけです。いってみれば家に戻るような感覚です。
 7番トラックから列車が出るという表示を見て、私はそのホームで待っていました。しばらくすると列車がやってきたので乗り込みました。もうこれで家に帰るだけです。7日ほどの北イタリアの自転車旅行も終了です。列車内が暖かかったこともあり、いつの間にか寝ていたようです。無事に旅を終えたという安心感も手伝っていたのでしょう。その路線はローマから来た時に既に一度乗っている路線ですから何となく風景は覚えています。しかし目が覚めて車窓の風景をぼんやり眺めていると何か妙です。アドリア海に向かっていわば、下っているはずなのですが、列車はどうも登ってるかのようです。一度見ているはずの風景も見当たりません。慌てて紙地図を広げ、行き過ぎる駅名を確認しながら、いったい何処を走って何処へ向かっているのか調べます。
 しかし、解決する前に強制的に解決されました。
 「次は終着駅のVignoraです」というアナウンスがあったのです。慌てて、地図でそのVignora という地名を探しますが見つかりません。何分ぐらい寝ていたのかも分からないので、「Bologna」からどの程度離れたかも想像がつかないのです。ちょうどそこへ車掌が現れたので聞いてみました。
 「Bologna へ行くつもりでこの列車に乗ったのですが、ここはどこですか?」
 車掌は私が持っている紙地図の一点を指差して、「我々は今ここにいます」と教えてくれました。
 「Bologna へ戻るにはどの列車に乗ればいいのですか?」と尋ねると、その車掌、「大丈夫です、この列車はあと30分したらBolognaに向けて走り出しますから、このまま乗っていてください、でもこれから車内清掃があるので、一度出てもらわないといけません」と教えてくれました。距離にして35kmほど「Cervia」とは逆の方向、西へ来てしまっていたのでした。寝込まなければひとつめの駅で間違いに気づいて即、降りて引き返せましたが何しろ小一時間寝ていたようでした。それにしてもなぜ違う列車に乗り込んでしまったのでしょう。予定の発車時間になっても列車が発車しないなぁ、とは思ったのですが、何しろ少々の遅延は良くあることですし、いきなり「Cancel」の表示が出てもそれほど驚く事ではないですから、のんびりしていたといえるかもしれません。
 「私はどこで間違えたのか分かりません・・・」と車掌に聞いてみました。すると車掌、「乗り場を間違えたのですよ」と当たり前のようにいいます。そんな筈はありません。7番線という放送を聞き、時刻表の掲示板で確認したのですから、納得がいきません。発車直前に乗り場が変わったのでしょうか。(これ、よくあります)
 納得がいかないまま、その列車は始発駅だったBologna へと向かってまた走り出しました。そして着いたBolognaの駅。「Cervia」行きの列車の時刻と乗り場の案内表示を確認します。既に夕方ですがまだ列車はあります。そしてそこにはしっかり「7番線」という表示があります。これではまた「Vignora」に行ってしまうに違いありません。その辺にいる駅員に聞いてみますが、列車の運行には関係のない駅員のようで要領を得ません。駅構内を自転車を押しながら、ウロウロしますが、7番線はやはり目の前にあります。時間はまだ少しあるので思い切って地下に行ってみます。そこにもまた多くのホームがありましたがそこは二桁の数字が並ぶホームでした。そこにやってきた若い高校生ぐらいの二人組に聞いてみました。
 「この7番線というのはどこにあるんだい?」すると彼女らは、私が間違えたあの7番線を示すのでした。そこで私はもうひと押ししてみました。
 「Cerviaへ行くんだけどその7番線では行けないんだよ、一度既に間違えて乗ってしまったんだよ」と伝えると、彼女らはあっさり「それじゃぁ、あっちの7番線よ」とあらぬ方向を指差すではありませんか。「違う7番線があるのかい?」と聞くと、「そうよ、何か問題でも?」というような態度です。と、そこへ物凄い勢いでたくさんの荷物を背負った女性のバックパッカーが走ってやってきました。走りながら「7番線はこっちね!」と叫んでいます。どうやら私と同じ状況に陥り、慌てている様子です。時計を見るとなるほど、あと5分しかありません。何故か私も自転車を押しながら彼女と並んで走る羽目になりました。「なぜ7番線がふたつもあるんだい?」と私が聞くと、「まったく、どうなっているの?」といっているようでした。(はっきりとは判別できませんでした)
 そうです、あろうことか7番線は二ヶ所存在したのです。どうやら、ローカル線用の7番線と主要都市間を結ぶ高速列車用の7番線があるらしいことが後に分かりました。ローマから来る時には同じ高速路線同士での乗り換えだったので間違えることがなかっただけです。凄い落とし穴です。
 外国人旅行者にはキツイでしょう、あれは・・・・
   列車を乗り間違えたものの何とか、夜9時、既に懐かしい感じさえする、Cerviaに到着。自転車でホテルに向かいます。
 「今、帰ったよ~」というと、フロント係の「Marika嬢」が幽霊でも見るかのような顔で迎えました。「日曜日に帰るって予約を入れたじゃないか」というと、慌ててコンピューターを調べ出しました。
 「そうそう、今回はいい部屋を用意しておいたわよ」といいながらキーをくれました。預けておいた空の自転車ケースを受け取って、レースも含めて今年も1000kmほど走った自転車に感謝しながら掃除をし、箱詰めします。明日朝にはRomaに向けて旅立ちます。
 今年の旅も何事もなく無事に終えられたので、ビールを飲みながらのんびり、箱詰め作業をすることにしました。階下へ行って「ビールをくれ!無事に旅を終えたのでお祝いだ」というと、Marika嬢ともう一人の若い男性フロントマンが「ヒロシ、これは我々からのお祝いだ」といってビールをくれました。旅の話をせがまれたので、雪の峠の話などをしましたが若い2人にはその峠の場所が分からないらしく、反応は薄かったです。アドリア海沿岸の夏のリゾートで暮らしていると、同じイタリアとはいえ雪の北部の事には少し疎いかもしれません。
 翌朝、朝食を済ませ、合計7泊した宿を出発します。
 Marika嬢が「ヒロシ、今度はいつ会えるんだい?」と聞くので
 「勿論、来年のこの大会さ!」と答えてお別れとなりました。
  参加すら危うかったレースと共に、何かと協力してくれたホテルのオーナーや従業員の親切な対応は忘れられない思い出になりそうです。それとキツカッタ、雪のイタリア・アルプスの山々。
 昨日の逆を列車で帰ります。Bolognaまで一旦出て、Romaまでは超特急列車で一気です。
 Romaに行くのは少々不安があります。Romaに限らず大都会は油断も隙もありませんから、常に緊張感を強いられます。私は自転車が入った大きな箱をゴロゴロと押しながら移動しますから、身動きがのろいです。隙だらけかもしれません。おまけにRomaはスリや置き引きが多いところと聞きます。憂鬱です。
 Romaの駅に着いて、真っ直ぐホテルに向かいます。駅から歩いて5分ほどの場所で助かりました。何しろ荷物が大きいですから。
 途中、ホテルの住所が記された紙をを示しながら、開店準備に忙しい露店の八百屋の男に「この住所はこの方向でいいんですか?」と尋ねたら、「俺は忙しいんだよ!見りゃわかるだろう!」とドヤされてしまいました。やはり都会は怖いです。
 通りに並ぶビル群はどの建物もかる~く200年は建っていると思われるものばかりです。日本の木の建造物とは違い、全てが石で出来ています。
 やっと辿り着いたと思われる住所で立ち止まっていると「君の目指すホテルはここだよ」といいながら去っていた男性がいました。さっきの八百屋のオヤジとの会話を聞いていた人でしょう。そんないい人もいます、大都会。
 ホテルは10階建てのふる~いビルの5階にあるらしいです。物凄いふる~いエレベターが2階からありましたが、私の自転車箱は入りそうにないので石の階段を登ります。といいますか、そのエレベーターいつ壊れるかわかったもんじゃないと思わせる代物でした。滞在中、私は一度も乗りませんでした。
 そしてその石の階段、何ってこった!人の歩くところがすり減って凹んでいるではありませんか!石をもすり減らす人々の歩みを目の当たりにして驚愕!ITALIA恐るべし!
 シャワーを浴びて身軽になってRoma の街に繰り出します。
 二階建ての観光バスの呼び込みをしている男に声をかけて乗り込みます。Roma の街の大きさを知るにはいい方法です。Roma の有名な場所を巡るツアーバスです。著名な場所ではバスは止まって乗客が乗り降りします。その赤い二階建てバスは数台が決まったルートを一日中周回しているのです。ですから、見る物を見たら、またその降車場所に戻ればいつかは赤いバスがやってくるという仕組みです。とはいいますが、Roma 、渋滞がひどすぎて、バスは動きません。走っている時間よりも渋滞にはまって止まっている時間の方が長いです。車、バス、バイク、人、挙句は電動キックボードなる代物も登場し、それらが何の秩序もなく入り乱れて流れます。信号は辛うじて守られています。完全に、世にいう「オーバーツーリズム」ですね。
 人々が歩いて暮らしていた時代、あるいは精々、馬に乗っていた2000年前の街が今もそのまま残るRomaですから、そこに車やバスが入れば当然渋滞します。道幅は2000年前のままでしょうし。(街の保全、保存は絶対でしょうから、改造は出来ないでしょう)耳を澄ませば、Romaの街の悲鳴が聞こえそうなほどひどい有様です。
 私はその二階建てバスに乗りっぱなしで一度も降りることなく始発地点に戻りました。その結果、Roma の街は頑張れば一日で全部歩いて見られるのではないだろうか、という結論に達しました。そりゃそうなはずです。2000年前の民は皆、歩いていたのですから、全ては徒歩圏内にあって当然です。私はRomaでの残された明日一日を2000年前のRoma人に倣って、歩いて見ることにしました。
 夕食は街のcafeに入り、カクテルを飲みながらだらだら過ごしました。日記を書いているとウェイターが「いったい何語を書いているんだい?」と話しかけてきました。アルファベットが一切入らない言語ですから彼らも不思議なのでしょう、そんなところから会話が始まったりします。
 夜、ホテルに戻ろうとしましたが、映画館があったので入ってみました。私は外国で映画を見るのを楽しみにしています。それと、床屋に行くのも。
 現在6:00pm。6:30pmから何やら始まるらしいので「6:30pmからのチケットを一枚」というと、イタリア語で何やらいわれました。多分、字幕の事を云ったようでしたが結局よくわからず、「6:30pmからのを一枚!」と連呼してチケットをゲットしました、が、何の映画なのかは皆目分かりません。タイトルは「Una Battaglia Dopo L'altra」だそうです。
 そこは9つスクリーンがある、夜専門の映画館のようです。11ユーロ払いましたから¥2000弱といったとこです。席は300ほどあり、結局は40人ほどの客が入りました。
 映画が始まると、ディカプリオ君が出てきました。それと、ショーン・ペン君も。
 ハリウッド映画ですので登場人物は勿論、英語で話し、イタリア語の字幕がスクリーン下に出ます。時々、ディカプリオ君がスペイン語を話しますが、その時はイタリア語字幕は出ません。多分、イタリア人、理解できてますから。
 ですが、1時間ちょっと経過した辺りで、いきなり映画がストップしてしまいました!何か電気系統のトラブルだったのでしょうか。ところが、スクリーンに「10分間の休憩をします」という内容の文字が現れて呆然・・・映画は唐突に「休憩」しました。映画の作者の意図とは全く関係ないところで休憩なんかしていいのでしょうか、承諾を得ているんでしょうか、謎です。
 そして、イタリア人、上映真っ最中、突然携帯電話を使って調べものをし始めたりします。ですから上映中、館内ところどころで携帯の灯りが灯って気分が削がれます。まあ、それもイタリア人の楽しみ方なのでしょう。映画館を通して、そういった国民性の違いを楽しむのも私の楽しみなんです。
 映画が跳ねたのは11:00pm。それからホテルまで帰るのには少々勇気がいりました。夜のRoma、油断なりません。いざとなったら走りますが、用心に越したことはありません。路上生活者が多く寝ている通りで、緊張マックス!最後にジェラート屋でジェラートを買って何とかホテルに生還。長い一日でした。Roma一日目終了。明日はいよいよイタリア最終日です。 
     Roma滞在二日目、というか最終日。
 ホテルにあった紙地図を持って、朝9時から歩きはじめました。しかし街は既に観光客で一杯です。夏の暑い盛りを過ぎて丁度良い観光シーズンなのでしょう。
 コロッセオ(円形競技場)に行きましたが、何と、IDを持っていないと切符が買えません。観光客の出身国の統計でもとっているのでしょうか。という訳で外側を眺めて終わりです。
 Romaの道はほとんど直交することがなく、曲がりくねっていますから目的地にたどり着くのには難儀します。とはいっても通りひとつ間違えたといっても次の道がすぐそばにあるので大して問題にはなりません。ひとブロックが小さいのです。問題になるのは交通渋滞です。尋常ではありません。昨日も観光バスに乗って感じたのですが、バスは走っている時間よりも渋滞で止まっている時間の方が長いのです。勿論、バスに限った事ではありませんから、Roma中で無駄に使われている燃料の事を考えると絶望します。
 どれを見ても紀元前、という建造物ですので何か時間の基軸がズレル感覚があります。建物の説明看板を見ると「ジュリアス・シーザー」等が出てきますからビックリ仰天です。エジプト滞在中にクレオパトラとイイ仲になって子供まで作ってますよぇ~。
 Romaの街なかでは今現在もといいますか多分、未来永劫続くであろう発掘調査が粛々と行われています。という訳で、何処にっても工事中です。ですから、Romaはどこにいっても騒がしいです。閉口・・・
 古い建物であっても新築にすることはできないのではないでしょうか?多分、2000年間、修理、補修の連続だったのでしょう。とはいっても日本とは違い、石の文化、建造物ですから火事にも地震にも強いのでしょう。
 歩きながら適当に食べ、飲み、「真実の口」まで辿り着きました。それは教会の一階部分の奥まったところにありましたが、そこに手を入れたい観光客で既に長蛇の列。俺はムリ~、と鉄格子越しに見えるその石板を外から写真を撮って終了とします。向かえの公園に水飲み場があったので行ってみると路上生活者が洗濯をしているところでした。あまりに天気が良いので着ている物を脱いで洗い、木に干しています。「水をくれ」という動作をすると、素直に場所を譲ってくれました。Romaの街にはところどころにそうした蛇口が設けてあります。そして皆、直接飲んでいました。うまい水でした。
  バチカンにも行ってみました。といいますか、川を越えるとそこがバチカンです。サンピエトロ寺院には世界中から信者がやってきていて大賑わいです。
 何しろものすごい数の観光客ですから、私が心配していた、治安の悪いイタリア、ローマという雰囲気は全く感じられず、思いの外、安心して歩けたのはうれしい誤算でした。白昼堂々、サンピトロ寺院の真ん前でスリ、ひったくりはさすがに極悪人でも罰当たりだと思うのでしょうか。
 ぶらぶら歩いていたら、見たことのある風景が目の前に繰り広げられていました。大勢の観光客で賑わっています。映画「ローマの休日」でオードリー・ヘップバーンがジェラートを頬張っていたスペイン広場でした。ただぶらぶらしていても有名な場所に辿り着くというのがRomaなのですねぇ~ と納得しました。
 そんなこんなで午後の4時過ぎまで、合計7時間ほどRomaの街を歩き回りました。誰もがスマホを見ながらウロウロしていましたが、その日の全ローマ観光客の中で私を含め3人が紙地図を片手に歩いていました。そのひとりに私は地図をぶらぶらさせながら笑いかけると、その男性も笑い返してくれました。紙地図同志連合の絆は強い?のです。
 夕方、いよいよ、この旅最大のイベントに向かうべく、着替えを済ませました。
  Romaの街を7時間歩いて観光した後、一度ホテルに戻って、着替えを済ませます。Roma最後の夜にはこの旅最大?のイベントが控えていますので。
 ホテルの受付嬢にスーツ姿の自分の写真を撮ってもらいました。もう二度とないかもしれない晴れ姿ですので。
 少々歩いて感じの良い「Amodei」というレストランに入りました。そこでビールを飲み、その後、白ワインを二杯飲みながら、サラダ、ポルチーニのリゾットを食べます。このリゾットが美味かったです!調子に乗ってデザートを頼みましたがこれがまた絶品!もっと調子に乗って、違うデザートをもう一品とコーヒーで〆ました。
 そしていよいよその夜のメインイベントに向かいました。場所は昨日の夜のうちに下見をしておきましたので大丈夫です。「ST.PAUL'S WITHIN THE WALLS CHURCH」という教会で行われるオペラ「LA TRAVIATA」の鑑賞です。日本では「椿姫」と呼ばれる演目です。開演1時間前に行きましたが誰もいません。のんびり待ちます。チケットは日本からネットで購買済みですので安心です。日本的にはSS S A Bと呼ばれる席のA席を35ユーロ(¥6000強)で購入していました。初めてのオペラ鑑賞で、礼儀もしきたりも知らないので最前列で鑑賞して常識外れなことをしでかしては大恥をかきますから遠慮気味にA席を購入したわけです。少しづつ人が集まりはじめました。その人たちの装いを見るとそれほどきついドレスコードがあるようではありません。キャパ300ほどの古い教会での公演ですのでそこは少しゆるそうです。そうとはいっても旅人の私はTシャツと短パン、それに8万円の最高級サイクリングジャージーしか持っていませんので、45年前の代物とはいえ、やはりスーツを持って来たのは正解でした。それは高校を卒業し、東京に出た時に叔母が買ってくれたものです。勿論、革靴まで持ってきています。大都会Romaでの2日間をいかに楽しく過ごそうかと考えた時に「オペラ」が浮かびました。たまたま「椿姫」は原作を読んでいたという事もあり、ピッタリな演目でした。
 開演30分ほど前から入場待ちの列が出来はじめました。席まで誘導する係の女性が2人います。その女性が「何名ですか?」と聞きますからそれに「○○名です」と答えると、その女性は即座に、教会内のSS S A Bの空席を確認して決して迷うことなく一直線にその目的の席へ誘導してくれるのでした。見事な仕事でした。私は独りでしたのでポツンと座っていましたが、隣に3人のアジア人が座ったと思ったら日本人でした。席誘導係の女性の見事な対応です。おかげで開演までその方とおしゃべりが出来ました。
 12人からなるオーケストラの静かな調べから始まり、男女ぺアのバレエが5分ほどあり、いよいよ開演です。出演者は10人ほどで、全員で歌う場面では思わずこんな私でもニヤリとしてしまいました。ステージの上方が思いっきり吹き抜けになっているため反響が激しく、歌っている言葉がハッキリ聞き取れなかったのが少々残念でしたが、それによってオーケストラの響きが良くなると考えると、致し方なしですね。勿論それと、普段の神父さんの説教の声が信者さんに心地良く響くという意味でも吹き抜け効果は大事ですからね。
 私はステージで交わされている歌唱の内容は友人から借りたCDで予習していたこともありだいたいついて行けていましたが、やはりそうでもない人もいるようです。私の二列前に陣取っていた4人のスペイン人のうちのひとり、ハゲ頭の男性は、時々、いきなり大声で歌いだすステージ上の進行にが全く理解できないらしく、頭を左右に振ったり、うなだれたりしています。おまけに時々、左右の連れの人に話しかけたりしています。その話しかけられた友人も何やら迷惑そうな対応をしています。周囲の客もそのトンチンカンなハゲ頭のスペイン人を時々にらめたりしていましたがその男はそんなことは全く意に介さず、大きなため息なども聞こえてきます。この手の困った御仁とはどこの国に行ってもいるものなのですねえ。
 第一幕が終わり休憩が15分ありました。あろうことか、ハゲ頭のスペイン人が帰ってきているではないですか。飽きたのなら、どこかにいってビールでも飲んでいればいいものを・・・そのハゲ頭ヤロウ、第二幕でも全く落ち着かず周囲に迷惑をかけ通しなのでした。
 困ったことはもうひとつありました。
 よりによって・・・主演ヴィオレッタ役の女優さんの首筋から背中にかけて入れ墨が・・・
 今の欧州の若い女性は結構の割合で入れ墨が入っていますから、墨なし女性でなおかつ、歌える女性となると探すのは困難を極めるはずです。といいますか、実は欧米では日本ほど入れ墨が入った女性に対して先入観がありませんから私が思うように「あれれっ、いったいなんで・・・」とはならないのでしょう。女優選びのオーディションで決してマイナス要素とはならないのでしょう。
 Italia の最後の夜はそうして更けていきました。ショーが跳ねたのは11時近かったのでホテルまでの帰り道が少し不安でしたが、周囲に隙なく目をくばり、緊張感を保ってホテルに辿り着きました。途中確り、昨日の夜と同じジェラート屋でジャラートを買って帰りました。
 17日間にわたる Italia 滞在記これを持ちまして終了です。
 長い間お付き合いいただきありがとうございました。
         
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