よりみち日記&身近な法律

2026-07-23 22:28:00

 今般、叶生直子著「叶実統闘病記 これ以上がんばりきれぬ」(出版企画あさんてーな。2005年・平成17年12月26日初版発行)を読んだ。発行者は、出水澤藍子氏。ページ初頭に数枚の写真があって、中に実統と並んで「泉延宏」という人物の集合写真が数枚有った。以前見た芳朗の小さい頃の家族写真の中の父親とよく似ていた。もしや、泉芳朗の父親ではないか、と思って読み進めていくとやはり芳朗の父親だった。何人もの人が本の中で芳朗の父だと証言していた。

 写真は、伊仙村長、実統と、助役、延宏だった。村政のトップとナンバー2だ。延宏は、若いことから村役場に30余年奉職し、助役まで上り詰めた能吏だった。又本書によれば、延宏は村長選挙にも立候補したりしている。後年、名瀬市長も務めた芳朗は、政治家の血筋も継いでいたのである。實統が村長だった時期は、昭和8年から昭和22年までの14年間。延宏が助役だったのは、いつから就任したのかは不明で、「昭和15年3月14日に期間満了で足痛のため職に耐えがたく」退職とあり、「昭和11年3月19日に改選で再選」との記述から2期8年間のようだ。また、西山清良氏《当時の犬田布小学校校長?)は著書「たわごと人生」で、泉助役は「太っ腹の人で、助役さん、【犬田布の】学校にもこんな火鉢が欲しいですな、というと、《欲しければ持って行け》とにこにこしながら言った。冗談と分かっていながら《火鉢を》引き出して私は自分の学校に即時運ばしてやった。助役はにっこりして知らぬ顔」だったという。

 他の記述では、芳朗が実統の末期に入院した鹿大病院に見舞いにも行っているし、実統の村長時代には、視学としての芳朗と何度か交流がある。助役の子息ということで親しみもあったのだろう。本書には実統の日記も掲載されていて、期間は昭和8年から21年までである。ちなみに、日記に志那事変で戦死した私の叔父の名前も出てきたからびっくりした。身内の話で恐縮だが、その下りを少しだけ紹介しておきたい。

「昭和13年2月17日 嶺豊、富太郎両上等兵の村葬を施行す」

 この後、村葬がどんどん出てくる。おそらく叔父富太郎は支那事変における村内出身者の最初の戦死者だったのだろう。私が小さい頃に、面縄浜にたくさんの人々が幟みたいなのを立てて集まっている写真を見たことがある。出兵の時か村葬の時かの、いづれかだったのだろう。日記には、「昭和12年8月2日、応召兵本日出発 台風在り」「8月5日、歩兵45聯隊鹿児島駅より出発す、支庁長来電」とある。叔父の戦死は、(中華民国江蘇省に於いて)昭和12年11月15日なので、出兵してから約3か月だったか。江蘇省は、かの有名な南京事件の場所でもある。叔父にとっては、どんな戦場だったのだろう・・・。太平洋戦争になってからは戦死者が大幅に増えた?ので村葬の記述はもう見られない。日記では、終戦前の台湾周辺における有名な日本軍の戦果の誇張情報も見られる。大変な戦争だった。

 最後に、著者(実統の子息彰男の妻、元教員)により、本書が売り上げ収益金のすべてを伊仙町の青少年育成のために寄付する、と記されていることも書き添えておく。

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