日記
日米の戦力差(艦艇)
太平洋戦争開戦時、終戦時の日米海軍艦艇戦力差と、沈没艦艇数をあげてみます。
開戦時の海軍艦艇数
日本 戦艦10,空母(航空母艦)9,重巡洋艦18,軽巡洋艦20,駆逐艦112,潜水艦64 合計233隻
アメリカ*( )内は太平洋艦隊所属艦数 戦艦17(9),空母7(3),重巡洋艦18(12),軽巡洋艦19(9),駆逐艦214(54)潜水艦114(25) 合計389隻 (112隻)
終戦時の海軍艦艇数
日本 戦艦4(但し、3隻大破、1隻中破) 空母6隻(但し、大破1隻、中破4隻)と建設中4隻 重巡洋艦4隻(但し、2隻大破、2隻航行不能)
軽巡洋艦3(但し、2隻大破) 駆逐艦41隻(但し、大破1隻) 潜水艦57隻
アメリカ 戦艦25(うち巡洋戦艦2),空母28, 護衛空母100, 重巡洋艦22, 軽巡洋艦50, 駆逐艦467, 護衛駆逐艦410
戦時中の沈没艦数
日本 戦艦11,空母21,重巡洋艦18,軽巡洋艦22,ほか駆逐艦約130隻、潜水艦150隻以上。
アメリカ 戦艦3,空母11,重巡洋艦7,軽巡洋艦3,駆逐艦83,潜水艦52など
アメリカの工業力が圧倒していることに改めて気付かされます。終戦時の空母数が日本6隻(5隻は使えず)に対し、アメリカ128隻(護衛空母100含む)です。
駆逐艦などに至っては日本が41隻に対してアメリカは877隻(護衛駆逐艦含む)という差です。
短期決戦で優位な状況とした上で、講和による停戦、終戦に持ち込むしか工業力差から勝機がないのに関わらず、機会を逸したままに、ついには船を動かす燃料さえ枯渇させて戦い続けたことになります。
終戦間際には、燃料なく港に停泊して、迫り来る爆撃機などの対空砲台として運用するしかなく、爆弾が命中して座礁する姿で終戦を迎えたのが航空戦艦伊勢です。戦艦から、空母戦力の補充策として改造され、艦体後部を飛行看板として半分戦艦、半分空母という世界でも珍しい航空戦艦に生まれ変わった伊勢。改装後に、載せる艦載機の生産が追いつかずに、実際に航空機運用する機会なく、つまり航空機はからの状態でその後も海戦に出撃し生き残ったものの、最後に呉軍港に鎮座し、終戦を迎えた船です。艦名が、三重県人にとって馴染みを感じさせるかもしれません。
今日はここまで また明日かな by 永瀬 賢
終戦記念日
昨日は、日本では終戦記念日とされています。
玉音放送のあった日ですね。
昭和16年12月8日の開戦日、日本は空母を中心とした艦隊を密かに太平洋に進め、航空機を中心とした真珠湾奇襲攻撃により、アメリカの太平洋艦隊に大打撃を与えたのでした。当時、世界は大艦巨砲時代と言われる戦艦主体の砲撃戦で優位に立つ考え方で主力艦隊の編成を考えていました。空母を運用した航空機主体による艦隊撃滅を想定した空母編成主体による攻撃の優位性を、世界で初めて実戦で証明したのが日本であり、真珠湾攻撃だったのです。この戦い方を立案して進めたのが山本五十六です。連合艦隊司令長官にまでのぼりつめ、対米反戦派だったのに国勢が許さずに戦争となり、指揮をすることになったのです。
真珠湾攻撃は、アメリカ艦隊に大打撃を与えました。
戦艦8隻中4隻沈没、1隻座礁、、3隻は損傷
重巡洋艦2隻は無傷
軽巡洋艦6隻中3隻損傷
駆逐艦30隻中3隻沈没
航空機344機中、188機破壊、159機損傷。
ほぼ、戦艦群を壊滅に至らしめた戦果ですが、山本五十六が目標にしていた敵空母の撃滅は失敗に終わりました。真珠湾に停泊しておらず、発見することができなかったのです。自らが立案した航空機による艦隊撃滅戦の成功は、同時に、真珠湾奇襲という初段の攻撃でアメリカの空母を撃ち漏らしたことで、作戦上の懸念になります。
その後、電撃的に連戦連勝を重ねて戦略的支配圏域を広げた日本軍ですが、珊瑚海海戦でつまずきます。後に世界初の空母どうしの海戦といわれるこの戦いは、
日本は空母3隻中1隻沈没、アメリカは空母2隻中1隻沈没の引き分けのような戦績になりますが、搭載航空機の損失において日本は97機、アメリカは69機と日本の方が多くの損失を出しています。連戦連勝が止まり、ポートモレスビーへの侵攻を断念する戦いになりました。ここでも、日本は、アメリカの空母を撃滅することに成功しませんでした。この失敗が、後の太平洋戦争の転換点となるミッドウェー海戦の大敗北につながっていきます。
ミッドウェー海戦で、日本は空母4隻中4隻沈没、航空機289機を失います。対してアメリカは空母3隻中1隻沈没、航空機150機の損失でした。これよりアメリカ、連合軍の反転攻勢が勢いを増していくことになりました。
その後、絶対防衛圏というラインをひいて、これよりは敵を日本に近づけないという戦いの指針を設けます。このラインを超えてどこかの島を占領されると、直接航空機による日本本土の爆撃が可能になるからです。その最重要拠点がサイパン島だったわけです。サイパン島の陥落は、日本本土に爆撃機が往来することを意味しました。このサイパン島玉砕に至る前に日本は起死回生を目論んだマリアナ沖海戦にのぞみましたが、ここでも大敗北を喫してしまいました。空母3隻沈没の上、搭載していた航空機をほぼ全て失うという壊滅戦でした。物量においては、はなから大きな差がある中で戦力性能的にも負けており、日本の艦載機はアメリカの対空砲火にバタバタと撃墜されていったといいます。
日本が示した航空機の優位性は、皮肉にもアメリカにより日本の艦隊が撃滅され、敗北を喫する要因になりました。
そして、ご存知の通り、B29による日本全国への爆撃で都市部が焦土化された上に、広島と長崎に原子爆弾まで投下され、終戦に至ったのでした。
三重県の津市も、B29による爆撃で中心地は焦土化されています。原爆が落とされる少し前、7月24日と29日のことでした。この空襲で市街地が殆ど焼失しています。それ以前にも幾度かの空襲がありましたが、壊滅したのはこの29日と言っていいでしょう。津観音象だけが焼け残っている写真が残されています。3月から始まった爆撃は、記録に残るものをあわせると2000名以上の死者をだしています。
日本のお盆は、戦争の終焉という特別な日でもあるのです。今年のお盆も終わりですね。
今日はここまで また明日かな by 永瀬 賢
按摩術営業取締規則
これまでの日記で幾度か掲載してきた、按摩業を盲人の専業と為す請願をする人々が
問題視している按摩術営業取締規則の条文を記します。
内務省令第十号
按摩術営業取締規則左の通 之を定む
明治四十四年八月十四日
按摩術営業取締規則
第1条 按摩術(マッサージ術を含む以下之に倣う)営業を為さむとする者は試験合格証書又は地方長官の指定したる学校若くは講習所の卒業証書を添え住所地の地方長官(東京府に於ては警視総監以下之に倣う)に願出て免許監察を受くへし
第2条 精神病者、伝染性の疾患ある者又は素行不良と認むる者には免許鑑札を交付せさるものとす
禁錮以上の刑に処せられたる者には免許鑑札を交付せさることあるへし
第3条 按摩術の試験は地方長官之を挙行す
試験を分て甲種及乙種とす其の試験科目は左の如し
甲種
一 人體の構造及主要器官の機能
二 按摩方式及び身體各部の按摩術
三 消毒法大意
四 按摩術の実地
乙種
乙種は按摩術の実地を行うの外 甲種試験の各科目に付 簡易試験を行ふものとす
第四条 甲種試験は四箇年以上按摩術を修行したる者に非されは之を受くることを得す
乙種試験は盲人に非されは之を受くることを得す 但し2箇年以上の修行履歴あることを要す
第五条 営業者は何等の方法を以てするを問わす 流派名又は卒業したる学校講習所の名称若は修業の証明を⚪︎へたる教師の氏名を除く外 業務上其の技能、施術方法又は経歴に関する広告を為すことを得す
第六条 営業者其の住所を他の道府県に移したるときは十日以内に鑑札を添へ後の住所地の地方長官に届出へし
前項の場合に於て後の住所地の地方長官は其の旨を前の住所地の地方長官に通知すへし
第七条 営業者免許鑑札の毀損亡失したるときは其の事由を記し二十日以内に住所地の地方長官に再下付を願出へし
族籍、氏名に⚪︎更を生し又は生年月日の訂正を要するときは其の事由を記し二十日以内に鑑札を添へ地方長官に書類を願出へし
忘失したる免許鑑札を発見したるときは直に之を地方長官に提出すへし
第八条 営業者廃業したるときは二十日以内に免許鑑札を住所地の地方長官に返納すへし若鑑札を返納すること能わさる事由あるときは其の事由を届出へし
営業者死亡し又は失踪の宣告を受けたるときは戸籍法に依る届出義務者より二十日以内に免許鑑札を返納すへし
第九条 営業者第二条に該当し又は業務上犯罪若は不正の行為ありたるときは住所地の地方長官は期日を定めて其の営業営業を停止し又は免許を取消し免許鑑札を返納せしむることあるへし
本条の取消処分を受けたる者と雖(いえど)疾病病治癒し又は改悛の情顕著なるときは再免許鑑札を交付することを得
第十条 免許鑑札を受けすして営業を為し若は停止中営業を為したる者又は第五条に違背したる者は五十円以下の罰金に処す
第十一条 第六条第一項 第七条又は第八条に違背したる者は科料に処す
附則の6行目 地方状況に依り必要と認むるときは地方長官は盲人に限り当分の内 其の履歴を審査し試験を要せす免許鑑札を交付することを得
ここまで。
按摩術営業取締規則では盲人の按摩業営業について、簡易の試験か場合によっては試験無しで免許鑑札を交付しても良い、としています。これに対して、按摩業をあくまで盲人の専業として欲しいという請願が出されていた、ということになります。江戸時代まで、按摩業を職とする身分を確立していた盲人の官職が、明治政府によって廃止、剥奪されて以降の生活困窮についてを訴えているわけですね。
今日はここまで また明日、かな?(条文を現代文風に仕立て直す作業は、不慣れで時間がかかってしまいますね。これだけで2時間くらい要しますねえ)
by 永瀬 賢
杉山権左衛門、権右衛門?
杉山和一は、藤堂藩家臣、杉山権右衛門(重政)の子であったという。和一は、幼少期に疱瘡(天然痘)に罹患して失明したとされています。
和一は、人生の大半を江戸で過ごしましたから、たしかに津市が出身だという証明が弱いようで、それゆえに、津市においてもっと歴史的人物として登場し知られるべきところ、知る人ぞ知る津市の偉人と言う位置付けになっているように思えます。
和一は、1613年(慶長18年)に産まれたと言われています。この翌年に大坂冬の陣、続いて夏の陣と、時代は豊臣家滅亡直前です。和一の父である杉山権右衛門は、戦国時代にバリバリに生き抜いてきた藤堂家家臣ということになります。
和一が津市出身であるということの証だてをするには、父、杉山権右衛門が津に居住していたかどうかを調べなければなりません。
現在、津市役所に所蔵されている「津城下町絵図写」が、当時の津城下においてどこに誰が住んでいたか、までを記している資料として貴重です。津市センターパレスの地下に津城などに関する資料が無料展示されており、この地図のコピーも貼り付けられています。藤田達生監修 東堂藩の研究(清文堂)という分厚い本にも掲載されています。津市史などにも掲載されているのかもしれません。
この城下町絵図に書かれている1件1件の藩士名を探してみると、ありました、杉山権左衛門!!!? 権左衛門??? あれ?探しているのは権右衛門なのですが。続けて、杉山藤兵衛という杉山姓の名も見つけました。2人の居住地は、津城より南の岩田川より、現在の南丸之内あたりになります。杉山藤兵衛は、杉山四郎右衛門という人物のことで、後に藤兵衛と呼ばれていて、和一には叔父にあたります。
地図に書かれている杉山権左衛門が権右衛門と記されていたら和一のお父さんが確かに津市に居住していたわけですので、和一も津市に生まれた、と言いやすいのですが、なぜ、左と右が違うのか、謎です。ただ、叔父と言われている杉山藤兵衛は確かに居住していました。
この杉山藤兵衛さん、大坂夏の陣の頃は四郎右衛門という名です。甲冑付きの敵首を討ち取ったことで恩賞を受けた、という記録が残っていますから、実在した人物ですね。藤兵衛の子は左門と言うのですが、夏の陣で甲冑付きの敵首3を討ち取った戦果を上げるのですが、後に自身も討死しているようです。大阪府八尾市にある常光寺で、この地で戦死した藤堂藩士71士の1人として左門の位牌もまつられています。このお寺は、夏の陣で、高虎が敵将の首実験をした寺です。首を置いて血濡れた床を、後に寺が天井に張り替えて血天井という名で現存していることで有名です。
さて、津城下町絵図で調べる限りでは、杉山権左衛門なのか権右衛門なのかがわかりませんが、もう一つ、謎になってくるのが、検校町と呼ばれる場所は、津城の北側に位置していて、杉山兄弟の居住地は南側に記載されている点です。和一の親、親戚が北側には居住していなかたことから、和一が検校職になって津の実家に帰ってきて検校町と町名が呼ばれていくきっかけになった、ということにはならないのです。
もし、和一のゆかりあって検校町と名乗るきっかけになるのだとすると、和一は跡取りにはなっていませんでしたから、城の北側に帰る場所を持ったのかもしれませんね。それか、他の検校職の人が住み着いたか、なんなのか、まだまだ調べる時間が必要になりそうです。
今日はここまで。台風七号、14日月曜日の19時あたり、まだ静かです。夜中に暴風雨でしょうか。大事ありませんように。ではまた明日、かな? by 永瀬 賢
東検校町の石碑
津市の旧町名、東検校町の石碑は、東検校町公園の中に建立されています。養正小学校の東側に位置しています。
この公園の入り口にある石碑横には、幹から3本にも4本にも太く左右に枝分かれして、背高く幅広い大木が立っています。もし、戦国時代から江戸時代にかけての絵図が残っていて、この大木が描かれていたら、検校町と呼ばれていた地の当時の風景が書き込まれているのかもしれないと思うと、覚えておきたい木の姿になりますね。
さて、この石碑に刻み記されている文言を読んでみますと、
由来
津藩士で検校職の者たちが居住したことによると伝えられ江戸初期から城代家老藤堂仁右衛門の家士ばかりが居住したことから、仁右衛門屋敷町も呼ばれた。
一七世紀中ごろより東検校町と西検校町とに分かれた。
と書かれていました。検校職とは、当時の盲人と呼ばれた人々の当道座という江戸幕府から公認された自治集団の最高位になる身分のことですから、その人たちがあんま鍼灸業をしながら住んでいたことを伝えている、という文章になります。東検校町、西検校町ともに津城の北側にあり、内堀と外堀の間に位置していますから、城下町内に居住していたことになりますね。しかも城代に仕える人達が住んでいた場所ということですから、良い待遇を得ていたのかもしれません。
石碑自体は現在の市役所が建立したものですから、ある程度の根拠があっての記述と思います。
因みに、以前の日記に書いた、按摩業営業取締規則に関する請願をした福島芳丸という方の居住していたことになる津市蔵町は、大門にある鰻屋はし家さんの東通り当たりではないかと思われます。今の地理で言うならば、検校町とは国道を挟んで東西の関係になります。距離的には徒歩5分圏内ですから近い場所になりますね。当時の住宅地図があればなあと調べてみたくなりますね。
今日はここまで。 また明日かな? by 永瀬 賢