日記
盲人の官職廃止
明治4年、視覚障害者の当道座(自治的職能集団、互助組織として幕府が公認した。組織内において検校、別当、勾当、座頭の階級を設けた。検校が最高位)を廃止することが交付されました。
以下は、その布告文の一部です。訳に時間がかかりまして、前半部分を掲載します。
盲人の官職廃止 明治4年
11月3日 布告
盲人の官職自(令 今)被廃止候事
但 従前 検校勾(こう) 当坐頭以下 配当金 取集めは無論 各特場を区分し
針治按摩等 他の営業を妨げ候儀 今後急度被 差停候條是迄来往居留の盲人銘々
家業勝手に相営せ復籍入籍等 其者の望みに任せ各地方官に於て寛裕に可取扱候事
大蔵省伺
盲人へ官階を賜り候 嚆矢(こうし*物事の始め) は仁和年間 光孝天皇の御宇に起り
其後 比叡の坐主性佛眼病たるにより叡山の検校を以て 其我儘 当道の検校に加えられし由
近(?)く 此 検校職 允許(許可すること)の権を起せし 遡原は元禄の度 杉山検校と
云える者 針治の良術自得によって ( )政府よりこれに邸地を興へし( )其の邸宅を以て
終に総? 録( )の名目 負わせ 以?来 年長の検校一人つつ 交代致し西京の職 検校と倶(とも)に
千( )全国盲人階級を( )轄致し 居候 趣 元来 其 本業たる針治按摩をはじめ調音弾曲等の
技術を以て経営を可過の( )却を検校 勾当共に至りては 其 本分の営業を顧みす昇進の官金と唱え
金銀の貸付を渡世同様に心得 又これか使役を受くる配当座頭以下 市井村落とも人の吉凶に事寄せ金銭を
乞請甚は其多少の論し強て貪り候 弊害 往々有 之 畢竟(ひっきょう:結局の意味) 其 昔は人間協働相
憐むの通情より妙音堪( )の盲人へ官階等賜り候事に相見へ候へ( )今日の検校共は唯 末流の余波に欲し
( )て 其の官職に倣り 種々厳則エオ設け以て国内盲人の自由を妨げ候のみなら(?)す
針治按摩の本業によって活計相立候
今回はここまで。
けっこう、辛辣に当道座の階級制を批判しています。国内盲人の自由を妨げているとまで書いていますものね。
視覚障害者に官位を与えることは光孝天皇の時代から始まり、杉山検校によって、当道座が江戸幕府から公認を受けたことの説明記述があります。
この布告文書、全部で30ページを超えています。全部を掲載するのはやめますが、冒頭の大蔵省伺は、頑張って読み下してみようと思います。
では、また後日。 by 永瀬 賢
同行援護従業者養成研修応用課程 多気会場 無事に終了しました
数日ぶりの更新日記になりました。
多気にて開催しました同行援護従業者養成研修の応用課程、全行程を無事に終了しました。
今回は、一般課程、応用課程を1週間内におさめるスケジュールでした。
毎回、主催するときに日程をどう組むか、は熟考するところです。
連続日程にするのか、毎週に分けて実施するのか、など。1日に組む時間割も、開始時間、終了時間をどう設定するかも、毎回毎回考えさせられます。
この数回は、10時から16時ぐらいで一般課程4日間、応用課程3日間で組んでいたのですが、今回の多気会場での開催は9:00から17:10で一般課程3日間、応用課程2日間で実施しました。現業者の方々が講習に参加しやすく、できるだけ早く修了できるように、という考えからでした。
やってみた感想は、かなりの疲労度でした。受講者の皆様も、なかなか大変だったと思います。お疲れ様でした、と重ねて申し上げたいです。学習内容てんこ盛りで、そこそこハードな実技もあり、な展開で、今年の暑い夏、天候不順も加わって、体調を整えていただくことからして大変だったのではないかと。
私たちと同様に、受講者の皆様も現業者ですから、講習会の前後には業務の時間もあられたと思います。率直に、今回は体力勝負の講習会だったなと思いました。日数はかかりますが、10時開始16時終了とは疲労度が全然違いました。お互い、よく頑張りました。
応用課程の難しいところは、まさに応用なので、受講者の皆様が、基礎となる土台を一般課程でどう習得されてきたかの差を把握しながら内容を調整していく点です。この辺り、毎回、講習の進め方が違うなあと思います。今回も、今回のみの進め方がありました。日常生活用具の紹介時間よりもスマートホン、タブレットの活用方法にフォーカスする時間が増えてきたことを実感しています。
紹介するアプリも増えていく一方ですね。この辺り、整理をして1本の資料としてまとめて配布しなければならないくらいの質量になってきたなあと思いました。講習の内容、自前で作成する配布資料とも、毎回毎回、少しずつバージョンアップしたり、全く新しい資料が加わったり、削除される資料もあったりします。ただ、できるだけ最新情報の更新のみではなく、過去の情報を抹消せず、変化を示しながら伝えていきたいです。そうなると、容量を増やす一方になるのが難点ですが。
既に、一般課程応用課程とも、配布資料の枚数は数百ページに及んでいます。1枚の用紙に4ページ分を印刷していますので、もし全ページを1枚ずつで印刷していたら軽く1000ページオーバーの容量になってしまっています。まして、表裏帳面印刷してますからね。両面印刷の欠点は、印刷に失敗したときや、もう使わないとなったときに、裏面もびっしり印刷されていますからメモ用紙に転用できないことです。
また、資料の印刷には自前のレーザープリンター使用していますが、印刷枚数が多いので、どうしても紙送りをする歯車のような部品に劣化と故障をはやめにきたします。これが講習直前に起きますと、準備に慌てることになりますから、インクの補充も含めて、資料の印刷はできるだけ早めにしなくてはならなくなります。早めに印刷するには、早めに資料を作成終了しておかなければなりません。当たり前と言えば当たり前のことですが、この辺りのスケジューリング、毎回、どうしても結構な綱渡りになりますね。通常業務をしながらの準備になりますから、毎日コツコツと時間を定めて進めて、当日にのぞむのが講習会の主催です。
コロナ禍において、Z00Mなどによる遠隔での会議や講習、授業も一般化しました。同行援護の講習も、座学時間に関しては遠隔で実施することも今後の検討事項です。
アイパートナーは、同行援護従業者養成研修会を毎年度2回から3回、主催する予定でいます。次回の開催は年が明けてからになると思います。また、コツコツと準備をして本番に臨みたいな、と思っています。
多気会場での講習にご参加いただきました皆様、大変お疲れ様でした。
これからは、仕事の連携でお世話になることと思います。どうぞ、今後とも、よろしくお願い申し上げます。
では、今日はこの辺で。また今度。 by 永瀬 賢
多気会場にて
お久しぶりの日記になります。
昨日、多気会場での同行援護従業者養成講座(一般課程)を無事に終了しました。
受講者の皆さん、全員無事に修了証をお渡しすることができました。
3日連続で9時から17時過ぎまで、なかなか大変だったと思います。
初日は猛暑日で、エアコンをフル運転させてもなかなか教室内の冷えてこない中、頑張ってもらいました。
2日目は、階段昇降や溝またぎなど、屋外で2時間30分実技を続ける時間がありました。汗だくでしたね。
3日目は、たまたま?実技の時間に多気町上空だけどってりと雨雲がのっかかり、非常に激しい雷雨と睨めっこしながら
バス乗降や屋外エスカレーター、階段、買い物などの実技練習をして、雨と汗でこれまたベッタベタの状態で教室に帰還したのでした。
会場をお借りしたNPO法人多気優心さんの代表者様、スタッフの方々に何かとお世話になり、無事に修了することができました。御礼申し上げます。
講習会は、なまものだなと、いつも思います。
お伝えすること、実技的到達点、目標とするところは毎回変わらないのですが、用意してきた資料、準備物、頭の中での構成をどのように出し入れしていくかのさじ加減、順序立て、説明の仕方が毎回微妙に変わります。
今回の受講者の皆さんには、障害福祉サービスの現業者として、普段から視覚障害のかたと接する機会のあられる方が多い、という背景を感じていました。それ仕様の進め方バージョンになっていたように思います。
実技の進め方って難しくて、アイマスク体験など、うまくできればいいというものではないんですよね、。でも、一通りの型、と言いますか、支援技術の形を覚えてもらうにはアイマスクに慣れてスムーズに動ける、という前提も必要になります。アイマスクでの動きに自然さ、スムーズさを求めながらも、視覚障害者お一人お一人、同じ動作にはならない個別性への対応を教える、ということを常に念頭においています。
少なくとも、「アイマスクをして視覚障害者のことを理解できた」とか、「これでもし私が視覚障害になっても大丈夫」とか「視覚障害にだけはなりたくない」とか、主観的感想に支配されない理解になるように、と毎回のぞんでいます。もし、講習を終えて、このセリフが感想として受講者さんから出てきたら、なにかまだ講習の進め方を考えなければならない、ということになります。
伝えたいことは、常に「人の多様な個別性を理解し、活動制限を理解した支援をできること」です。
受講者の皆様、お疲れ様でした。現場でのご活躍を祈念しております。
明日は応用課程の初日ですね。またしっかり準備して臨みます。
今日はこれで。ではまた。 by 永瀬 賢
日米の戦力差(艦艇)
太平洋戦争開戦時、終戦時の日米海軍艦艇戦力差と、沈没艦艇数をあげてみます。
開戦時の海軍艦艇数
日本 戦艦10,空母(航空母艦)9,重巡洋艦18,軽巡洋艦20,駆逐艦112,潜水艦64 合計233隻
アメリカ*( )内は太平洋艦隊所属艦数 戦艦17(9),空母7(3),重巡洋艦18(12),軽巡洋艦19(9),駆逐艦214(54)潜水艦114(25) 合計389隻 (112隻)
終戦時の海軍艦艇数
日本 戦艦4(但し、3隻大破、1隻中破) 空母6隻(但し、大破1隻、中破4隻)と建設中4隻 重巡洋艦4隻(但し、2隻大破、2隻航行不能)
軽巡洋艦3(但し、2隻大破) 駆逐艦41隻(但し、大破1隻) 潜水艦57隻
アメリカ 戦艦25(うち巡洋戦艦2),空母28, 護衛空母100, 重巡洋艦22, 軽巡洋艦50, 駆逐艦467, 護衛駆逐艦410
戦時中の沈没艦数
日本 戦艦11,空母21,重巡洋艦18,軽巡洋艦22,ほか駆逐艦約130隻、潜水艦150隻以上。
アメリカ 戦艦3,空母11,重巡洋艦7,軽巡洋艦3,駆逐艦83,潜水艦52など
アメリカの工業力が圧倒していることに改めて気付かされます。終戦時の空母数が日本6隻(5隻は使えず)に対し、アメリカ128隻(護衛空母100含む)です。
駆逐艦などに至っては日本が41隻に対してアメリカは877隻(護衛駆逐艦含む)という差です。
短期決戦で優位な状況とした上で、講和による停戦、終戦に持ち込むしか工業力差から勝機がないのに関わらず、機会を逸したままに、ついには船を動かす燃料さえ枯渇させて戦い続けたことになります。
終戦間際には、燃料なく港に停泊して、迫り来る爆撃機などの対空砲台として運用するしかなく、爆弾が命中して座礁する姿で終戦を迎えたのが航空戦艦伊勢です。戦艦から、空母戦力の補充策として改造され、艦体後部を飛行看板として半分戦艦、半分空母という世界でも珍しい航空戦艦に生まれ変わった伊勢。改装後に、載せる艦載機の生産が追いつかずに、実際に航空機運用する機会なく、つまり航空機はからの状態でその後も海戦に出撃し生き残ったものの、最後に呉軍港に鎮座し、終戦を迎えた船です。艦名が、三重県人にとって馴染みを感じさせるかもしれません。
今日はここまで また明日かな by 永瀬 賢
終戦記念日
昨日は、日本では終戦記念日とされています。
玉音放送のあった日ですね。
昭和16年12月8日の開戦日、日本は空母を中心とした艦隊を密かに太平洋に進め、航空機を中心とした真珠湾奇襲攻撃により、アメリカの太平洋艦隊に大打撃を与えたのでした。当時、世界は大艦巨砲時代と言われる戦艦主体の砲撃戦で優位に立つ考え方で主力艦隊の編成を考えていました。空母を運用した航空機主体による艦隊撃滅を想定した空母編成主体による攻撃の優位性を、世界で初めて実戦で証明したのが日本であり、真珠湾攻撃だったのです。この戦い方を立案して進めたのが山本五十六です。連合艦隊司令長官にまでのぼりつめ、対米反戦派だったのに国勢が許さずに戦争となり、指揮をすることになったのです。
真珠湾攻撃は、アメリカ艦隊に大打撃を与えました。
戦艦8隻中4隻沈没、1隻座礁、、3隻は損傷
重巡洋艦2隻は無傷
軽巡洋艦6隻中3隻損傷
駆逐艦30隻中3隻沈没
航空機344機中、188機破壊、159機損傷。
ほぼ、戦艦群を壊滅に至らしめた戦果ですが、山本五十六が目標にしていた敵空母の撃滅は失敗に終わりました。真珠湾に停泊しておらず、発見することができなかったのです。自らが立案した航空機による艦隊撃滅戦の成功は、同時に、真珠湾奇襲という初段の攻撃でアメリカの空母を撃ち漏らしたことで、作戦上の懸念になります。
その後、電撃的に連戦連勝を重ねて戦略的支配圏域を広げた日本軍ですが、珊瑚海海戦でつまずきます。後に世界初の空母どうしの海戦といわれるこの戦いは、
日本は空母3隻中1隻沈没、アメリカは空母2隻中1隻沈没の引き分けのような戦績になりますが、搭載航空機の損失において日本は97機、アメリカは69機と日本の方が多くの損失を出しています。連戦連勝が止まり、ポートモレスビーへの侵攻を断念する戦いになりました。ここでも、日本は、アメリカの空母を撃滅することに成功しませんでした。この失敗が、後の太平洋戦争の転換点となるミッドウェー海戦の大敗北につながっていきます。
ミッドウェー海戦で、日本は空母4隻中4隻沈没、航空機289機を失います。対してアメリカは空母3隻中1隻沈没、航空機150機の損失でした。これよりアメリカ、連合軍の反転攻勢が勢いを増していくことになりました。
その後、絶対防衛圏というラインをひいて、これよりは敵を日本に近づけないという戦いの指針を設けます。このラインを超えてどこかの島を占領されると、直接航空機による日本本土の爆撃が可能になるからです。その最重要拠点がサイパン島だったわけです。サイパン島の陥落は、日本本土に爆撃機が往来することを意味しました。このサイパン島玉砕に至る前に日本は起死回生を目論んだマリアナ沖海戦にのぞみましたが、ここでも大敗北を喫してしまいました。空母3隻沈没の上、搭載していた航空機をほぼ全て失うという壊滅戦でした。物量においては、はなから大きな差がある中で戦力性能的にも負けており、日本の艦載機はアメリカの対空砲火にバタバタと撃墜されていったといいます。
日本が示した航空機の優位性は、皮肉にもアメリカにより日本の艦隊が撃滅され、敗北を喫する要因になりました。
そして、ご存知の通り、B29による日本全国への爆撃で都市部が焦土化された上に、広島と長崎に原子爆弾まで投下され、終戦に至ったのでした。
三重県の津市も、B29による爆撃で中心地は焦土化されています。原爆が落とされる少し前、7月24日と29日のことでした。この空襲で市街地が殆ど焼失しています。それ以前にも幾度かの空襲がありましたが、壊滅したのはこの29日と言っていいでしょう。津観音象だけが焼け残っている写真が残されています。3月から始まった爆撃は、記録に残るものをあわせると2000名以上の死者をだしています。
日本のお盆は、戦争の終焉という特別な日でもあるのです。今年のお盆も終わりですね。
今日はここまで また明日かな by 永瀬 賢