日記
杉山権左衛門、権右衛門?
杉山和一は、藤堂藩家臣、杉山権右衛門(重政)の子であったという。和一は、幼少期に疱瘡(天然痘)に罹患して失明したとされています。
和一は、人生の大半を江戸で過ごしましたから、たしかに津市が出身だという証明が弱いようで、それゆえに、津市においてもっと歴史的人物として登場し知られるべきところ、知る人ぞ知る津市の偉人と言う位置付けになっているように思えます。
和一は、1613年(慶長18年)に産まれたと言われています。この翌年に大坂冬の陣、続いて夏の陣と、時代は豊臣家滅亡直前です。和一の父である杉山権右衛門は、戦国時代にバリバリに生き抜いてきた藤堂家家臣ということになります。
和一が津市出身であるということの証だてをするには、父、杉山権右衛門が津に居住していたかどうかを調べなければなりません。
現在、津市役所に所蔵されている「津城下町絵図写」が、当時の津城下においてどこに誰が住んでいたか、までを記している資料として貴重です。津市センターパレスの地下に津城などに関する資料が無料展示されており、この地図のコピーも貼り付けられています。藤田達生監修 東堂藩の研究(清文堂)という分厚い本にも掲載されています。津市史などにも掲載されているのかもしれません。
この城下町絵図に書かれている1件1件の藩士名を探してみると、ありました、杉山権左衛門!!!? 権左衛門??? あれ?探しているのは権右衛門なのですが。続けて、杉山藤兵衛という杉山姓の名も見つけました。2人の居住地は、津城より南の岩田川より、現在の南丸之内あたりになります。杉山藤兵衛は、杉山四郎右衛門という人物のことで、後に藤兵衛と呼ばれていて、和一には叔父にあたります。
地図に書かれている杉山権左衛門が権右衛門と記されていたら和一のお父さんが確かに津市に居住していたわけですので、和一も津市に生まれた、と言いやすいのですが、なぜ、左と右が違うのか、謎です。ただ、叔父と言われている杉山藤兵衛は確かに居住していました。
この杉山藤兵衛さん、大坂夏の陣の頃は四郎右衛門という名です。甲冑付きの敵首を討ち取ったことで恩賞を受けた、という記録が残っていますから、実在した人物ですね。藤兵衛の子は左門と言うのですが、夏の陣で甲冑付きの敵首3を討ち取った戦果を上げるのですが、後に自身も討死しているようです。大阪府八尾市にある常光寺で、この地で戦死した藤堂藩士71士の1人として左門の位牌もまつられています。このお寺は、夏の陣で、高虎が敵将の首実験をした寺です。首を置いて血濡れた床を、後に寺が天井に張り替えて血天井という名で現存していることで有名です。
さて、津城下町絵図で調べる限りでは、杉山権左衛門なのか権右衛門なのかがわかりませんが、もう一つ、謎になってくるのが、検校町と呼ばれる場所は、津城の北側に位置していて、杉山兄弟の居住地は南側に記載されている点です。和一の親、親戚が北側には居住していなかたことから、和一が検校職になって津の実家に帰ってきて検校町と町名が呼ばれていくきっかけになった、ということにはならないのです。
もし、和一のゆかりあって検校町と名乗るきっかけになるのだとすると、和一は跡取りにはなっていませんでしたから、城の北側に帰る場所を持ったのかもしれませんね。それか、他の検校職の人が住み着いたか、なんなのか、まだまだ調べる時間が必要になりそうです。
今日はここまで。台風七号、14日月曜日の19時あたり、まだ静かです。夜中に暴風雨でしょうか。大事ありませんように。ではまた明日、かな? by 永瀬 賢