日記
東検校町の石碑
津市の旧町名、東検校町の石碑は、東検校町公園の中に建立されています。養正小学校の東側に位置しています。
この公園の入り口にある石碑横には、幹から3本にも4本にも太く左右に枝分かれして、背高く幅広い大木が立っています。もし、戦国時代から江戸時代にかけての絵図が残っていて、この大木が描かれていたら、検校町と呼ばれていた地の当時の風景が書き込まれているのかもしれないと思うと、覚えておきたい木の姿になりますね。
さて、この石碑に刻み記されている文言を読んでみますと、
由来
津藩士で検校職の者たちが居住したことによると伝えられ江戸初期から城代家老藤堂仁右衛門の家士ばかりが居住したことから、仁右衛門屋敷町も呼ばれた。
一七世紀中ごろより東検校町と西検校町とに分かれた。
と書かれていました。検校職とは、当時の盲人と呼ばれた人々の当道座という江戸幕府から公認された自治集団の最高位になる身分のことですから、その人たちがあんま鍼灸業をしながら住んでいたことを伝えている、という文章になります。東検校町、西検校町ともに津城の北側にあり、内堀と外堀の間に位置していますから、城下町内に居住していたことになりますね。しかも城代に仕える人達が住んでいた場所ということですから、良い待遇を得ていたのかもしれません。
石碑自体は現在の市役所が建立したものですから、ある程度の根拠があっての記述と思います。
因みに、以前の日記に書いた、按摩業営業取締規則に関する請願をした福島芳丸という方の居住していたことになる津市蔵町は、大門にある鰻屋はし家さんの東通り当たりではないかと思われます。今の地理で言うならば、検校町とは国道を挟んで東西の関係になります。距離的には徒歩5分圏内ですから近い場所になりますね。当時の住宅地図があればなあと調べてみたくなりますね。
今日はここまで。 また明日かな? by 永瀬 賢