◆終了した講演会◆令和 6年1月27日
講演会はいつもながら多くの方々にお越しいただきました。
会を実行する側として、いつも思うのですが、
ある人は新潟県柏崎から、ある人は長野県御代田町から、
またある人は神奈川県横浜からと、毎回、出席していただき、
遠方からわざわざこの高崎市吉井町まで来るのも大変だろうと思います。
それだけの費用と時間をかけて、
この会に出席する人たちの学習への意欲には、頭が下がります。
演題:北へ向かう 上毛野の古墳文化
講師:深澤 敦仁氏(群馬県立歴史博物館 学芸係長)
(講演中の深澤 敦仁氏)
■ 群馬の古墳の概観
古墳は墓所であるだけでなく、同時代を生きる人々にとって、
「地域シンボル」であったとの説明から始まります。
「古墳の構築には当時のハイレベルな知恵と技術が凝縮され、
かつ多くの人々のチカラが結集している点から考えられる」
と説明を敷衍し、
「地域のまとまりを映す鏡」と言うことができ、
「古墳は墓にして墓のみにあらず」という結論に達しています。
古墳を評して、まことに素晴らしい定義かと思われます。
それゆえに、私たちの祖先は、これらの古墳を、
地域全体のこととして、守り、整備し、維持してきたのだと思われます。
■ 群馬のルーツは古墳時代
群馬県の名前の由来についても解説しています。
上毛野国 → 上野国
車評(くるま)→ 群馬郡(くるまぐん)
713年の「好字二字化令」によって「車」を「群馬」にしました。
■ 群馬県は「日本一の埴輪県」
「埴輪は古墳を樹立させることを唯一の目的とした
古墳時代の土製品」です。
そしてその土製品「埴輪」の中において、群馬県においては、
圧倒的に馬型埴輪が多いことも有名な事実です。
古墳時代の「馬飼いの村」の遺跡が群馬県にはあちこち存在します
■ 北へ向かう 上毛野の古墳文化
古東山道は、畿内から東国へのそして東北地方の陸奥の国まで伸びていました。
多くの物資や人が、このルートで往来したに違いありません。
胆沢の地の沢田遺跡の墳墓群に注目しています。
「低墳丘の円墳を基調としており、
埋葬施設には円礫を用いた竪穴式小石槨の採用が部分的に認められる。
―中略ーこの墳墓群の構造は5世紀中ごろから6世紀前半にかけての上毛野に展開する
「初期群衆墳」に近似する」と。
これらの墓制を採用した人々は、上毛野国から移住した可能性があるとも
指摘します。
「上毛野の人々は、馬という「古墳文化」を携え、「古東山道」を通って
胆沢の地にたどり着いたのではないだろうか」と推測します。
(会場は熱気で包まれていました。)
深澤敦仁-北へ向かう 上毛野の古墳文化ー.pdf (4.91MB)
今回の深澤先生の講演が上毛新聞に掲載されました。