◆終了した講演会◆令和 5年6月3日

6月2日は台風でした。

東京横浜からわざわざ当地群馬の高崎まで足を運ぶのが、

危ぶまれましたが、3日の日は晴天となり、

運よく大勢の方々に参加していただきました。

高崎市内の方、群馬県内の方、

そして多くの県外の方の熱心さに頭が下がります。

 

第1部

講師 :高久 健二氏 (専修大学教授)

演題 :「梅原 末治の考古学研究」

 

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(講演中の高久 健二先生) 

 

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日本の考古学に先駆的業績を残した梅原 末治氏の研究と生涯について、

熱意ある発表をしていただきました。

 

その生涯は、同志社普通学校在学中に歴史地理学会に入り、

多くの先輩たちから薫陶を受けます。

 

梅原の研究は、日本だけにとどまらず、

朝鮮、中国へと幅広く広がります。

日本列島の弥生時代から古代、

朝鮮半島の先史時代から高麗時代、

そして中国大陸の青銅器を中心とした幅広い活動となります。

 

1938年には京都帝国大学の教授となり、

1963年には文化功労章を授与されました。

 

その生涯は、まことに学究一筋の人生でした。

高久先生は次のような逸話を語っています。

 

「酒とたばこは一切口にせず、宴会も一次会以外出たことは殆どなかった。

朝は六時過ぎに起き、夜は十時前には床に入る。

人から『先生の楽しみは?』と聞かれる。

私にとっては考古学が何よりの楽しみであり、

起きている間は、実測図を書き拓本を取り、

あれこれ考え合わすのに勝るものはなかった。」

 

pdf 梅原末治の考古学研究.pdf (9.62MB)

 

 

 

第2部

講師:右島 和夫氏(群馬県立歴史博物館 特別館長)

 

演題:「末長 雅雄の考古学研究」

 

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(講演中の右島先生)

 

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■ 末永 雅雄の生涯

末長 雅雄の生涯も実に波乱にとんだ人生でした。

河内の狭山村の名家に生まれ、

小学校の頃には、早くも、土器集めに熱中する少年時代を過ごしました。

 

そして水戸学の系統をひく高瀬 真卿と知り合い、

高瀬の書生となって、歴史や刀剣鑑定術を学びます。

 

1926年には京都帝国大学の考古学研究室員となります。

その後、京大に籍を置きつつ、唐子遺跡、石舞台古墳等の発掘調査に携わります。

 

1934年には、「日本上代の甲冑」により帝国学士院賞を受賞します。

 

右島先生は、こんな逸話をお話ししています。

 

末永雅雄が帝国学士院賞を受賞したとき、

彼の父親は彼に銀行の通帳を見せたとのことです。

 

その通帳には、末永家伝来の土地を売り払って、

当時の金額3万円を浪費したとのことです。

(ちなみに受賞した年は1936年、

昭和11年で、小学校の先生の月給が30円ほどの時代でした。

当時500円あれば普通の家が建てられた時代です。

3万円がいかに大きな金額高お分かりになるでしょう。)

 

一代の大考古学者になるために、

末永家が支払った膨大な資産です。

 

1938年京都帝大の浜田教授が逝去します。

後任には同僚の梅原 末治が収まります。

 

末永は。ここで京都帝大とおさらばします。

龍谷大学へと移り、

ここにて文学博士の称号を得ます。

 

1950年関西大学の講師となり、

高松塚古墳をはじめ多くの古墳を手掛けます。

 

1988年 考古学者としては初めての文化勲章を受けます。

 

pdf 末永雅雄の考古学研究 右島氏.pdf (5.88MB)

 

第3部

高久先生と右島先生の対談

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講演の方は16時に終了しました。

その後、右島、高久両先生の対談が20分間ほど行われました。

ー終わりー