◆終了した講演会◆令和 5年11月25日

講演会,盛況のうちにおわりました。

150名を超す多くの方々にご参加いただきました。

ある人は九州博多から、ある人は広島から、

また東京、横浜の多くの方々にもご参加いただきました。

 

テーマ 古墳時代の東西の雄 吉備と上野

第一部 

演題:古墳時代の吉備

講師:亀田 修一氏(岡山理科大学名誉教授)

 

亀田先生 講演はじめ.JPG

 

古墳時代の初期、吉備の国は偉大なる王国で、

大和に影響を与えるほどの強国だったとのこと。

それが、吉備の国の反乱後、反乱は鎮圧され、

今度は大和からの影響を受けるようになったとのこと。

亀田先生の論考から引用すると:

 

[吉備→大和]弥生時代には

 ・楯築(たてつき)弥生墳丘墓から箸墓古墳へ

 

 ・特殊壺・特殊器台➡特殊器台形埴輪

 

古墳時代

前期前半 [大和→吉備]

 

[箸墓古墳(278m)の相似形古墳]→浦間茶臼山古墳(138m:1/2)、備前車塚古墳(47m:1/6)

 

という風に、弥生時代は吉備から大和、

そして古墳時代になると、大和から吉備へと変わりました。

 

古墳時代の中期になると、

和泉履中陵(百舌鳥陵山)古墳(365m)と備中造山古墳(350m5世紀初:差はほとんどない。

 

大和王権はやはり圧倒的な影響を吉備に与えました。

造山古墳は全国第四位の規模を誇ります。

 

(亀田先生の講演資料より)

 

また作山古墳は全国第十位の規模です。

大和と吉備とが相当に親密な関係性をうかがわせる古墳の規模です。

講演中の先生.JPG

 

(講演中の亀田先生)

 

■ 欽明朝時代(531-571)の日本の大きな古墳

 

 

 

畿内をのぞき、当時の日本の大きな前方後円墳といえば、

九州中北部、中国地方、そして東国の三つの地域でした。

いわば、日本の大きな勢力がこの三つの地域に集中していたとみて、

差支えないでしょう。

 

大勢の聴衆.JPG

(熱心に聞き入る聴衆)

 

pdf 亀田修一 古墳時代の吉備.pdf (16.11MB)

 

 

第二部

演題:古墳時代の毛野

講師:右島 和夫(群馬県立歴史博物館 特別館長)

右島先生.JPG

(講演中の右島先生)

現在の関東地方は、かつては東国とよばれ、

そのなかでもとりわけ「上毛野の国」が

特別な歴史的位置を占めていました。

東山道を通じて、5世紀後半には、内陸交通の要衝の地となり、

列島の中心地「畿内」と東国の交流は盛んとなり、

上毛野の地は、東国へ至る玄関口としての役割を担います。

その役割の立役者は「馬」の登場です。

 

東山道が「馬」とともに整備されたと考えられます。

大和王権は、東国の雄、上毛野に力を入れます。

当然、群馬の地に多くの大型古墳群が現れます。

古墳時代中期には、東日本最大の太田天神山古墳が築造されます。

そしてそれは中期以降も後期、終末期とやはりこの地に、

大型古墳が築造され続けました。

 

観音塚古墳はこの地における古墳時代終焉を意味する古墳です。

大和王権がこの築造には関係し、

飛鳥の巨石墳墓を築造した渡来系技術集団の関与が濃厚に見出されます。

 

今回のこの講演は、なんといってもキーワードは、

東山道、馬、大和王権と上毛野、大型前方後円墳、

これらの言葉で言い表せるといってもいいでしょう。

 

pdf 右島 和夫 古墳時代の毛野 上毛野.pdf (15.11MB)

 

第三部

両講師による対談

吉備の古墳を解説した亀田先生。

上毛野の古墳を解説した右島先生。

両講師は和やかに20分間の対談に花を咲かせました。

 

お二人の対談.JPG

 

熱心に聞き入る聴衆.JPG

 

 

講演会の翌日、早くも上毛新聞にはお二人の講演の様子が掲載されました。

 

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ー終わりー