◆終了した講演会◆令和 4年 6月 4日

講演会 盛況裡に終了しました。

県内外から大勢の方々にご参集いただき、

有難うございました。

 

第1部

講師 :設楽 博己氏 (東京大学名誉教授)

演題 :「笑いと異形の考古学」

 

設楽先生.JPG

 

 

R4 6 4 設楽先生の聴衆.JPG 

 

 

縄文時代、土偶には表情豊かなものがあり、

また弥生時代になると、土偶だけでなく、

顔のついた土器、顔にある入れ墨、

古墳時代の人物埴輪にみられる様々な表情。

 

これらから先生はその意味とその社会背景の変化を探っていきます。

 

最初に、笑う農夫の埴輪から話は始まり、

古墳時代の「笑う盾持人埴輪」そして

弥生時代の人面付土器へと話を進めます。

 

「方相氏」とはなにか。

ー節分の豆まきの起源ー

そしてこれらの「笑い」の背景には、

中国漢代に起源をもつ方相氏(ほうそうし)の説明から始まります。

 

 

実は、方相氏といっても、今回初めて耳にする言葉です。

 

節分の豆まきで鬼を退治する人物で、

紀元前5世紀に中国で生まれました。

 

先生は、後漢時代の書物「漢旧儀」を引用して説明します。

「黒と赤の衣装を着て、手には矛と盾を持ち、多くの付き人や童を従えて、

時にやらいの声を上げ、宮室のなかの疾鬼を探し出して追い払う。

方相氏は多くの付き人と童女を従えて、桃の木で作った弓といらくさの矢で、

土製の鼓を射る。さらに赤い豆や五穀をまく。」

(先生の引用文は漢文原文のままですが、

読みやすいように現代文で載せます)。

 

四季の変わり目が、病魔の退散には都合の良い時であり、

桃の木で作った弓でいらくさの矢を放ちながら赤丸五穀をまいて、

鬼を追い払う。節分の豆まきの起源となったものです。

 

豆まきの起源.jpg

(先生の講演資料より)

 

日本は律令の時代からこの方相氏を受け入れます。

先生は方相氏のいでたちと役割とを次のように説明します。

 

〇 黄金四ツ目仮面=異形

〇 熊の革をかぶり、赤と黒の着物を着る

  =恐ろしい動物

〇 盾と矛をもつ=武装

〇 桃色の服の子供を引き連れ桃の弓で邪気を払う

  =子供の厄除け

〇 五穀をまく(豆まき)=厄除け、農耕儀礼

〇 節分祭のエクソシスト

〇 日本には律令期養老令に登場

〇 室町時代に鬼へと転倒

 

方相氏は、初期のころは、盾と矛を持ち、

童子をしたがえて鬼を追い払う良い役の象徴でしたが、

日本の室町時代あたりから、主客逆転して、

方相氏は悪役の鬼の役目を負わされる結果となり、

このイメージがその後の日本の歴史の中で定着していきます。

 

■ 辟邪(へきじゃ)の思想

盾持人埴輪には、盾を持ちながら、

けらけらと笑っているものがあります。

 

笑う盾持埴輪.jpg

 

(先生の講演資料より)

 

三人の 武人は、盾をいかめしく構えながら、

どうしたわけか笑っています。

笑いによって敵あるいは邪を打ち砕く、あるいは追い払う意味であると、

先生は考えています。

 

先生は、古代の笑いには、辟邪の意味があったと言います。

特に盾持人埴輪には、頭の表現が独特であり、

顔は誇張されて一種の異形になっており、

盾を持ち、初期のころには、前方後円墳の前方部に配置されるなどして、

古墳を防御する意味合いを持っていたところからして、

中国の方相氏の影響が濃厚であると言われます。

  

 

■ さかのぼる日本の方相氏

 

日本ではすでに弥生時代に方相氏の影響が認められると言います。

 

北九州市の城野遺跡から出土した子供の石棺の内部に

4,5歳ぐらいの幼児の歯がありました。

 

石棺の中には、この幼児が葬られていたと推定されます。

すると、内部に描かれた方相氏は、矛をもって魑魅魍魎を追い払い、

子供たちを守護する役目です。

 

石棺に描かれた方相氏.jpg

(先生の講演資料より)

 

左図は石棺の内部に朱線で描かれた人物像。

右図はそれをわかりやすくスケッチしたもの。

右手には棒状のものを持ち、左手には武器を持つ人物像です。

眼も四ツ目のように描かれています。 

 

弥生時代から方相氏の影響は始まって、

古墳時代には「盾持人埴輪」にはっきりと表れてきます。

 

そして奈良時代には、藤ノ木古墳出土の馬具に描かれた人物像や、

法隆寺の乾闥婆(仏法の守護神)へと描かれ続きます。

 

また漢代や高句麗の相撲壁画にも描かれ、

日本の相撲に多大の影響を与えたと言われます。

 

仏教の金剛力士像や、はては歌舞伎の「見得(みえ)」にまで

方相氏の影響が見て取れると言います。

 

金剛力士像.jpg

 

中央 上の図像は乾闥婆。下の図像は漢代の方相氏)

 

 

歌舞伎の見得.jpg

 

(先生の講演資料より)

 

■ 方相氏の伝来のしぐさ

私たち日本の文化は、方相氏から多大の影響を受けました。

節分の豆まきから古墳時代の埴輪、仏教守護神の像やお面、

はては歌舞伎の見得やしぐさまでその影響下にあります。

 

先生は、方相氏の伝来としぐさを下記のようにまとめています。

 

  • 漢代に成立(文献と考古資料)
  • 日本列島には弥生時代(早ければ前1世紀)
  • 盾持人埴輪に影響を及ぼした
  • 盾と武器を持ち、見得を切るようなしぐさ(=辟邪)
  • 相撲の起源も漢代にあり、日本には6世紀に
  • 土俵入りや四股などの仕草も古い
  • 方相氏は金剛力士などの起源か?
  • 歌舞伎の見得もその影響か?→ 隈取は?(先生の講演資料より

 

■ 土偶について

縄文時代後期中ごろから関東地方では土偶が作られ、

それが縄文後期後半に「みみずく土偶」とよばれる形に変化していきます。

 

なぜそう呼ばれるようになったのか。

先生によれば、

それは、土偶の目、耳、口が二重丸の形をしており、

あたかも鳥のミミズクのような形からそう呼ばれるようになったと。

 

ミミズク土偶も始原の形は変わっていました。

 

図1 みみずく土偶 (1).JPG

 

 

(先生の資料より)

 

古い順に左から並べています。

最初は4頭身であったのが、

次第に3頭身へと変貌していきます。

そして次の図になりますと2頭身へとなっていきます。

 

図1 みみずく土偶 (2).JPG

 

(先生の資料より)

 

 

時代が新しくなればなるほど頭が大きくなっていきます。

 

先生は、現代の各地域のマスコットキャラクターと比較します。

頭でっかちで緊張感を欠き、どこかユーモラスな特徴は、

「ユルキャラ系」であり、縄文の土偶たちもそのような変遷をたどったと。

 

● みみずく土偶の額の突起

先生はそれを「櫛」とみています。

また頭部が大きく誇張されているのも、

櫛と頭髪であり、頭髪には祖先の遺髪も含むような風習があったと。

● 耳かざり

ほとんどが粘土を焼いて作った土製の耳飾りです。

縄文中期に始まり、

縄文後期後半から晩期にかけて、

 

関東、北陸、中部地域で爆発的に流行しました。

 

耳飾りの形やデザイン、文様は、様々なものがあり、

その違いと同一性は、

どこの部族の出身だとか、

どこの土地から来たヒトであるとか、

同じ部族、違う部族、出身地の違い、

これらを識別する機能と役割を担っていたと先生は言います。

 

また耳飾りをつけるヒトの社会的ステータスを表すものでした。

いわば縄文の社会も、ある程度の階層性を帯び始めていました。

 

もちろんそれらに加えて、

各地域のファッショントレンド(美意識)も付加されたに違いありません。

 

長野県や群馬県には、ほんとうに素晴らしい耳飾りが豊富に産出されています。

 

縄文の後期後半から晩期にかけて、

社会は階層化とともに複雑性を帯び始め、

社会、気候、環境ららの変動に伴い、

耳飾りをつけることは、

自分の属する地域部落への帰属意識を持ち、

それが社会の秩序と統一性を高める方向に働いたと、

先生は見ています。

 

 

■ 魏志倭人伝の黥面

 

「倭人の男性は、身分の高い人も低い人もみなイレズミをしている」

 

3世紀に中国で編纂された「魏志倭人伝」には、

当時の倭(日本)の国の人びとのことをこのように書いています。

 

この記述ははたして本当のことだったのでしょうか。

先生は、考古学的な事実に目を付けます。

もちろん日本の文献では、古事記・日本書紀があり、

これらの文献の記述上の事実と、考古学的事実を突き合わせる作業です。

 

 

 イレズミ絵画.jpg

 

(先生の講演資料より)

 

愛知県の亀塚遺跡から発見された3世紀、

つまり魏志倭人伝と同じ時期のものにあたります。

 

壺形の土器には、

細い線で顔が描かれています。

額から目を通て鼻の脇を通り抜ける線が描かれています。

口の下の顎にも線が入っています。

目じりにも線が入っています。

 

これらの顔面上の無数の線の束は、

あきらかに「黥面」(げいめん)、顔のイレズミです。

特徴として、眼には瞳は無く、眼と頬からの線刻、

そして目じりから耳の方面へかけての線刻です。

 

先生はこの愛知県の亀塚遺跡出土の「黥面絵画」から出発して、

彼方此方からの出土品に描かれた黥面絵画」を見て回ります。

すると、愛知県域と岐阜県域さらに岡山県域と香川県域に、

さらに関東地方では、千葉、茨木、群馬に見つけることができました。

 

ただ不思議なことに近畿地方には皆無ということが分かりました。

なぜ近畿地方には皆無なのか。

 

黥面絵画(3~4世紀).jpg

 

(先生の講演資料より)

 

 

 

黥面埴輪.jpg

 

(先生の講演資料より)

 

 

■ 日本書紀の黥面

「夏四月十七日、阿曇連浜子(あずみのむらじはまこ)を召して、

言われました。『お前は仲皇子とともに反逆を企てて、国家を傾けようとした。

死罪にあたる。しかし大恩を垂れて、死を免じて額に入れ墨の刑とする』と。

その日に目の縁に入れ墨をした。時の人はそれを阿曇目といった。」

(履中天皇条)

(先生の引用文は、日本書紀の原文のままですが、現代語に改めました。)

 

古事記にも入れ墨の記述はありますが、

日本書紀にも4ヶ所入れ墨の記述があります。

 

入れ墨の記述は、すべて、刑罰もしくは差別としての記述です。

 

お気づきでしょうが、弥生時代には倭人は入れ墨をしていて、

これが古墳時代を通って奈良時代へと移り変わるにつれ、

中国大陸からもたらされた思想により、

刑罰として扱われるようになりました。

 

先生は、「埴輪にみるイレズミの歴史的意義」として次のように言います。

 

〇 弥生時代のイレズミ=辟邪

〇 古墳時代のイレズミ=古墳を守る盾持人=方相氏か?

            辟邪+武人

〇 黥面埴輪と古事記・日本書紀=男子のみ、下層階級、芸能、隼人系

〇 黥面は、律令期には差別的扱い

 

■ 記紀が表したイレズミ

記紀では、明らかに刑罰としてのイレズミが表現されています。

しかも記紀の他の記述では、イレズミは下層階級の人々がするものであり、

また辺境の民、蝦夷(えみし)とか隼人(はやと)がするものであると見下し、

イレズミに対し差別的な思想を持ち始めています。

 

そして黥面絵画の近畿地方における空白は、

吉備や濃尾地方とは違って、

中国古来のイレズミに関する思想をいち早くキャッチし、

ヤマト政権は中国同様、イレズミを蛮族の風習と看做し、

ヤマト政権の政治的な配慮の中に組み込んだ結果だと先生は言います。

 

それが3世紀における近畿地方の黥面絵画の空白の意味であり、

また8世紀の記紀の記述に映し出されることにもなったわけです。

 

 

■ まとめ

以上、先生は多くのことを語ってきましたが、

ここで最後のまとめとして次のように簡潔にまとめます。

 

● 古墳時代の笑い=辟邪=異形に通じる

● 大陸からの文化の波及=方相氏=異形

● 相撲と歌舞伎=現代芸能のルーツ

● 異形としての黥面

● 異形の差別化=主客転倒

 

含蓄に富んだ「笑いと異形の考古学」、

先生、ほんとうに長時間にわたり有難うございました。

 

第2部 対談

設楽 博己先生と右島 和夫先生による

 

対談.JPG

 

 

右島先生の方から話が始まります。

「第二部の対談は、第一部がメインのメニューなら、

メインの御馳走の後のデザートに当たるもので、

あまり研究の堅い話は抜きにして進めましょう、」と言うことで、

肩の凝らない話から始まりました。

 

考古ボーイ。

聞きなれない言葉ですが、

設楽先生は自分を振り返ってこのように言います。

 

小学校2年生のころ、

兄に連れられて前橋の西新井遺跡で遺物を拾い始めたのが、

考古少年としての出発であったと設楽先生は言います。

 

兄さんの方は別な道を歩み始めましたが、

考古少年の設楽先生は、この道ずっと60年、

つまりこの小学校2年生のころから数えると60年の歳月を、

考古学の研究に勤しまれてきたわけです。

 

西新井遺跡の遺物を、小学校2年生の彼が、近くに住む尾崎喜佐雄先生に見せ、

尾崎先生からは講評していただいたと彼は思いで深く語ります。

 

また右島先生も、この設楽考古ボーイには感銘し、

自らの歩んでこられた人生の軌跡と照らしあわせているようにも見受けられました。

 

考古学の二人の巨匠を迎えての今回の講演会、

設楽先生、右島先生、ほんとうに有難うございました。

深謝。

ー終わりー