◆終了した講演会◆令和 4年 1月 23日

今回の講演会は、先生方のご都合により、

第一部と第二部を入れ替えました。

そして最後の部には、両先生の対談をいれました。

 

第一部

右島 和夫先生

演題:東日本最大の太田天神山古墳を探る

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太田天神山古墳は墳丘長210mある東日本最大の古墳です。

関東地方の内陸部に入ったところに位置しています。

さて、先生が言うのには、

日本全国、古墳の大きい順に30位までを並べてみますと、

1位から27位までは奈良県と大阪府に位置している古墳です。

「ヤマト王権のお膝元に(畿内地域)に当たるわけだから、

当然と言えば当然である。残りの3基はと言うと、2基が岡山県

(岡山市造山古墳、総社市作山古墳)で、1基が群馬県ということになる。」

 

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(バックに映し出されているのは、太田天神山古墳)

 

■ 太田天神山古墳の特徴

1)冢(ばいちょう)

天神山古墳の北方と北東方に古墳が二つあります。

前者はA冢、後者は女体山古墳と呼ばれる小さな古墳です。

A冢は、主墳である天神山古墳と明確な有機的関係があり、

正真正銘の冢と云われるものであると先生は言います。

「陪冢が確認できる、主として、5世紀の大阪の古市・百舌鳥古墳群

を中心とした畿内地方に限られており、それ以外の地域では数えるほどしかない。」

 

冢の存在は、畿内の王権と遠く離れた群馬の関係を浮かび上がらせます。

 

2) 長持形石棺

太田天神山の埋葬形式としては、長持型石棺があります。

群馬県では伊勢崎市にあるお富士山古墳にも同型の長持型石棺があります。

先生に言わせると、

東日本広しといえども、長持型石棺が見られるのは、太田天神山とお富士山の二つだけということです。

5世紀のころ、畿内の最大級の前方後円墳では、盛んに見られ、

「大王の石棺」と呼ばれたとのことです。

畿内の技術者がはるばる東国までやってきて、

これらの石棺を作成したと考えられています。

長持形石棺.jpg

 

(お富士山古墳 長持形石棺ー 右島先生講演会資料よりー)

 

3)水鳥形埴輪

関東地方の古墳ではめずらしく、

ほとんど発掘されない埴輪です。

長持形石棺と同様、畿内からはるばる技術者たちがやってきて、

この地で制作したものと考えられています。

水鳥形埴輪.jpg

 

(水鳥形埴輪ー右島先生 講演会資料よりー)

 

太田天神山古墳が、東日本最大の古墳と云われるのは、

やはり畿内の王権との密接な関係性が見て取れ、

東国のこの地が大和王権にとっても、相当な重要性を帯びていた証でもあるでしょう。

 

第二部

徳田 誠志 先生

演題:日本最大の前方後円墳 仁徳天皇陵

 

 徳田誠志先生.JPG

 

 

■ 陵墓とは

仁徳天皇陵は陵墓です。

それなので、私たちにはなじみの薄い陵墓とは何かから話が始まります。

今回の先生のお話で、

わたくし自身も陵墓とは何か、初めて知ることができました。

陵墓のまず陵は、天皇、皇后、太后皇后、皇太后の埋葬地です。

陵墓の墓の方は、上記以外の皇族の埋葬地です。

陵は188あり、墓は555,分骨所・仮装塚等110,陵墓参考地は46,

合計899あり場所としては460か所に上ります。

 

 群馬県の陵墓候補

明治8年、群馬県の総社二子山古墳に政府の管理人(墓掌)を置きます。

明治9年には解除となります。

崇仁天皇の皇子である豊城入彦命の墓として推定されたが、

解除となり、指定から外されました。

その後、前二子古墳が地元の要望により、検討されましたが、

やはり治定には至りませんでした。

 

■ 百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録

令和の時代になって我が国最初の世界遺産登録です。

その理由として、

「顕著で普遍的な価値。

土製建造物のたぐいまれな技術的到達点を表し、

墳墓によって権力を象徴した日本列島の人びとの歴史を物語る顕著な物証」

 

■ 反対意見もあった

1)天皇陵を世界遺産にして見世物にしていいのか。

2)未だ仁徳天皇陵として明確な確証がないのに、

それを世界遺産に登録していいのか。

 

上記のような反対意見がありましたが、

UNESCOの世界遺産に登録することは、

「顕著で普遍的な価値」を有するものである以上、

全人類の利益のため、宮内庁としてもこれに取り組んでいく、

ということで結着を見たとのことです。

 

■ 密集した古墳群

百舌鳥古墳群のエリアも大小さまざまな古墳が密集しています。

また古市古墳群のエリアも大小さまざまな古墳が密集しています。

世界遺産登録を考えたとき、大規模な仁徳天皇陵と応神天皇陵のみを

世界遺産として登録すべきであろうという意見がありました。

両古墳の周囲4キロメーター四方には、

前方後円墳、ホタテ型、円墳、方墳といった古墳の大きさによる

社会序列を表す古墳形式が密集しています。

これが「社会的階層」と「政治的構造」を顕著に表しています。

したがって、これらの表象を具現している古墳群を一つのまとまりとして、

世界遺産へ登録したわけです。

 

これらの古墳群は、高度な土木技術、測量技術を駆使し、

膨大な労働力をシステマティックに使役・管理し、

またその組織のささえるロジスティックを運営し、

その組織の裏にいる膨大な家族を養うという経営力が必要だったわけです。

今から1600年前のことです。

 

■ 古墳とは墓+葬送の場

土製構造物.jpg

 

(徳田先生 講演資料より)

 

古墳は「入念で独特な葬送儀礼の証左」です。

円筒埴輪は、その外は俗界を表し、内は聖なる世界を表すとされています。

古墳の形式ならびに葬送の儀式も、

同一の形式、同一の儀式を共有することで、

精神上のつながりと同一の社会秩序のなかにいるという共同意識をもたらすものでした。

それは畿内から遠く離れた東国の太田天神山古墳の被葬者でも同じでした。

 

■ 仁徳天皇陵 第1堤の調査結果

仁徳天皇陵 第1堤調査.jpg

 

(徳田先生 講演会資料より)

 

内堤(第2濠側)では埴輪列が検出されました。

このことは、発掘前から想定内のことでした。

ところが内堤上面では「石敷」が検出されました。

これは想定外のことでした。

 

補正済み 石敷.jpg

 

(徳田先生 講演会資料より)

 

仁徳天皇陵よりこのような石敷が検出されるとは、

検出に立ち会った人々の驚きでした。

それでは、これに似た石敷の例はあるのでしょうか。

先生によれば、

それは仁徳天皇皇后 磐之媛命 平成坂上陵

(にんとくてんのうこうごう いわのひめの ならさかのえのみささぎ)

つまり仁徳天皇の皇后陛下の陵にあるとのことです。

それは磐之媛命(ヒシアゲ古墳)の内堤上面において検出されています。

 

先生は言います。

「同時期の和泉最大の古墳(仁徳天皇陵・大山陵)と大和最大の古墳

磐之媛命・ヒシアゲ古墳)に同じ遺構(内堤上面石敷)が存在」

 

仁徳天皇の妃は言うまでもなく葛城襲津彦、(かつらぎのそつひこ)の娘です。

仁徳天皇の2年に立后し、仁徳天皇30年に八田皇女を宮中に入れたことに激怒し、

天皇とは別居。以後、天皇の元には帰ってきませんでした。

 

現在の所、石敷が見られるのは、この2古墳のみであるとのことです。

 

先生は次のように考察します。

「百舌鳥・古市古墳群」に最大級の前方後円墳が築造

◇同時期に「佐紀古墳群(東群)に200m級の前方後円墳が築造

◇「コナベ古墳」・「ウワナベ古墳」・「ヒシアゲ古墳」

◇大和にも大王墓級の前方後円墳を築造する勢力が存在

◇両古墳群には「婚姻関係」の伝承

 

上記のことからして、

古墳時代中期の政権構造は、

畿内諸勢力の連合体による連立政権

と結論付けています。

 

■ 未来に向けての課題

仁徳天皇陵を取り巻く環境も随分と変化を蒙り始めています。

戦後、農村から都市型へと変化し、

それに伴い天皇陵のお堀の水も

江戸時代から灌漑用水としての役割を担ってきましたが、

ここにきて農業用水としての役割を終えました。

また天皇陵の樹木も、

かつては薪炭としての価値もありましたが、これも減少しました。

 

さて、お堀の水の水質を確保するにはどうしたらいいか、

気候変動による自然災害にはどう対処するか、

このような問題も出てきています。

 

未来へ引き継ぐためには、

「① 陵墓としての存在価値を継承

② 世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」の資産としての保護

③ 地域社会と連携した取り組み」

 

1600年の歴史の中で、宮内庁の管理となってたかだか150年です。

多くの期間、地元の人たちの誠意と努力によって、

営々と天皇陵は守られてきたわけです。

これからはやはり地元の人たちの熱意ある協力を仰ぎ、

世界遺産登録という世界に向けての約束をした以上、

陵墓として、世界遺産として、これを守っていくことが最重要であると認識されています。

―終わりー