◆終了した講演会◆令和 2年 11月 29日

令和2年(2020)2月よりコロナウイルスの影響で、

第1回5月17日、第2回7月5日、第3回9月27日の計3回ものお休みをいただきました。

 

 

今回は、思い切って、コロナ下ではありますが、

会場経営者の御好意もあり、また多くの皆様のご要望もあり、

11月29日は開催いたす運びとなりました。

ただ会場への入場は、三密を避ける意味で、

30名の群馬県人のみの限定という形での開催となりました。 

(今回の開催については、入場できなかった方々へは、

両先生の講演資料のみをお渡しし、引き取っていただきました。

お詫び申し上げます。)

 

第1部は田中 史生先生の講演でした。

■東方へ移動した中国系知識人と倭王権

ー漢字文化を伝えた人々とその行方ー

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30名限定という誠に少人数での講演でしたが、

受講者の方々は熱心に先生の講演に聞き入っていました。

 

第2部は右島先生の講演でした。

■ 考古学から見た古墳時代群馬の渡来人

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右島先生の講演は、元来は、「東日本最大の太田天神山古墳を探る」でしたが、

今年5月17日の講演会が延期となり、

田中先生との共同公演ならびに対談となり、

演題のテーマを変更して、「考古学から見た古墳時代群馬の渡来人」となりました。

 

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 第3部 対談

田中、右島両巨匠による対談もすばらしく聴衆を引き付けるものでした。

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第1部 田中 史生先生の講演の内容

東方へ移動した中国系知識人と倭王権

ー漢字文化を伝えた人々とその行方ー

 

日本の漢字、この文化は一体だれがどのようにして日本へ伝えたのでしょうか。

大変、興味あるお話です。

 

新撰姓氏録

先生によれば、816年に編纂された「新撰姓氏録」によると、

①和俗氏族 (70%)

②蕃族氏族 (30%)

という内訳で、この蕃族氏族の中で漢50%、百済32%、高麗12.6%、新羅2.8%、

任那2.8%という内訳になるとのことです。

 

でもこの数字には、中国系と称している東漢氏(あずまのあやうじ)は、

安羅国の出身者だという説が、現在では有力とのことです。

したがって、中国系移民の数字は、実際よりも小さいというのが、先生のおはなしです。

 

■1. 5世紀の渡来人

日本列島の各地には、考古学上、5世紀の渡来人の痕跡が多数あると言います。

その背景は、威力を増した高句麗の南下政策があり、

そのあおりを食らったのが韓半島南部の百済と伽耶南部諸国でした。

当然、百済と南部諸国とは、倭(日本)との同盟を強化し、

人、物、資機材、文書等を日本へ送り、

日本との軍事的連携を強化するということになりました。

 

ただ、考古学では、中国系渡来人を明確にはとらえていないとのことです

先生は、倭王武と百済王慶が中国本土の皇帝へ送った上表文を掲げます。

上表文の中では、倭、百済とも晋書、三国志、後漢書、史記の順に使用頻度が高くなっています。

何らかの形で中国系の知識人が上表文の作成に与かったに違いありません。

 

■五胡十六国の乱世と高句麗・百済

先生の言うところに耳を傾けます。

「4世紀初頭、華北の諸部族が反乱、晋は南に追われ、

華北は五胡十六国の分立興亡時代。楽浪郡・帯方郡からの流民の発生」

当時の高句麗は、楽浪郡・帯方郡からの亡命移民を受け入れました。

そして彼らを積極的に利用しました。

 

高句麗は力をつけ、南下を開始します。

新羅は高句麗に服属します。

が、百済は亡命した中国人たちをやはり積極的に採用します。

彼ら中国人たちは、晋への回帰志向を持っていた知識人でした。

そして高句麗に対抗し、日本とは連携を強化します。

 

百済は日本へ文物や技術者を贈り、

その見返りに軍事的援助を求めます。

この枠組みの中で、百済の亡命中国人たちは、百済経由、日本へ移住します。

これが、先ほど引用した上表文には、

晋の語句引用が目立つ所以です。

 

2. 中国系人士の姓と文化

5世紀の倭では、姓はありませんでした。

倭王族のみが、対外的なことで、姓を名乗ることはありました。

先生は、中国の「晋書」を引用しつつ、

「家」が文化継承の場であることを力説しています。

「家」は代々、同姓の子息が継承し、

知識人たちは、書物を抱えて、戦乱を逃れ、

「家」の文化の継承に努めました。

 

姓を継承することは、家の文化を継承することだったと先生は言います

 

ところが、中国の姓と文化は、「家」を中心として続きましたが、

この文化が日本(倭)へ来ると、「家」は消滅して、

日本の王権が組織した大きな「氏族」に包含吸収されます。

 

雄略紀 八年の春二月の条:

「身狭村主青」(むさのすぐりあお)・檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)

をして呉国(くれのくに)に使しむ。」

 

八年二月に呉に使し、十年九月に帰国しました。

そしてさらに十二年四月また呉に使され十四年正月に帰国します。

 

先生によれば、文字技能者の身狭村主青と檜隈民使博徳は、

6世紀に渡来系技術者を集めて編成した東漢氏(やまとのあやうじ)の姓の一つであると、

看做しています。

 

中国系移住民の「姓」は消えましたが、

一方、中国系高句麗人・百済人たちは、5世紀以前の中国系の「姓」を継承しています。

「6世紀に百済から渡来した諸博士は中国系の姓。

五経博士:段楊爾・高安茂・王柳貴・馬丁安

易 博士:王道良

暦博士 :王保孫

医 博士:王有俊陀

採薬 師:潘量豊・丁有陀

彼らはみな中国系の知識人かその子孫にあたります。

 

最後に先生は言います。

「百済の4・5世紀の易・暦専門家は中国系知識人。6世紀の渡来の易・暦博士はその子孫か」と。

また続けて「9世紀末の『日本国見在書目録』収録の梁代の多様な書物は、百済の諸博士によって

もたらされた可能性がある」と。

 

漢字の伝来という日本にとってまたとない文化の移入は、

上記のような人々、つまり中国系知識人、そして

高句麗、新羅、百済にいた中国系の子孫の人たちによって日本へもたらされたようです。

特に百済の知識人たちによるところ、大のようです。

現在でも、私たちの漢字は、呉音読みがほとんどです。

呉、中国の江南地方の音と云われています。

それが中国から直接入ることもあり、また百済経由、日本へ入ってきたわけです。

ですので、呉音のことを別名「百済音」とも呼んでいます。

 

日本の文化の礎になった漢字文化。

これらをもたらしてくれた渡来人たちに感謝感謝です。

 

第二部 右島先生の講演内容

ー考古学から見た古墳時代群馬の渡来人ー

 

先生の言うところを下に要約します:

■ 群馬へ入ってきた渡来人

東日本の中でも、群馬へは5世紀前半に渡来人は入ってきました。

主に西毛地域、利根川以西の榛名山麓に居住しました。

そして考古資料として、韓式系軟質土器を残しています。

先生の説明によると、「土師器に近い酸化炎焼成土器」、

つまり浅い穴を掘ってそこへ土器を入れ、焼成するやり方で、

700度~800度ぐらいの温度での野焼きの一種です。

これらは、当然、穴窯を使い脱酸素状態で焼成させる須恵器とは、

かなりかけ離れたものでした。

野焼きの場合、酸素が十分ありますので、

土器は焼成後、赤くなっています。

 

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(韓式系土器 高崎市下芝五反田遺跡出土)

これらの土器は、当時の朝鮮半島南部諸地域に見いだされる土器と共通点を持っています。

これらは、渋川市から高崎方面にかけての遺跡に頻繁に見出されています。

 

渡来人の古墳

群馬の地に移り住んだ渡来人たちは、自分たちの墓、つまり古墳を築造しました。

 

当時の古墳は、一般的には、前方後円墳、ホタテ貝式古墳、円墳等が主流でした。

(円形原理)

これに反し、方形原理を持った古墳があります。

これは渡来人の痕跡が関係していると思われています。

富岡氏後賀中割遺跡と昭和村岩下清水古墳群です。

 

富岡氏後賀中割遺跡は一辺約30m、二段築成の方墳です。

鏑川左岸に位置していて、右岸を見下ろす形になっており、

この右岸側が、5世紀から馬生産の基地(官牧)であったことが想定されます。

 

■ 渡来人利根川北上

ー岩下清水古墳群ー

渋川市の北方、利根川の上流にもあたる狭隘な山間部に、

岩下清水古墳群があります。

榛名山の軽石噴火層に覆われて、調査を始めると、

それらが3基の古墳であることが判明しました。

方墳2基、円墳1基です。

方墳は小規模で、墳丘はすべて石で構成される積石塚でした。

 

この地は、農耕には適していない土地でありながら、

なぜ古墳群が形成されるようになったかは、

この古墳群と同時期に、子持山南麓には馬生産が盛んに行われているという事実、

これにあるかと思われます。

 

古墳の被葬者は、当然、馬に関係する地域のリーダー格と想像されます。

それに積石塚ですから、やはり、渡来系の人びとの墓であるという事実も否定できません。

 

 

渋川市内から国道17号線を北上すると、

古墳時代の馬の放牧地跡の遺跡が見つかった「白井」に出ます。

6世紀第二四半期の榛名の噴火で積もった2mほどの軽石層を除去すると、

無数の馬の蹄跡が見つかった場所です。

蹄跡は、直径7cm~13cmほどの大きさで、50,000平方メートルの地面から発見されています。

また「白井」の近くには、「甲を着た古墳人」が見つかった金井東裏遺跡がります。

 

甲を着たままの状態で、火砕流が襲ってくる西側へ頭を向け、

両腕、両膝を折り曲げた格好で、発見されました。

顔面の骨の形質から、渡来人系であるとみなされています。

また左腰あたりに砥石(といし)と刀子(とうす。小型ナイフ)を所持していました。

この砥石と刀子を腰から下げる習慣は、基本的には、韓半島からのものです。

新羅から始まって大伽耶、百済などでも盛んに使われました。

したがって、渡来人とともに日本へ入り込んできたものです。

 

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(提砥 「さげと」と刀子:群馬県埋蔵文化財調査事業団蔵・展示)

 

■ 剣崎長瀞西遺跡(高崎市剣崎在)

高崎市の八幡台地の北に位置しています。

烏川と碓氷川にはさまれた台地です。両河川からの比高は20mほどです。

両河川からの水害からは完全に守られた台地上に、渡来人の足跡が残っています。

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上掲の写真は、剣崎長瀞西遺跡の1区です。

1区の手前が(写真には見えませんが)2区にあたります。

1区と2区合わせて、5世紀後半の住居跡47軒が発見されました。

このうち14軒から韓式系土器が発見されています。

 

この写真の右手下の方墳と積石塚の跡が見えます。

小さな円墳を中心とした古墳群ですが、この中に方墳3基と積石塚5基が見出されています。

 

この遺跡の特徴として、

① 馬の埋葬土壙が発見されています。

② 馬の轡(くつわ)が馬とともに出てきました。

③ 金工品(垂飾付耳飾り)が出てきました。

④ 土器では、韓式系土器が数多く出ています。

⑤ 古墳等の墓地に関しては、方墳と積石塚があります。

 

この列挙したものを眺めてみると、

どうしてもこの地には朝鮮半島からの渡来人がやってきて住み着いていた、

という事実が浮かび上がってきます。

そして墓制を見る限り、円墳と方墳等が仲良く混在している以上、

きっと倭人と渡来人たちは仲良く共存関係を保ち、

年月とともに倭人の中へ同化していったとみてもいいのでしょう。

ー終わりー