◆終了した講演会◆令和 元年 11月 24日

令和 元年 11月 24日(日)

今回は、清水豊(しみずゆたか)先生です。

この「歴史と文化を学ぶ会「」では、初めての登場です。

  ー古墳時代の災害を考えるー

     榛名30年物語

 

先生は、榛名山麓にある「かみつけの里博物館」で次長の役職を務めています。

当然、榛名山麓に関して詳しい知識をお持ちの方で、

今回の講演の内容は、その榛名山の噴火にうずもれた遺跡、

そして5世紀中ごろから6世紀中ごろにかけて榛名の噴火で被災した場所、

被災前後の動態、またそこから見えてくるものは何か、

これらを語っていただくことになります。

 

IMG_7477.JPG

 

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今回も、東京から、神奈川から、栃木から、

また高崎在住の方々、また高崎以外の県内の多くの方々、

合わせて153名の参加をいただきました。

 

先生の講演会資料から今回の講演の骨子を抜粋します。

■ 今回、考える主題的なテーマ

1.時代 5世紀後半~6世紀中ごろ

2.地域 高崎市北部

 三ツ寺豪族居館が存在する場所

3.何を見るか。

 豪族居館跡、集落跡、耕作地跡(畑・水田)

4.何を知りたいか。

 6世紀初頭に起きた榛名山噴火で被災した場所の被災前後の動態、

 そしてそこから見えてくるものは何か。

5.それを知って、何につなげるのか。

 地域の環境特性を知り、防災、減災につなげることを自分事とする。

 

今回の講演の骨子と要約

 

■榛名山 二ツ岳の噴火

 

榛名 保渡田地域.jpg

 

          (講演会資料より)

 

■6世紀初頭の噴火 渋川テフラ(Hr-FA)

榛名二ツ岳噴火1.jpg  

            (講演会資料より)

火口源である二ツ岳は、榛名湖畔に隣接する榛名富士から約2kmぐらい渋川よりに位置しています。

従って、テフラ(火山灰や火砕流堆積物)は渋川方面に集中しました。

渋川テフラと呼ばれています。

図中央の細い赤線が四重五重に描かれていますが、

これがこれが二ツ岳から噴出した火山灰と火砕流堆積物です。

S1~S15の下層からみて15層に分かれています。

 

金井東裏遺跡では、S1~S3、そしてS7が積もりました。

火山灰の降りしきるなか、馬や人々が歩いて避難する光景が、

その足跡に残されています。

S7は火砕流で、建物は崩壊し、多数の人たちが無くなりました。

火砕流の中には、火山弾とよばれる砲弾のような噴出物があり、

相当な衝撃を家屋や古墳に与えました。

 

上記の図で見ると、火砕流は一部、保渡田古墳群まで到達していたことがわかります。  

この古墳群から1km離れたところに「首長館」がありました。

 

三ツ寺居館跡.JPG

 (三ツ寺I遺跡 首長居館の模型 かみつけの里博物館展示)

 

この噴火を契機として、「首長館」はその機能を停止しました。

深さ3~4mの堀には、黒色度が40cmほど積もっていて、

その上に渋川テフラが20cm堆積しました。

 

三つ寺首長館.jpg

                                     (講演会資料より)

 

      

■6世紀中ごろの噴火(伊香保テフラ Hr-FP)

榛名山噴火2.jpg

          (講演会資料より)

 この時の噴火も、火砕流は保渡田古墳群あたりまできています。

このあたりから少し上方の下芝付近では、

水が沸騰しました。相当な高温であったと想像されます。

 

この首長居館は、6世紀初頭の渋川テフラで機能を停止しました。

その機能停止した首長居館にあ、6世紀中ごろの噴火はさらに追い打ちをかけ、

土石流が流れ込み、堀底から120cmの高さまで埋没しました。

 

榛名連峰.JPG

 上記の写真は、現在の保渡田古墳群の八幡塚古墳にあたります。

正面向こうが榛名連峰です。

 

首長居館は無くなったものの、

保渡田古墳群近辺の田畑は、壊滅的な被害は免れています。

もちろん放棄された耕地もありますが、

テフラ降下中にも耕作を継続した多くの箇所もあり、

また火山灰の堆積の中でも、

大畦畔は埋没しきっておりません。

従って、火山灰を鍬きこんで畦畔をつくり、

水田の耕作を継続しています。

 

現在の群馬町から高崎の浜川町あたりの水田は、

かなり継続して田畑を耕すことができました。

榛名山麓から流れ出る水流も堰止められなかったことが、

幸いしています。

東谷川、唐沢川、猿府川、井野川、

そして車川、榛名白川、烏川等も、火山灰や火砕流の直接被害を蒙らなったことが、

保渡田古墳群を中心とする榛名南東麓の平野地帯の復旧を早からしめた、

と言ってもいいでしょう。

もちろん、首長をはじめとする村人たちの連帯感、

当時は、村は、運命共同体のようなものでしたから、

互いの紐帯意識は高かったでしょう。

これらも復旧を早からしめた原因とも思われます。

 

これに反し、渋川方面の被害は相当なものでした。

渋川テフラ(Hr-FA)で、金井東裏遺跡や中筋遺跡は壊滅しました。

6世紀中ごろの伊香保テフラ(Hr-FP)では、上記遺跡のそと側にある黒井峯遺跡、

白井・吹屋遺跡も壊滅しました。

 

保渡田古墳群は幸運でした。

二子山古墳も八幡塚古墳もその建立を終え、

ちょうど薬師塚古墳建造中に渋川テフラ(Hr-FA)の降下があったわけです。

この方面には火山弾なども飛んできていません。

古墳は無事でした。

-終わりー